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フランボワイヤン・ワールド
中国神話伝説ミニ事典/図書編
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

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《内容》
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三国志演義
サンゴクシエンギ
小説
 中国明代初期に成立した長編歴史小説。『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅(きんぺいばい)』とともに中国の四大奇書とされ、中国ではもちろん日本でも、最も長く、そして最も広く読まれている中国の小説といってよい。作者は羅貫中(らかんちゅう)とされるのが一般的である。
 『三国志演義』(以下『演義』)は題名の通り三国時代の史実をもとにした歴史小説で、その根本には陳寿(ちんじゅ)(233~297)の著した正史『三国志』がある。また、宋・元代には『三国志』をもとにした講談が盛んに演じられ、『三国志平話』などの通俗小説も書かれた。これらが総合されて出来上がったのが『演義』である。
 史実をもとにしているといえば、『西遊記』や『水滸伝』もそうだが、これらは史実から遠く離れた荒唐無稽な物語となっているのに、『演義』はほぼ史実にのっとっているところに大きな特徴がある。様々な刊本があるが決定版といえるのは清初に毛宗崗(もうそうこう)によって刊行された全120回の『毛宗崗本』である。

 物語は後漢末の黄巾(こうきん)の乱とともに始まる。これをきっかけに漢王朝は滅び、それから魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国鼎立(ていりつ)の乱世が100年続き、数多くの英雄豪傑たちが登場して華々しい戦いを繰り広げるのである。当然、登場人物の数も尋常ではなく、400人を超える。
 正史と大きく違うのは、『演義』では三国のうち蜀を正統とみなすことである。正史では三国は公平に扱われているが、一応は魏が正統ということになっている。
 それで、『演義』では善玉となるのは蜀の英雄豪傑となるわけだが、なんといってもその中心となるのは温厚な主人公・劉備(りゅうび)、忠義一徹の英雄・関羽(かんう)、乱暴者の豪傑・張飛(ちょうひ)であり、希代の大軍師・諸葛亮(しょかつりょう)である。また、沈着冷静な武将・趙雲(ちょううん)もいる。
 これに対し、ついに魏王となる曹操(そうそう)は正史と同じく権謀術数にたけた武将ではあるが、乱世の奸雄(かんゆう)といわれるようないかにも非情な悪玉とされる。
 呉を支配することになる孫堅(そんけん)、孫策(そんさく)、孫権(そんけん)などは幾分地味な扱いをされているが、ここには諸葛亮にライバル心を燃やす智将・周瑜(しゅうゆ)が登場する。
 また、単騎では最高に強いが、どうにも信用ならない流浪の豪傑・呂布(りょふ)というのもいる。

 このように数多くの英雄たちが次々と登場する長編小説なので名場面も数多い。いくつか紹介しておこう。
 まず最初の名場面はやはり「桃園結義(とうえんけつぎ)」である。184年、黄巾(こうきん)の乱により天下がおおいに乱れたとき、朝廷は賊徒討伐の義勇軍を募った。これを機に劉備・関羽・張飛が出合い、意気投合して義兄弟となり、生死を共にしようと誓うのである。

 しかし、劉備はその後の勢力争い中で曹操や孫氏に出遅れてしまう。曹操は後漢の献帝(けんてい)を担いで河南・河北一帯を支配し、孫氏も軍師・周瑜を得て江東に勢力を伸ばしたのに、劉備は荊州(けいしゅう)付近を支配する劉表(りゅうひょう)の客分として無為の日々を送るのである。この状況を変えるのが諸葛亮孔明(こうめい)の登場である。孔明は太公望とも比せられる大軍師だが、荊州で晴耕雨読の生活をしていた。そのことを人から聞いた劉備がわざわざ三度もその家を訪ねて味方に迎えるのである。これが有名な「三顧の礼」の名場面で、時に207年のことである。

 この孔明から劉備は天下三分の計を授けられ、とりあえず三国鼎立を目指すことになる。ここで起こるのが「赤壁(せきへき)の戦い」である。208年、曹操は江東平定を狙って軍をすすめた。このとき劉備は孫権と手を結び、長江の赤壁でこれを迎え撃った。そして孫権軍の宿将黄蓋(こうがい)が投降すると偽って敵船団に火を放ち、曹操軍を敗走させたのである。これによって曹操の南進および天下統一の夢は破れ、数年内に曹操、孫権、劉備がそれぞれ王となり、魏・呉・蜀による三国鼎立の時代が始まるのである。

 最終的には天下統一を狙う蜀はその後も繰り返し魏を攻めるが、その間に関羽も張飛も劉備も死んでしまう。こうして物語も終盤に近づいてくると、それからは孔明の独り舞台である。
 223年に劉備が死にその子の劉禅(りゅうぜん)が皇帝となったが、それから孔明は呉との同盟成立、南方の異民族の平定に取り組んだ。そして228年から234年まで、魏に対して六次にわたる北伐を行った。その最後を飾るのが「五丈原(ごじょうげん)の戦い」である。この戦い、蜀軍50万と魏軍30万が渭水(いすい)南岸の五丈原で対陣するが、蜀軍がいくらしかけても魏軍は動かない。魏の名将・司馬懿(しばい)はすでに孔明の死期が近いことを察知していたからだ。その予想通り、孔明は長年の無理がたたって陣中に没し、蜀軍は退却を開始した。これを知った司馬懿はこのときとばかり追撃に出た。しかし、孔明に命じられた通りに「木造の孔明像」を車に乗せて整然と退却する蜀軍を見て踏みとどまった。ここから、「死せる諸葛、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす」という諺ができたのである。
 ここまでが『演義』の主要な物語である。この後も蜀や呉が滅亡し、魏から生まれた晋が280年に天下を統一するまで物語は続くのだが、この辺になると語り口も急ぎ足で、とってつけたような印象がある。
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