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フランボワイヤン・ワールド
中国神話伝説ミニ事典/地名編
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洛陽
ラクヨウ
歴史
都城
 長安(ちょうあん)と並ぶ中国の代表的な古都のひとつ。河南省北西部の伊洛盆地にある。東周、後漢、魏、西晋、北魏、武周(則天武后の王朝)、後唐の七王朝が洛陽を都とした。現在では「九朝の古都」といわれるが、九朝の数え方ははっきりしない。
 古来中国では洛陽を中心とした河南周辺地域を土中、中華、中国、中原(ちゅうげん)などと呼ぶ習慣があった。それはこの地域が新石器時代から非常に発達しており、古代中国人にとって世界の中心と意識されたからだった。
 前11世紀頃、殷(いん)を滅ぼした西周の武王は現在の西安(長安)に近い鎬を都としたが、東方には殷の残存勢力が跋扈していた。そこで、成王の代に東方経営の拠点として現洛陽市西部に都城が築かれ、「洛邑」と呼ばれた。また、洛邑の東20kmの場所に「成周」(下都)が築かれた。
 前770年、周の平王は北方異民族の侵入に圧迫され、鎬から洛邑に遷都した。以降、東周が滅亡するまで(前256)、洛邑が国都とされた。
 前漢代になると洛邑が河南県城、成周が洛陽県城となった。洛陽には洛水(らくすい)の陽(きた)という意味があった。前漢代の国都は長安だったが、後漢を興した光武帝は前25年に洛陽を国都に定めた。この洛陽城は東周時代の成周があった場所で、その規模は南北9里、東西6里だったので、「九六城(くりくじょう)」とも呼ばれた。続いて魏、西晋もここを国都とし、洛陽は大いに繁栄した。西晋時代の人口は30万を超えたという。
 五胡(ごこ)十六国の乱世の期間は洛陽は荒廃したものの、鮮卑族の北魏によってそれまで以上の巨大都市となった。494年、北魏の孝文帝が平城(山西省大同)から洛陽へ遷都。501年には次の宣武帝がこれまでの洛陽城を内城とし、その外側に東西20里、南北15里の外郭城「京師」を築いた。この結果、洛陽は従来の約五倍の巨大な都城となった。この時代には都城の戸数は11万近く、寺院の数は1367にのぼった。人口は70万近かったろうという見方もある。しかし、40年後、北魏の滅亡に合わせて荒廃した。
 隋唐時代になって洛陽は再び繁栄を取り戻すが、この時代の洛陽は従来の洛陽とは別な場所にあった。この洛陽は隋の二代皇帝煬帝(ようだい)によって605年から翌年にかけて従来の洛陽から西へ9kmの地に造営された。設計者は長安城と同じ宇文愷だった。ただ、洛陽城は地形の関係で長安城のような左右対称とは行かず、宮城と皇城(官庁街)が西北隅に置かれた。全体は西壁6776m、南壁7290m、北壁6138m、東壁7312mで、内部は25条の大街で113坊(碁盤目状の区画)3市に区分された。
 隋唐時代、洛陽は副都だったが、長安が政治都市だったのに対し、経済都市として繁栄した。唐代途中の則天武后の時代(武周)だけ洛陽は国都とされ、「神都」と呼ばれた。則天武后は洛陽の発展にも貢献し、この時代に洛陽は人口100万を超える巨大都市となった。しかし、この洛陽も唐末の混乱期に完全に荒廃した。
 以降、五代十国時代に後唐が洛陽を国都としたが、もはやかつてのような繁栄はなかった。ちなみに、日本の平城京(へいじょうきょう)や平安京(へいあんきょう)は長安城、洛陽城を参考にしていた。平安京では西半分の右京は長安、東半分の左京は洛陽と呼ばれた。だが、右京は衰退してしまい、京といえば洛陽ということになり、上洛という言葉も生まれたのである。

→長安
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