梁山泊入山後の活躍
◆第一の頭領として終始一貫梁山泊を率いる |
政和7年 |
7月、老父と弟・宋清を迎えるために鄆城県へ帰る。
宋江と一緒に多くの好漢たちが新しく梁山泊に加わったことから、梁山泊では連日にわたって酒宴が開かれたが、三日たったとき宋江は一同に向かい、老父と弟・宋清を梁山泊に迎えるために一度故郷に戻りたいと申し出た(第42回)。晁蓋は一人で帰るのは危険だから、二三日して山寨が落ち着いたら勢揃いで迎えに行けばいいと提案したが、宋江はいますぐ行きたいといい、たった一人で鄆城県宋家村に向かった。ところが、宋江の仲間たちが江州で大暴れしたことから鄆城県の役所でも宋江の行方を追っており、故郷に戻るやいなや宋江は都頭代理の趙能と趙得に追われることになった。宋江は夜道を逃げ出し、とある村の古い廟に入り込み、祭壇の上の厨子の中に身を潜めた。と、このとき不思議なことが起こった。間もなく趙能と趙得が追ってきて帳を明けて厨子の中を覗こうとすると、どういうわけか厨子の中から怪しい風が吹き出して二人の持っていた松明の火を吹き消してしまったのである。二人はこれはきっと神のたたりだといって廟の中の捜索を中止した。さらに、二人が廟から出ていった後、宋江が隠れている厨子の前に青い服を着た童子が二人現れて、「星主さま、星主さま」と宋江に呼びかけた。見たこともない童子なので宋江がびっくりしていると、「宋星主さま、女神さまがお呼びです」という。宋江は何のことやらわからず、自分は宋江という名で、星主などという者ではないといったが、童子たちはとにかく付いてくればわかりますという。そこで、宋江が童子の後について祭壇の後ろの小さな隠し門をくぐると、そこには宋江が見たこともない風景が広がっており、しばらくいくと美しい宮殿があった。さらにその中に入っていくと色とりどりの簾や宝石や燭台で飾られた露台があり、そこに見目麗しい女神が立っていた。女神はおそれおののいている宋江を親切に招き、童女や童子たちに命じて酒食でもてなし、その後で宝石の盆に載せた三巻の天書を宋江に与えた。縦十五センチ、横十センチ、厚さ十センチほどのものだった。それから女神は、「宋星主、あなたはこの三巻の天書を熟読し、天に替わって正しい道を行うように務めなさい。その仕事が終われば、あなたはまた天宮の星に帰ることができます。ただし、この天書は天機星(呉用)と一緒に読んでもかまいませんが、他のものに見せてはなりません」と告げた。宋江がその天書を袖の中にしまったとき、宋江は厨子の中で目を覚ました。何だ夢だったのかと宋江は思ったが、袖の中にはちゃんと天書が入っている。厨子の外へ出てあらためて廟の中を見回してみると、祭壇の上に夢で見たのと同じ美しい女神の像があった。廟の外にはそれが九天玄女の廟だという額が掛かっていた。「ああ、九天玄女さまが助けてくれたのだな」と宋江は思った。このとき村の方からまた喊声が聞こえてきたので宋江はびっくりし、とっさに木の陰に身を隠した。が、逃げてきたのは趙能で、その後ろから李逵、欧鵬、陶宗旺といった梁山泊の仲間たちが追いかけてきた。宋江の身を心配した梁山泊の好漢たちがこぞって宋江の救出にやってきたのである。こうして宋江は救われたが、宋江の老父と弟の宋清もこのとき同時に屋敷から連れ出され、梁山泊に招かれることになった。
|
政和8年 |
1月ころ、祝家荘戦争が起こる。晁蓋は梁山泊に留まって山寨を守り、宋江が梁山泊軍を率いて戦いに出た(第47回)。
8月ころ、高唐州で捕らえられた柴進を救出するために梁山泊軍が編成された。このとき晁蓋は自分が軍を率いていこうとしたが、宋江は山寨の主がそんな軽はずみなことをしてはいけないと注意し、結局宋江が軍を率いることになった(第52回)。この戦いで、高唐州長官・高廉の妖術に驚いた宋江は九天玄女の天書から風を戻し火を返す法を見つけだして使ったが、あまり役には立たなかった。
冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍と戦う。宋江はまだ山寨の主ではなかったが、最初から命令を下し、梁山泊軍を編成した(第55回)。この戦いで梁山泊軍が大敗すると、晁蓋は宋江に山に戻って休息するように勧めたが、宋江は山には登らず、梁山泊のほとりの鴨嘴灘(おうしたん)の水寨に留まった(第55回)。間もなく呼延灼軍との二度目の戦いが始まると宋江はまた梁山泊軍を率いて戦いに出た(第57回)。
この戦いに敗れた呼延灼が青州に雇われて白虎山の孔明を生け捕りにする。桃花山、二竜山、白虎山と梁山泊軍が共同して青州を攻めることになり、宋江は梁山泊軍を率いて出征した(第58回)。
|
宣和元年 |
2月、華州に捕らえられた史進救出作戦が実行される。呉用の作戦で西嶽華山に参詣する朝廷の使節団を装って華州長官・賀太守を華山に誘い出して殺すことが決まり、宋江は朝廷の高官に変装した(第59回)。
史進、朱武、陳達、陽春が兵を率いて芒碭山の山賊・樊瑞らを攻め、宋江は呉用とともに援軍を率いて出発し、苦戦する史進たちを助けた(第59回)。
3月ころ、曽頭市との最初の戦争が起こる。晁蓋が呼延灼を含む二十名の頭領を選んで曽頭市を攻撃したが、この戦いで晁蓋が致命傷を負った(第60回)。山寨に運ばれた晁蓋は、自分を射た奴を討ち取った者を山寨の主にするようにと遺言して死んだが、みなの勧めでこのときから宋江が仮の第一の頭領となった。これと同時に宋江は山寨の中心となっていた建物の名を聚義庁から忠義堂へと改めた。
5月、呉用にだまされた盧俊義が梁山泊方面に旅してくると梁山泊の手下たちがこれを捕らえ、宋江は盧俊義を梁山泊に二ヶ月間も引き止めた(第61回)。このとき、宋江は盧俊義に梁山泊の第一の頭領の座を譲ると申し出たが、盧俊義に拒否された。
冬、北京に捕らえられた盧俊義と石秀を救出するために梁山泊軍が編成され、宋江が軍を率いて出征した(第63回)。この戦いの最中に宋江は重い病になり、梁山泊軍は一度撤退した(第65回)。宋江の病は、張順が建康府から連れてきた神医・安道全のおかげで治癒した。
|
宣和2年 |
盧俊義・石秀救出作戦が実行され、梁山泊軍が北京を攻める。宋江は養生のために山寨に留まった(第66回)。この戦いで救出された盧俊義の梁山泊入りが決まると、宋江はまた盧俊義に主の座を譲るといったが、盧俊義は拒否した(第67回)。
春、二度目の曽頭市戦争が起こる。
宋江は、以前曽頭市で戦死した晁蓋が敵の史文恭を討ち取ったものを山寨の主にするという遺言をしていたので、是非とも盧俊義に史文恭を討ち取ってほしいと考え、盧俊義を先鋒になるように提案した。これに呉用が反対したので、結局は盧俊義は燕青とともに間道で待ち伏せするように命じられた。ところが、ここに敵の史文恭が逃げてきて盧俊義に生け捕りにされてしまったので、戦後、宋江は盧俊義に主の座を譲るといいだした。が、盧俊義はそれを拒否し、呉用や李逵たちも反対を表明した(第68回)。
3月、宋江の発案で、宋江と盧俊義のどちらが主になるかを決めるために、宋江が東平府を、盧俊義が東昌府を攻める(第69回)。先に敵城を打ち破った方が主になるという約束だったが、結局は宋江が先に城を落とすことになり、宋江が主ということで落ち着くことになった(第69回)。
4月、梁山泊の頭領たちが百八星の生まれ変わりと判明する。
梁山泊に百八人の頭領が勢揃いしたこの月、宋江の発案で梁山泊で七日間にわたる晁蓋の供養が大々的に営まれた。この七日目の夜、天から火の玉が落ちるという事件があり、宋江がその場所を掘り返させると一枚の碑が出てきた。その碑に刻まれていた古代文字を、供養のために招かれていた博識の道士が解読したところ、碑の表には「替天行動(天に替わって道を行う)」という文字と天罡星三十六名の名が席順に刻まれていることがわかった。さらに碑の裏にも文字があり、そこには地サツ星七十二人の名が席順に刻まれていた。これを見た宋江ははじめて、梁山泊の頭領百八名が上天の星の生まれ変わりであり、ここに集まるように運命づけられていたのだということをさとった(第71回)。この後宋江は百八人全員の最終的な職務分担を定めた。このことがあってから、数カ月間、梁山泊には珍しく平和な日々が続いた。
