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中国の古戦場。現在の湖北省嘉魚(かぎょ)県にある。後漢末の208年、曹操(そうそう)と劉備(りゅうび)・孫権(そんけん)連合軍の決戦があった。
200年、官渡(かんと)の戦いで袁紹(えんしょう)軍を破った曹操は以降7年をかけて袁氏を滅ぼし、河北を平定した。これによって、曹操は河南と河北を合わせた地域を統一した。
曹操と並行するように南方では遜権が長江以南の東側の広大な地域の支配を固めた。
劉備はといえば、このころは荊州付近を支配する劉表(りゅうひょう)の客分として無為の日々を送っていた。だが、207年には諸葛孔明(しょかつこうめい)を味方に迎えるという収穫もあった。
そして208年。華北を統一したばかりの曹操が次なる動きとして荊州に向けて大軍を南下させた。ところで、この直前荊州では劉表が病死し、次男の劉琮(りゅうそう)が跡を継いでいたが、劉琮は曹操の動きを知ると戦わずして降伏してしまった。曹操とは完全に敵対関係にあった劉備はびっくりして南方へと逃げ出した。長阪坡(ちょうはんは)における張飛(ちょうひ)の活躍で劉備が九死に一生を得たのはこのときだった。
慣れない水戦による困難を予想していた曹操は気をよくし、計画を変更し、さらに南方の孫権討伐を決意した。
こうした動きに遜権陣営は動揺した。しかし、多くの臣下が降伏を勧める中で、魯粛(ろしゅく)や周瑜(しゅうゆ)が曹操との決戦を主張した。とりわけ魯粛はすぐにも当陽(とうよう)に避難していた劉備を訪ね、遜権との同盟を勧めた。この時点で劉備が動かせる勢力など高が知れていたが、劉備には人望があり、荊州でも人気があった。そこで、魯粛は前々から劉備との同盟を考えていたのだ。
こうして、劉備・遜権連合軍と曹操軍の間で赤壁の戦いが起こることになった。
曹操軍は江陵から船団を組んで長江を下ってきた。孫権軍は長江南岸の赤壁に布陣し、それに襲い掛かった。水戦に不慣れな曹操軍は最初の戦いからつまずき、ひとまず北岸の烏林に引き上げた。こうして両軍は長江をはさんで対峙した。
ここで、曹操は水戦に不慣れな兵たちのために持久戦の構えで船を連結し、要塞のようにした。
一方、孫権軍では宿将黄蓋(こうがい)が曹操に投降すると偽って火計を仕掛けるという作戦を周瑜が採用した。その日、黄蓋は10艘の小船を先頭に投降と見せかけて曹操陣営に向かった。小船には油を染み込ませた枯れ草や薪が満載されており、幕で覆われていた。そして、敵軍近く迫ったところで船に火を放ち、体当たりを敢行した。このときたまたま東南の風が激しく吹いたので、船を連結してあった曹操の船団はいとも簡単に炎上し、陸上の陣までも焼き払われた。壊滅的打撃を受けた曹操はわずかな手兵とともに北方へ落ち延びるしかなかった。
こうして、曹操の南進、ひいては天下統一の夢は破れ、曹操(魏(ぎ))、孫権(呉(ご))、劉備(蜀(しょく))による天下三分への道筋が定まったのである。
『三国志演義』ではこの戦いでは、孔明が南屏山に壇を築き、祈祷で東南の風を起こすなど大活躍したことになっている。だが、現実には遜権との同盟を成立させたくらいの活躍しかしていない。勝利は孫権軍の周瑜、魯粛、黄蓋らの活躍によるといってよい。
また、曹操軍は勢力ははるかに優勢だったが気候風土の違いから疫病が流行し、士気が低下していた。兵のほとんどは北方出身で水戦に不慣れだった。さらに曹操自身にも油断があり、黄蓋の投降を受け入れたことも敗因となった。
→官渡、長阪坡 |
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