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フランボワイヤン・ワールド
中国神話伝説ミニ事典/図書編
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
大唐西域記
ダイトウサイイキキ/ダイトウセイイキキ
旅行記
 中国唐代の高僧・玄奘(げんじょう)三蔵(602~664)によってなされた西方取経の旅の旅行記。また、当時の印度(インド)・西域諸地域に関する非常に優れた地誌ともいえる。全12巻。13世紀のヴェネチア人マルコ・ポーロの『東方見聞録』、9世紀の日本人僧・円仁の『入唐求法巡礼行記』とともに世界三大旅行記ともいわれる。
 玄奘は幼少のころより仏法を学んだが、さまざまな疑問に出会うにつけ、是非とも印度に赴いて疑問を解決し、かつ仏教経典を入手したいと考えるようになった。しかし、7世紀という古い時代に中国から印度へ旅することなど全く想像を絶する危険極まりないことであり、太宗皇帝はそれを許さなかった。そこで玄奘はついに禁令を破って印度へ旅することを決意した。
 629年8月に長安を出発した玄奘は、タクラマカン砂漠とゴビ砂漠の間にある玉門関という関所を出て、高昌故地(カラコージャ)、阿耆尼国(カラシャール)、屈支国(クチャ)から天山南路の北道を通り、パミール高原を越えて印度に入った。そして健駄羅国(ガンダーラ)、迦湿弥羅国(カシミール)など北印度の各地を巡歴し、中印度の摩掲陀国(マガダ)に至った。そこで5年間那爛陀(ナーランダ)寺に留まり、さらに東・南・西印度の各地も歴遊し、天山南路南道を通り、瞿薩旦那国(コータン)を経て645年2月に長安に帰国した。この間に玄奘が旅した国は110カ国、持ち帰った仏教経典は657部に上った。
 『大唐西域記』はこれら実際に玄奘が旅した110カ国と伝聞による28カ国についての詳細な報告である。その内容は各国の概要から始まり、仏教遺跡・気候・風土・習俗・言語・地理・物産・伝説など、非常に広範囲にわたっている。完成したのは帰国翌年の646年7月で、玄奘自身の旅行記録や印度の書物をもとに、玄奘の指導のもと弟子の手でまとめられたと見られている。
 この書は7世紀の印度や西域諸国を記録した唯一のものであり、現在でも重要資料とされているのは当然だが、玄奘三蔵が未知の世界を旅した事実は人々の想像力を刺激し、それをもとにした物語も作られた。その代表が『西遊記(さいゆうき)』であり、この小説では玄奘は三蔵法師と呼ばれている。
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