|
宣和3年 |
正月、宋江は柴進、史進、李逵、燕青、李逵たちを率いて密かに東京に灯篭見物に出かけた(第72回)。
宋江はいつかは朝廷に帰順したいと考えていたので、東京に着くと皇帝と親密な関係にある李師師(りしし)という花魁(おいらん)に自分の思いを皇帝に伝えてほしいと考えた。燕青の活躍で李師師との面会が実現することになった。宋江、柴進、戴宗、燕青の四人が李師師を訪ねて話し始めると間もなく、裏門から皇帝がお忍びで遊びに来たというので、四人は慌てて立ち去るしかなかった。翌日は皇帝は来ない予定だというので宋江、柴進、燕青がまた李師師の家を訪ねたが、この日も皇帝が訪ねてきたという知らせがあり、宋江は自分の思いを李師師に伝えることができなかった。ところで、宋江たちは二度目に李師師と面会したとき、家の前に見張り役として李逵と戴宗を待たせていた。李逵は一度目のときにも見張り役だったので、李師師が美人だということは知っていた。そこで、この日もまた見張り役になった李逵はみなが家の中で美人と酒を飲んでいるのに腹が立ち、李師師の家を訪ねてきた皇帝の付き人とひょんなことからケンカを始めると、あちこちに火を放ってしまった。このため、宋江たちは慌てて東京から逃げ出すことになった。
4月、朝廷が梁山泊を招安するために第一回目の勅使を派遣するという情報が入ると宋江は大いに喜んだ。が、阮小七が朝廷から下賜された酒をただのどぶろくに変えてしまったり、朝廷からの詔書に梁山泊が素直に帰順すれば罪を許すがそうでなければ天誅を加えるなどという言葉があったために、梁山泊の好漢たちが怒りだした。このために、今回の招安はかなわないこととなった(第75回)。
夏、童貫率いる朝廷軍が攻めてくる。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、宋江は中軍で指揮を執った(第76回)。◎秋、梁山泊軍が高俅率いる朝廷軍を二度も打ち破ると朝廷から梁山泊招安を求める二度目の勅使が派遣された。ところが、これを知った高俅が詔書の中に「宋江・盧俊義など大小頭領の犯した罪を許し」とあったのを「宋江を除き、盧俊義など大小頭領の犯した罪を許し」と変更したために、今回もまた梁山泊は朝廷に帰順することができなかった(第80回)。
11月、梁山泊軍は三度目の戦いでも高俅軍を打ち破り、ついに太尉・高俅を生け捕りにした。このとき宋江は高俅をもてなし、皇帝が梁山泊を招安するよう取りなすという約束を高俅から取り付け、蕭譲と楽和をともにして高俅を東京に送りだした。この高俅は結局約束を守らなかったが、この後に梁山泊から派遣された燕青が活躍し、皇帝に直訴したことから、三度梁山泊招安の詔書が下されることになった。
|
宣和4年 |
2月、朝廷から三度目の使者が派遣されついに梁山泊の招安が決定する。
3月、梁山泊が朝廷に帰順する(第82回)。
この直後に梁山泊軍が宋軍として宋国の領土を脅かしている遼国討伐に出征することが決まると宋江は十日間の猶予をもらい、呉用、公孫勝たちを率いて梁山泊に戻り、山寨の建物などを解体した(第83回)。
4月ころ、宋軍の壮行会が行われる。皇帝から兵士たち全員に酒や肉が下賜されたが、これを朝廷の小役人がピンハネしたことから、軍の下士官の一人がその小役人を斬るという事件が起こった。これを知った宋江は泣く泣くその下士官を処刑するように命じた。
遼国戦争始まる。
檀州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、宋江は正副の将四十七名を率い、平峪県へ進んだ(第84回)。
薊州攻略後、遼国が梁山泊を招安したいと申し出たので、宋軍ではこの案を受け入れるようなふりをし、宋江が十数名の将と一万の兵を連れて敵の文安県城に入り、後続の部隊と呼応してこれを落とした(第85回)。
