小説
イオの末裔
〔Kindle版〕
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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金瓶梅 |
キンペイバイ |
小説 |
中国、明代の長編小説で、全百回。『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』と並ぶ四大奇書の一つ。明の万暦(ばんれき)年間(1573~1620)に書かれたとされている。最初に出版された版本に、作者は蘭陵(らんりょう)の笑笑生(しょうしょうせい)と書かれているが、それがどこの誰なのか分かっていない。
そのほかの四大奇書とは全く違う種類の小説である。人間離れした英雄・豪傑は登場しないし、神や妖怪も登場しない。『金瓶梅』に登場するのは当たり前の世間に暮らす、碌でもない俗物ばかりである。俗物というのは色と欲だけで動くような人間のことである。しかも、『金瓶梅』ではそんな人間の暗黒面が徹底的に写実的に描かれる。その意味では現代の社会派小説とでもいうべきものである。
物語の舞台は北宋の徽宗(きそう)皇帝の御代で、山東省清河県のこととされている。主人公は猟色家(りょうしょくか)の西門慶(せいもんけい)で、その女性関係が物語の軸になっている。当然、西門慶と関係する女性の数は多いが、その中でも代表的な潘金蓮(はんきんれん)、李瓶児(りへいじ)、春梅(しゅんばい)という女性の名から、それぞれの一字を取って題名とされている。
西門慶と潘金蓮は、『水滸伝』にも登場している。『水滸伝』では、潘金蓮は西門慶と不倫した挙句、共謀して夫の武大(ぶだい)を殺したため、武大の弟で、梁山泊の豪傑の一人である武松(ぶしょう)に殺されるのである。『金瓶梅』では物語の冒頭にこの事件がおかれている。ただし、こちらでは西門慶も潘金蓮もこの事件では死なない。西門慶に殺そうと居酒屋に呼び出した武松は誤って県の小役人を殺してしまい流罪となってしまうのだ。こうして二人は生き延び、西門慶は潘金蓮を第五夫人として迎えるのである。
ところで、この西門慶はただの薬屋の旦那である。そんな男がどうして何人も夫人を抱えるほど羽振りがいいのか。実は西門慶と先妻の間にできた娘が都の高官の親戚に嫁いでいた。このコネと賄賂を使って西門慶は県の役人たちに取り入り、商売を繁盛させ、さらには県庁に出入りして他人の訴訟の口利きをして手数料を稼いだりしていたのである。そして、西門慶はどんどん出世するのである。物語が進むにつれ、質屋・糸屋・反物屋・塩の売買・運送業にまで事業を拡大し、地方の大商人に成り上がるだけではない。賄賂の力で提刑所理刑(県警副長官)という官位まで手に入れ(のちに長官になる)、その勢力は県知事と肩を並べるほどになるのだ。
その間、女あさりの方も終わることがない。潘金蓮を第五夫人にした西門慶はその女中・春梅に手を出す。莫大な財産を持つ男を陥れて財産をかすめ取った挙句に、その妻だった李瓶児と関係し、第六夫人にする。だが、それでも飽き足らない西門慶は使用人たちを出張させてはその妻と情事にふけるのである。物語が始まったころに二十五六歳だった西門慶もやがて三十代になる。当然、精力も衰える。しかし、西門慶は薬や性具の力を借りてまで情事にはげむのである。
とはいえ、そんな西門慶の運も傾き始め、やがて終りの日が来ることとなった。李瓶児には官哥(かんか)という子ができたが、これをねたんだ潘金蓮が猫を赤い布に飛びつくように仕込んで官哥に飛びかからせた。官哥はひきつけを起こし、それがもとで病死し、李瓶児も悲しみのあまり病死した。その後も西門慶は事業を拡大し、女あさりを繰り返すが、やはり体力には限界がある。ある日、王六児という人妻と激しい情事のあとで酔っ払って帰宅した西門慶は潘金蓮に言い寄られたものの元気が出ない。すると、潘金蓮、眠ってしまった西門慶の口に大量の秘薬を酒と一緒に流し込んだのである。あわれ、西門慶は一物を膨らませたもののそこから血が噴き出して死んでしまった。
ここからは西門家の没落、一家離散の物語である。財産は他人にくすねられ、ほとんどの女たちが不幸な結末を迎える。潘金蓮は大赦によって帰郷した武松に殺され、武松は梁山泊へ向かう。春梅は治安担当武官の妾になるが、浮気相手との情事が過ぎて急死する。ただ、正妻の呉月娘だけは普段から仏教の信仰が篤かったので、その果報を得て薬屋だけになった自宅でつつましく余生を送るというのである。 |
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