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中国の戦国時代、『楚辞(そじ)』の主要な作品の作者とされ、中国人の間で熱烈な人気のある詩人、屈原(くつげん)が投身自殺したとされる川。湖南省北東部、洞庭湖(どうていこ)の近くにある。
屈原は楚(そ)の貴族の出身で、楚の懐王(かいおう)の信任を得て三閭大夫(さんりょたいふ)の地位にまで上った有能な政治家だった。名は平、原は字(あざな)。
当時、周辺諸国の制覇を狙っていた秦(しん)は戦略として遊説家の張儀(ちょうぎ)を楚に派遣して秦・楚の連合を説かせていたが、屈原はこれに反対し、秦ではなく斉(せい)と同盟すべきだと主張した。だが、彼の才能をねたんだ上官の中傷によって懐王から遠ざけられた。しかも、懐王は誘われるままに同盟を結ぶために秦に入り、捕虜となって死んだ。次に即位した頃襄王(けいじょうおう)も取り巻きたちの意見を入れ、屈原を洞庭湖周辺の江南に追放した。以降、屈原はその地を放浪して暮らしたが、やがて秦が楚の都の郢(えい)を陥(おと)すと、絶望した屈原は石を抱いて汨羅(べきら)の淵に身を投げて死んだ。「離騒(りそう)」「九歌」「天問」「九章」などの屈原の代表的な詩はこうした境遇の中で作られたものだった。
屈原が汨羅に身を投げたのは5月5日だったが、その後は楚の人々は彼を哀れに思い、毎年その日がくると竹筒に米を入れて水中に投げ込むようになった。後漢(ごかん)時代に欧回(おうかい)という者がその汨羅で見知らぬ人に出会った。その人は「われは三閭大夫なり」と名乗った上で、「わたしを弔ってくれるのはありがたいが、贈られた物はいつも蛟に取られてしまうのだ。そこで、できることなら楝(おうち)で包んでくれるとありがたい」といった。これから、端午の節句には楝の葉と五色の糸で包んだ粽(ちまき)を供えるようになったという伝説もある。
→洞庭湖 |
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