幽州での戦い。宋軍が文安県城にいる間に幽州から敵が攻めてくると、呉用と朱武が反対したにも関わらず、宋江と盧俊義は幽州に向けて軍を進めたため、盧俊義率いる一隊が青石峪という谷に閉じ込められてしまった(第86回)。白勝の活躍で事態を知った宋江はすぐにも林冲、李逵らを率いて救出に出かけ、その後幽州も落とした(第86回)。
昌平県境での戦い。
最初の戦いで宋軍は大敗を喫し、宋江は大いに困り果てた。そんなある夜、宋江が陣営の中でうとうとしているとふいに青い服を着た童女が現れ、宋江を九天玄女のところへ連れていった。九天玄女は宋江を見ると、遼国の陣形は混天象の陣と呼ばれるものだといい、どのようにして打ち破ればよいかを説明した(第88回)。宋江はこのとき授かった九天玄女の法を用い、遼国軍を打ち破った(第89回)。敗れた遼国は宋軍に和睦を申し入れ、これを朝廷が受け入れたことから、遼国戦争は宋軍の勝利に終わった。
田虎討伐戦始まる。
遼国戦争後、宋軍は東京に凱旋するが、凱旋するとすぐに宋江は河北の田虎が反乱を起こしたことを知った。宋江はすぐにも田虎討伐を朝廷に申し出、宋軍は休む間もなく次の戦争に出征することになった(第91回)。
田虎討伐戦では宋軍は田虎の領土に近い衛州に結集し、まず初めに盧俊義が陵川城、高平県城を落とした後、兵を一つにして蓋州を落とした(第92回)。
ここで兵を二つに分け、宋江は正副の将四十七名を率いた(第93回)。
昭徳城下の戦い。李逵が敵の捕虜になると、宋江は呉用の意見を無視し、林冲、徐寧、魯智深たちと一緒に兵を率いて進軍した。が、敵将・喬道清の魔法のためにさんざんに苦しめられ、宋江たちは絶体絶命の危機に陥った。するとここに頭に二本の角が生えた不思議な人物が現れ、喬道清の魔法を破り、宋江たちを救出してくれた。呉用によれば、それはこの土地の神で、宋江の忠義心が神の心を動かしたのだという(第95回)。
宋江軍が昭徳城を落として後に宋江軍は敵の女将軍・瓊英に苦しめられるが、間もなくこの瓊英が宋軍に寝返り、張清と結婚することになったことから、戦況は一気に宋軍が有利となった。
宋江軍が威勝城に到着したとき、すでに敵将・田虎、田豹、田彪は捕らえられ、宋軍の勝利は決定していた(第100回)。
王慶討伐戦始まる。宋軍が田虎を討伐したころ、淮西で反乱を起こしていた王慶がさらに強大化し、宛州を打ち破り、ついに東京管下の州県にまで力を及ぼそうとしていた。このため、宋江率いる宋軍は威勝城からまっすぐに王慶討伐戦に向かうことになった(第101回)。
王慶討伐戦では宋軍はまず山南州を取り、ここから盧俊義は正副の将十八名とともに兵を率いて西京を攻め、宋江は残りの将兵を率いて荊南州へ向かった(第107回)。
荊南州の紀山の要害を落とした後に宋江は一度病になったが、安道全の治療のおかげで回復した(第108回)。
南豊州での最終決戦。宋軍は九宮八卦の陣を敷き、宋江は中軍で指揮を執った(第109回)。
王慶戦に勝利して東京に凱旋する。
朝廷は宋江と盧俊義に官爵を授与したが、それは極めて地位の低いものだった。しかも、正月の皇帝拝賀の式典には宋江と盧俊義の参加だけが許され、他の将兵はみだりに東京城内に入ることを禁じられた。こうした扱いに対して、梁山泊の多くの頭領が不満を述べ、水軍の統領たちなどは謀反を起こそうとさえいい始めた。これを知った宋江は一同を集め、自分の忠心は何があっても変わらないので、みなが謀反を起こすというならまず初めにこの宋江の首を斬ってくれと訴えた。宋江にこういわれては梁山泊の仲間たちにはどうすることもできず、これからも異心は抱かないと誓いを立てた(第110回)。それから間もなく、江南で方臘というものが謀反を起こしたことを知った宋江が朝廷に討伐を申し出たことから、宋江率いる宋軍は方臘討伐戦に出征することになった(第110回)。
|
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
