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フランボワイヤン・ワールド
中国神話伝説ミニ事典/地名編
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五丈原
ゴジョウゲン
三国志
戦場
 中国の古戦場。現在の陝西省(せんせいしょう)岐山県(きざんけん)にある。234年、三国時代の蜀(しょく)の英雄・諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))が陣地を敷き、司馬懿(しばい)(仲達(ちゅうたつ))率いる魏(ぎ)軍と対峙した場所として有名。
 223年に劉備(りゅうび)が死にその子・劉禅(りゅうぜん)が皇帝となってから、蜀のすべての権限を握った孔明は呉との同盟成立、および南方の異民族の平定に取り組んだ。そして228年、長年の夢である中原(ちゅうげん)の回復に向けて魏に対する北伐を開始した。以降、孔明は234年までに6次に渡る北伐を行ったが、その最後の戦場となったのが五丈原だった。
 234年2月、孔明は蜀の総力を結集した10万の兵を率いて関中(かんちゅう)を出発、褒斜道(ほうしゃどう)を通って秦嶺(しんれい)山脈を越え、渭水(いすい)南岸の五丈原に布陣した。これまでの5次に渡る北伐失敗の反省から、2年間かけて兵糧を整え、武器も一新していた。また、五丈原一帯でも屯田を行うなどして、長期戦に対する備えを固めた。
 一方、魏の司馬懿は30万の大軍を率いて長安を出発、やはり渭水を渡って南岸に砦を築いて蜀軍と対峙した。しかし、司馬懿は防備を固めるばかりで決して蜀軍と交戦しようとはしなかった。
 孔明は繰り返し司馬懿に挑戦状を送り、最後には婦人物の衣服を送って「女々しいやつ」と侮辱した。これには司馬懿も腹を立て、一時は挑発に乗りそうになった。だが、魏の明帝(曹叡(そうえい))から派遣された辛毗(しんぴ)が帝の厳命としてそれを引き止めた。
 このころ、孔明からの使者が司馬懿と会談したが、司馬懿は孔明の生活が「多忙を極めて夜も眠らず、食事も少ない」と聞き、孔明の死期が近いことを確信したという。
 こうして両軍の対峙が100日あまりも続いた8月、孔明は長年の無理がたたって陣中に没し、蜀軍は退却を開始した。これを知った司馬懿はこのときとばかり追撃に出た。しかし、あまりに整然と退却する蜀軍を見て踏みとどまった。ここから、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という諺ができたという。
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