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太平天国 |
タイヘイテンゴク |
歴史 |
国 |
19世紀中ごろの中国で、洪秀全(こうしゅうぜん)を指導者として、清朝に抵抗する形で興った民衆国家。最初広西で興り、後に南京(なんきん)を首都天京(てんきょう)とし、1851年(道光30)から1864年(同治3)まで存続した。その目的は人間はみな兄弟姉妹的な、身分差別および私有財産のない完全に平等な社会の建設であり、孔子の『礼記(らいき)』にある「大同世界」を理想とした。
洪秀全は広東の客家(はっか)の農民出身で、29歳までに科挙の試験に四度落第した。その三度目の落第後にショックのあまり病気になり、夢の中で中国の最高神である天帝から不思議なお告げを受けた。その後、彼は偶然にもキリスト教の布教パンフレットを読み、不思議な神のお告げに独自の解釈を加えた。つまり、天帝とは唯一絶対のキリスト教の神エホバであり、自分こそ堕落した中国を救うべき使命を与えられたものだと考えたのである。だが、ほとんどの地元の人々は洪秀全を狂人とみなした。
洪秀全は少数の有志たちと太平天国の前身となる拝上帝会(はいじょうていかい)(上帝会)という結社を作り、1844年ころから広西で布教活動を始めた。そして貧しい人々や疎外されていた客家の人々に大いに受け入れられた。だが、この運動は旧秩序を徹底的に否定するものだったので地方の富裕層と衝突し、最終的に清朝そのものとの衝突をもたらした。
1850年、上帝会員数万が広西の桂平(けいへい)県金田(きんでん)村で決起し、本格的に清軍との戦闘を開始した。翌年には上帝会は軍組織も整備し、洪秀全は天王を称し、太平天国の建国を宣言した。
その後、広西での戦いを経て、太平軍は湖南省、湖北省、江西省、安徽(あんき)省を次々と攻略した。湖南省に入ったときにはわずか数千だった兵力は、各地で参加者を増やし、南京を目前にしたときには20万を超す大勢力になった。太平軍は「滅満興漢(めつまんこうかん)」(満州族の清朝を滅ぼし、漢民族の国を建てる)をスローガンにし、各地で富者の財産を奪って貧者に分け与えたりした。
1853年、太平軍はついに南京を占領し、名称を天京とあらためて首都とした。しかし、これが太平天国の絶頂期だった。
太平天国は南京で、土地の私有を禁止して男女に関わらず平等に配分したり、纏足(てんそく)、アヘン、飲酒を禁止するなど様々な施策を行った。だが、一般人には禁欲主義を要求しながら、重要な幹部たちには多妻を認めるなど多くの矛盾をはらんでいた。洪秀全などは、100人内外の妻を持ち、宮城の奥に引きこもり、特別な幹部を通して政務を行うだけになってしまった。幹部の中には横暴になる者や疑心暗鬼になって他の幹部を虐殺してしまうものまで現れた。
これに対して清朝の側では、曽国藩(そうこくはん)や李鴻章(りこうしょう)が組織した義勇軍が台頭し、大いに活躍するようになった。また、この時代には英仏米なども中国を狙っていたが、2度のアヘン戦争を経た1860年に清朝との間に北京条約が締結された。こうして、太平天国は英仏からも敵視されることになり、首都天京には英仏軍や曽国藩の義勇軍などが殺到した。
1864年5月までに、太平天国は天京を除くすべての支配地を失い、完全に追い詰められた。同じころに洪秀全は病に伏せ、6月1日に死んだ。その50日後の7月19日に天京は陥落した。
こうして太平天国は消滅したが、その運動は後の時代に大きな影響を残した。 |
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