潤州城攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、宋江は正副の将四十一名を率いて常州、蘇州へ向かった(第112回)。
常州城攻略戦。宋江軍は常州城を落としたが、潤州の戦いで三名、常州の戦いで二名、さらに宣州を攻めた盧俊義軍でも三名が戦死したことを知った宋江は、こんなに不運が続くのでは方臘討伐はできないだろうと大いに嘆いた。が、呉用に慰められて意を新たにした(第113回)。
杭州城攻略戦。この戦いで張順を失った宋江は大いに嘆き、張順の戦死した湖の岸辺で供養を執り行った(第114回)。
杭州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、宋江は正副の将三十六名とともに睦州へ向かった(第116回)。
睦州烏竜嶺の戦い。
睦州城の入口にあたる烏竜嶺で解珍と解宝が戦死し、敵がその遺骸を放置しているのを知った宋江は呉用が止めるのも聞かず、関勝、花栄たちを率いて遺骸を取り返しに出かけた。これを敵将・石宝の軍勢が迎え討ったことから宋江らは危機に陥ったが、呉用の命令を受けて駆けつけた李逵、秦明たちの活躍で救われた(第117回)。宋江の軍勢は改めて睦州を攻めると、今度は敵の魔法使い鄭魔君が現れた。鄭魔君は不思議な妖術であたりを真っ暗にし、宋江の軍勢を金のよろいをつけた巨人で取り囲んだ。これを見た宋江は唖然とし、「早く死なせてください」と口の中で唱えた。と、このとき宋江の前にまるで書生のような恰好をした男が現れ、一瞬のうちに鄭魔君の魔法を打ち破った。その男はすぐに消えてしまったが、しばらくしてから調べてみるとちょうどその場所に龍神の廟があり、廟の中にあった龍神の聖像がその男と同じ姿をしていた(第117回)。睦州を攻略した宋江軍は盧俊義軍と合流し敵の本拠地・清渓県に攻め込んだ(第118回)。
方臘討伐戦に勝利し、東京に凱旋する。宋江は楚州安撫使と兵馬都総管に任命された(第119回)。その後休暇を取った宋江は弟・宋清と故郷の鄆城県に帰ったが、すでに老父はなくなっていたので大いに悲しんだ。数カ月後、宋江は東京に戻り、それから任地の楚州へ赴いた(第120回)。
|
宣和6年 |
夏、朝廷の悪臣たちに暗殺される。
朝廷に巣くう奸臣の代表・蔡京・童貫・高俅たちは宋江たちが重く取り立てられたので内心やきもきしていた。奸臣たちは密かに相談をまとめると、盧俊義や宋江たちを殺してしまおうと考えた。宋江が赴任して半年ほどたった宣和6年初夏、どういうわけか朝廷から宋江に酒が贈られることになった。使者が役所にやってきて宋江に酒を勧めた。ところがこの儀式が済んでから急に宋江の腹が痛みだした。このときになって宋江は罠にはめられたことを知ったが、このとき宋江が考えたのは、このまま自分が死んでしまえば後に残った李逵が何をしでかすかわからないということだった。もしも朝廷に対して謀反でも起こすことになれば梁山泊の名が汚れることになる。そう思った宋江はすぐにも使者を派遣して潤州にいる李逵を楚州に呼び出した。李逵はやってくるなり「兄貴、どんな大事な話ですか」と尋ねたが、宋江はまず酒を飲ませた。実はその酒には毒が入っていたのだが李逵には黙っていた。それから宋江は「李逵よ、わたしを責めないでくれ。わたしは朝廷から贈られた毒酒を飲んだためにもう間もなく死ぬ運命なのだが、たとえこんなことになってもわたしは朝廷にそむく気はない。だが、わたしが死ねば、おまえは朝廷に謀反を起こすかも知れない。そこでわたしはおまえを呼びだし、いま毒入りの酒を飲ませたのだ。潤州に帰るころにはおまえの命もないだろうから、死んだ後にはせめて魂だけでも楚州南門外の高原に来なさい。わたしの遺骸は必ずそこにあるから」と涙を流して打ち明けた。李逵は「いいさ、いいさ。おれは生きていたときも死んでからも兄貴と一緒なんだよ」といい、潤州へ帰っていった。李逵と別れた宋江は配下の者に、自分が死んだら南門外の高原に葬るように言い残してから息を引き取った(第120回)。
|