小説
イオの末裔
〔Kindle版〕
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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墨子 |
ボクシ |
思想書 |
中国の戦国時代初期(紀元前五世紀ころ)に活躍した墨子(ぼくし)(本名は墨翟(ぼくてき))の思想をまとめた書。ただし、墨子本人が書いたのはごく一部でほとんどはその思想を受け継いだ墨家(ぼくか)の人々の手になるといわれる。全53篇。『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし)には71篇とされているが、18篇は失われてしまった。
墨子に始まる墨家は紀元前5世紀半ばから紀元前3世紀半ばまで、孔子(こうし)に始まる儒家と並んで諸子百家の中の2大勢力だった。そのことは3世紀の書である『韓非子(かんぴし)』「顕学(けんがく)篇」にも記されている。しかし、3世紀半ばに秦の始皇帝が全国統一を成し遂げてから、墨子の思想を受け継ぐものはなくなり、突如として絶学の道をたどることになった。どうしてそうなったか、大きな謎とされている。
そんな『墨子』再び注目されたのは19世紀の清朝末期、西欧列強の進出の前に中国が危機的状況を迎えていた時代だった。そのときになって、中国人は「西欧的な学問がすでに『墨子』の中にある」ことを発見したのである。
では、『墨子』の語る思想とは何なのか。
『墨子』の中心思想は十論にあるといわれる。十論はそれぞれ上中下の三篇で構成されており、その一部は失われてしまっているが、そのタイトルと内容は次のようになっている。
・「尚賢」能力主義を唱える
・「尚同」統治者に従えと教える
・「兼愛」自他ともに愛せと教える
・「非攻」侵略戦争を否定する
・「節用」「節葬」節約を唱える
・「天志」「明鬼」天帝や鬼神への信仰を勧める
・「非楽」贅沢としての音楽を否定する
・「非命」宿命を否定する
なかでも、兼愛と非攻は墨子思想の特異さを示す代表とされている。
兼愛はもちろん自他ともに愛することだが、それは儒家のいうような家族愛や国家愛とは全く違っている。家族愛や愛国心は自他を区別するが、そのような区別をせずに万人を愛せというのである。封建諸国がしのぎを削った戦国時代にこんな思想があったというだけで不思議ではないだろうか。当然、墨家は儒家を否定するし、儒家および他の諸子百家は墨家を否定することになった。
同じように、侵略戦争を否定する非攻もまた戦国時代とは思えぬ思想で、「非攻上篇」には次のような記述がある。
「一人の人間を殺せば、これを不義といい、必ず一人の死刑が行われる。この論法でゆけば、十人を殺せば、不義は十倍となり、必ず十倍する死刑が行われよう。これらのことは、天下の君子がみなよくわきまえて非難し、不義とよんでいる。ところが国を攻めるという大きな不義を行うばあいには、非難しようともせず、かえってそれを誉めて正義であるといい、それが不義であることを知らない。そのために国を攻撃した話を後世に書き残してきた。もしこれが不義であることを知っておれば、どうしてこの不義の事実を後世に書き残すようなことがあろうか。」(『中国古典文学大系5韓非子 墨子』、平凡社)
しかも、『墨子』の思想は単なる空想的な理想主義でもなかった。墨家教団は団結力が強く、宗教集団のようであり、同時に兵法家・技術者の集団でもあり、防御のための戦いはいとわなかった。それを表す逸話が、『墨子』の「公輸(こうしゅ)篇」にある。公輸盤(こうしゅはん)が楚(そ)国のために雲梯(うんてい)(ハシゴ車のような攻城兵器)という機械を発明し、宋を攻めようとしたときのことである。侵略戦争を嫌う墨子は出かけて行って楚王に面会し、宋を攻めないように説得した。そして、机上で模擬戦を行い、公輸盤の繰り出すすべての攻撃を防いだ。最後に、「ここで私を殺しても無駄です。私の弟子300人が私の作った防御の道具を持ってすでに宋の城に入っているからです」といい、楚の攻撃を中止させたのである。つまり、墨家教団は小国の依頼によって、城を守るための戦いを実際に請け負っていたのである。このことは、『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』のような歴史書からもうかがうことができる。
したがって、墨家の思想には様々な攻撃に対する防御法も含まれているので、『墨子』の第51「備城門篇」から巻末の第71「雑守篇」にはそのための技術や道具について具体的に記されているのである。 |
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