小説
イオの末裔
〔Kindle版〕
販売開始しました。 |
|
《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
|
水滸伝 |
スイコデン |
小説 |
天罡星(てんこうせい)36柱、地煞星(ちさつせい)72柱の生まれ変わりとされる108人の豪傑たちが次から次と破天荒な大活躍をする、 中国明代の小説。『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』とともに中国四大奇書のひとつとされる。
『水滸伝』は中国に起こった実際の事件をもとに、長い時間をかけて現在の形に成長したものである。
その昔、中国にあった宋は北宋と南宋の時代に分けられる。この北宋の最後の皇帝・徽宗(きそう)の宣和(せんな)年間(1119~1125)に、現在の山東省(さんとうしょう)のあたりに強盗の一味が登場し、大いに暴れ回った。この一味の頭領が宋江(そうこう)という名で、配下が36人だったのだ。彼らは官軍さえも討ち負かし、安徽省(あんきしょう)、江蘇省(こうそしょう)、河北省、河南省にも侵入した。この盗賊集団の末路は、官軍に投降したとも朝廷に帰順して方臘(ほうろう)の反乱を鎮圧したともいわれていてはっきりしない。しかし、この盗賊集団の活躍が民衆の想像力を刺激し、『水滸伝』のもとになるような物語が作られるようになった。
南宋時代(1127~1279)には、『水滸伝』に登場する個々の豪傑たちを主題にした、『青面獣(せいめんじゅう)』(楊志(ようし))、『花和尚(かおしょう)』(魯智深(ろちしん))、『武行者』(武松(ぶしょう))などといった講談が上演されるようになった。
元代(1271~1368)になると、これまでに書かれた個々の物語をまとめた『大宋宣和遺事(たいそうせんないじ)』という歴史読み物も登場した。総大将の宋江のほかに36人の豪傑が登場する物語で、内容は簡略だが、豪傑たちが梁山泊に結集し、朝廷のために方臘を討伐するという枠組みができあがっている。この時代に人気のあった演劇の中には、36人の大頭領の下に72人の小頭領がいたというセリフもあり、『水滸伝』のメンバーが108人になったこともわかる。
これが現在あるような大長編小説『水滸伝』として最初にまとめられたのは、明代(1368~1644)初期のことで、編者は羅貫中(らかんちゅう)とも施耐案(したいあん)ともいわれる。
その物語は大きく分けると、前半と後半の二部構成になっている。
『水滸伝』に登場する108人の豪傑たちは、運命のいたずらで、結局は梁山泊に結集することになった山賊たちの親分である。親分たちの下には、最盛期では十万を超える手下がいた。梁山泊は彼らの寨(とりで)の名前で、梁山泊という水沢地にあったのでそう呼ばれたのである。
これだけの豪傑が一度に梁山泊に集まってくるわけがないので、物語はこの108人が梁山泊に結集する前とその後とに大きく分けられる。
大集結以前の前半部分は、いうなれば豪傑たちの義士銘々伝(ぎしめいめいでん)で、これらの豪傑たちの個人的な活躍が取り上げられている。あくまでも個人的な活躍で、『水滸伝』全体の物語とはあまり関係のないものが多い。しかし、そこが『水滸伝』の最もおもしろい部分でもある。
これが、後半になってがらりと変わる。後半部分は戦記物語で、梁山泊集団が宋という国の軍隊となって、敵対勢力との戦争を繰り広げるのである。
『水滸伝』では物語全体が何回かに分けて語られるが、現在日本で翻訳されている『水滸伝』にはこの回数が100回のものと120回のものがある。小説後半の戦記物語の部分に遼国戦争と方臘討伐が語られるのが百回本で、百二十回本では遼国戦争と方臘討伐の間に田虎討伐と王慶討伐の話が追加されている。
このうち百回本の方が明代初期に成立したものに近いと見られている。百二十回本はその後増補されたもので、増補者は楊定見(ようていけん)である。
だが、これが『水滸伝』のテキストのすべてではなく、明代末には金聖嘆(きんせいたん)が改変し、七十回本というのが生まれた。これは108人の豪傑たちが梁山泊に勢ぞろいしたところで終ってしまうもので、物語の最もおもしろい部分だけがあるというものだ。そのため、それ以降の中国ではこの七十回本が『水滸伝』の主流となったのである。 |
|
|