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フランボワイヤン・ワールド
中国神話伝説ミニ事典/地名編
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垓下
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中国歴史
地方
 中国古代、前202年に漢の劉邦が楚の項羽を滅ぼした決戦の地。この戦いの直後、劉邦が皇帝となり漢王朝が成立した。現在の安徽省霊璧県、淮水の北の平原にあった。
 前206年の秦の滅亡後は西楚覇王となった項羽を頂点とした体制が敷かれ、劉邦は漢王となった。この待遇に不満だった劉邦は前205年から反項羽の戦いを始めた。これから、劉邦と項羽の戦いは一進一退を続け、前203年には休戦協定が結ばれ、滎陽(河南省滎陽)の鴻溝を境に天下を二分し、西を漢、東を楚とする協定が成立した。そこで、項羽は東、劉邦は西に帰ろうとした。だが、軍師張良などの計略で、劉邦軍は項羽を追いかけ、ついに垓下において項羽軍を包囲した。
 劉邦と項羽の勢力は、抗争が始まった当初から項羽の側が圧倒的に優位であり続けたが、この時点では形勢は完全に逆転していた。夜、砦にいた項羽は周囲を取り巻く漢軍の兵たちがみな楚の歌を歌っているのを聞いた。これによって、項羽は本来なら味方になるべきはずの楚人の多くが漢軍に降っていることを知った。にっちもさっちもいかない状況を「四面楚歌」というのはこの故事に由来するものである。
 ここにおいて項羽は愛姫虞美人をかたわらに決別の酒宴を開き、有名な「垓下の歌」を詠じた。「力は山を抜き、気は世を覆う。時、利有らずして、騅行かず。騅行かざるをいかんせん。虞や虞や汝をいかんせん。」と。「騅」は項羽の名馬、「虞」は虞美人である。そして翌朝、項羽はわずかな供回りだけを引き連れて囲みを破り、烏江まで逃れた。しかし、ついに自らの命運が尽きたことを悟ると首をはねて自殺した。
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