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フランボワイヤン・ワールド
中国神話伝説ミニ事典/地名編
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長安
チョウアン
歴史
都城
 洛陽(らくよう)と並ぶ中国の代表的な古都の一つ。現在の陝西省(せんせいしょう)の省都、西安の旧名である。自然の要害といえる地にある。黄河(こうが)の支流である渭水(いすい)の両岸に広がる平原のほぼ中央に位置し、北には黄土高原へと連なる山々があり、南には秦嶺(しんれい)山脈が連なる。秦漢(しんかん)時代からこのあたりは関中(かんちゅう)と呼ばれたが、それはこの地が東の函谷関(かんこくかん)、西の散関、南の武関、北の蕭関(しょうかん)という四つの関所に囲まれていたからだった。

 長安が都とされたのは前漢時代が最初で、その名は秦代の長安郷に由来していたが、「長しえに安らかであれ」という願いも込められたという。その後、前趙(ぜんちょう)・前秦・後秦・西魏(せいぎ)・北周(ほくしゅう)・隋・唐が長安を都とした。ただ、前漢から北周までの長安と、隋・唐時代の長安は少しだけ場所が違っていた。また、前漢以前にも周の都の豊と鎬、秦の都の咸陽(かんよう)がこの付近にあった。
 前漢の長安は計画的な都市ではなく、高祖劉邦が前200年に秦の離宮(りきゅう)のひとつ「興楽宮」を改築して長楽宮と称したことから始まった。そして徐々に発展し、七代武帝の時代に最盛期を迎えた。当時の人口には諸説あるが、約50万といわれることもある。城壁の長さは東壁5940、南壁6250、西壁4550、北壁5950mだったが、全体の形は幾何学的に整ってはいなかった。

 後漢時代になると都は洛陽に移ったため長安は衰退し、さらに後漢末の混乱期を経て廃墟となった。その後、前趙・前秦・後秦・西魏・北周がここを都としたことで長安は一時的に復興したが、時代とともに老朽化は進んだ。
 そこで、581年に隋朝を建国した文帝楊堅は、漢の長安城の東南約10kmの地に新都城を作ることを命じ、583年に遷都が実現した。これが隋の都の大興城で、後に唐に継承されて長安城となるのである。
 大興城の設計は当時28歳だった宇文愷という天才建築家が担当し、天命によって地上世界に君臨する王者の居城にふさわしいものとして、宇宙を模倣して作られた。当時の中国には、天は張蓋(かさ)のように円形で、地は碁盤のように四角形をしているという「天円地方」の宇宙イメージがあった。その結果、大興城は全体が四角形で、内部は東西11、南北14条の都大路によって区画された碁盤のような形になった。全体の大きさは、唐代の長安城と同じとすれば、東西9721m、南北8651.7mだった。
 また、大興城では原則として、地形などによってやむをえない一部分を除いて、左右対称の配置方式が取られた。都の中央北端に東西が2820.3m、南北が1492.1mの宮城があり、その南に同じ大きさの皇城(官庁街)があった。その皇城の朱雀門(すざくもん)から都の南の明徳門まで幅150mの朱雀大街が走り、これを中心軸として市場や巨大寺院が左右対称となるように配置された。

 618年、この大興城がそのまま唐に継承されて長安城となった。そして、唐の都長安は世界に名だたる大都市へと発展した。この時代、長安の人口は100万を超え、150万に達したともいわれる。常時数万の外国人も滞在しており、国際色も豊だった。
 以降、長安は則天武后(そくてんぶこう)が都を洛陽に移した時期を除き、唐の都として繁栄したが、黄巣の乱後は急速に衰微した。唐末には、実権を握った朱全忠(しゅぜんちゅう)によって都は洛陽に移され、長安の宮殿や役所、邸宅などは解体されてしまった。そして、これ以降は長安が中国の都となることはなかった。

→咸陽、洛陽
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