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フランボワイヤン・ワールド
中国神話伝説ミニ事典/地名編
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汜水関・虎牢関
シスイカン・コロウカン
歴史・三国志演義
 中国の古戦場。後漢末期の190年、漢王朝の献帝(けんてい)を擁した董卓(とうたく)軍と反董卓連合軍が戦った。
 189年、黄巾(こうきん)の乱後の混乱の最中に董卓は軍勢を率いて洛陽(らくよう)に入り、少帝を廃して献帝を擁立し一気に権力を握った。これに反発した袁紹(えんしょう)、曹操(そうそう)らは洛陽から逃げ出し、故郷で董卓打倒の準備に取り掛かった。翌年正月、曹操の呼びかけに応じる形で、反董卓の連合軍が結成された。後将軍の袁術(えんじゅつ)、冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥(かんぷく)、豫州刺史(よしゅうしし)の孔伷(こうちゅう)、兗州(えんしゅう)刺史の劉岱(りゅうたい)、河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)、陳留(ちんりゅう)太守の張邈(ちょうばく)などの有力諸侯が多数加わり、渤海(ぼっかい)太守の袁紹が盟主となった。小説である『三国志演義』ではこれを十八路諸侯軍と呼んでいる。
 この動きを見て董卓は2月に献帝を洛陽から長安(ちょうあん)に移して遷都を断行し、自分は洛陽にとどまり、富豪の財産を募集したり、帝陵を暴いて金銀財宝を奪ったりと暴虐の限りを尽くしたという。
 一方で、これを打つべき反董卓連合軍の武将たちは酸棗(さんそう)、南陽、潁川(えいせん)などに駐屯したまま動こうとしなかった。しびれを切らした曹操は単独で進軍したが、滎陽(えいよう)での戦いに敗れた。だが、洛陽に近い魯陽(ろよう)まで軍を進めた孫権(そんけん)は一度は敗れたもののついに董卓軍を破った。
 ここで董卓は汜水関、虎牢関に援軍を派遣して守りを固めた。しかし、191年4月、董卓は完全に洛陽を放棄して長安に撤退し、汜水関と虎牢関は陥落した。
 『演義』ではこの戦いで劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)の三兄弟が大活躍したことになっているが、それはフィクションである。
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