ようこそ。ここは草野巧のホームページです。
フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
フランボワイヤン・ワールド・トップ水滸伝の豪傑たち目次
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。


◆水滸伝の豪傑たち◆108星◆宋江
天魁星
てんかいせい
宋江
そうこう
 梁山泊での順位  第1位
 持ち場  梁山泊の兵を統べる総頭領
 特技  なし
 あだ名  呼保義(こほうぎ)
 出身地・前歴  済州鄆城県宋家村・鄆城県の押司(上級書記)
 「呼保義」には、「金持ちの旦那さん」あるいは「本当なら皇帝になるべき人」という意味があるといわれるが、『水滸伝』には説明がない。宋江にはもう一つ「及時雨(めぐみの雨)」というあだ名があるが、これは宋江が困っている人を助けずにはいられない恵み深い人だったからである。
誰からも敬愛された梁山泊百八星の総頭領 
 宋江は天罡星のひとつ天魁星が生まれ変わった好漢である。
 豪傑ぞろいの梁山泊をリードしたのだから当然ものすごい快男児……であってほしいのだが、実は全然そうではないところが『水滸伝』のミソといえる。宋江は背は低く、色は黒く、武芸の腕前もそれほどではないというどこか冴えない男で、鄆城県の押司という地位もとくに立派なものではなかった。山賊に襲われたりするとまるで臆病者のようにおろおろする。ところが、「ああ、これで宋江も一巻の終わりか」などといったとたん、この世のものすごい豪傑たちの誰もが態度を豹変させ、「なんとあなたが宋江さんでしたか。大変失礼いたしました」というふうに立場が変わってしまう。なぜなのか、それはわからない。が、そういう宋江がいたことで、梁山泊に百八人の豪傑が集まり、それが一丸となって宋国のために戦うということになったのは確かである。 
宋江の物語
◆生辰綱を略奪した晁蓋一味の逃走を助ける

 宋江は済州鄆城県の役所で押司(おうし)として働いていた。「及時雨」というあだ名があったことからもわかるように恵み深い性格で、金には頓着せず、困っている人を助けることで知られていた。一応は武芸にも通じていた。
 ある年の六月、宋江が朝の仕事を済まして午前十時頃に役所の外に出てみると茶店にいた男が声をかけてきた(第18回)。男は「わたしは済州府で捕盗係の役頭をしている者です。6月4日、鄆城県の黄泥岡で、北京大名府長官・梁中書から東京開封府の宰相・蔡京に贈られた十万貫の生辰綱(誕生祝いの財宝)が奪われるという事件があったのですが、その犯行グループのリーダーが鄆城県郊外の東渓村の名主・晁蓋だとわかりました。このため、済州から鄆城県に晁蓋逮捕を命じる公文書が出され、わたしが使者に立てられてそれを持参したのです」といった。これを聞いた宋江は内心あっと驚いた。晁蓋と宋江は普段からつきあいがあり、兄弟の盟を結んだ仲だったからだ。「こいつはおれが助けてやらないことには大変なことになってしまうぞ」と宋江は思った。それから宋江は、「わかりました。晁蓋というのはこの辺では評判の悪人ですが、これを機会に思いきり懲らしめてやりましょう。ところで、知県(長官)さまはいまは休憩中で、間もなく登庁してくるでしょう。あなたさまにはそれまではこの茶店で待っていただき、そのときになったらわたしが呼びにまいりましょう。では、わたしはこれから家で用事を済ませなければいけませんので、しばらくお待ちください」と男にいった。こうして、男を茶店に引き止めた宋江は店を出るや急いで宿に帰り、馬を引き出して東渓村に向かった。「晁蓋の兄貴、大変なことになった、よく聞いてくれ。黄泥岡の一件がばれてしまい、済州府から役人が公文書をもってあんたたちの一味を逮捕しに来たんだ。偶然にもその役人がおれに仕事を頼んだので、おれは何とか時間のばしをして、こうして命をかけて知らせに来たわけだ。いくら引き延ばしても今夜には捕り手たちが屋敷にやってくるだろうから、とにかくできるだけ早く逃げ出してくれ」晁蓋の屋敷についた宋江はすぐにも晁蓋を呼び出していった。晁蓋は大いに驚き、「知らせてくれてありがとう。恩にきるよ」といった。このとき晁蓋の屋敷には生辰綱略奪に加わった呉用、公孫勝、劉唐も滞在しており、晁蓋は三人を紹介したが、宋江は急いでいたので馬に乗って駆け出した。宿に戻った宋江はすぐにも茶店に駆けつけ、「いやはや、大変お待たせしました。田舎の親戚が訪ねてきていたので遅くなってしまいました。では、ご一緒に役所へ行くことにしましょう」といい、男を連れて役所に向かった。知県は公文書を見ると大いに驚き、「大事件だ。すぐにも捕り手を差し向けて晁蓋たちを召し取れ」と命じた。が、これを聞いた宋江は、「昼間ではこちらの動きを敵にさとられてしまうでしょう。夜になってからの方がよいと思います」と進言した。

◆愛人・閻婆惜を殺して鄆城県から逃亡する

 数日後、「晁蓋たちもまったく大変なことをしてしまったものだ」などと思いながら宋江が街を歩いていると王婆というおせっかいなばあさんに呼び止められた(第20回)。王婆は別に一人のばあさんを連れていたが、聞けばそのばあさんは閻婆という名で、昨日亭主が亡くなったというのに棺を出す金もなくて困っているという。宋江はすぐにも、「それならおれが一筆書いてやるからそれを持って葬儀屋へ行って棺をもらってきなさい。それから別に十両やるからそれで葬儀を済ませるがいい」といった。閻婆は大いに喜んだ。
 ところで閻婆には十八才の婆惜という器量好しの娘がおり、閻婆は前々から婆惜をどこかの金持ちの妾にしようと考えていた。宋江が親切なのを知った閻婆はこの男ならと思い、すぐにも王婆に話を持ちかけた。王婆はもともと仲人役が商売のようなものだったし、宋江が独身なのを知っていたので、翌日になると宋江を訪ね、言葉たくみに婆惜を妾にするようにと宋江を口説いた。宋江は女にはそれほど執着がなく、そんな話には興味も感じなかったが、王婆があんまりしつこいので最後には承知した。
 こうして閻婆惜を妾にした宋江はその親子のために二階屋を借りてやり、最初の間は足繁く通った。が、宋江は女には淡泊な男だったのでそのうち女のもとに通わなくなった。と、婆惜は小張三という男と浮気をし始めた。この男は宋江の役所の部下で、一度だけ宋江が婆惜の家に酒を飲みに連れていったことがあった。それが縁で二人は関係を持ち始めたのである。宋江は二人の関係に気づいたが、婆惜は宋江の正妻ではなかったのでとくに騒ぎ立てることもなく、相変わらず婆惜の家に行くこともなかった。
 そうこうするうちに三、四ヶ月が過ぎた。ある日宋江が街を歩いていると後ろから朴刀を持った大男が呼びかけてきた。「押司さま、わしを覚えておいでですか」と大男はいった。「どこかで会ったような気もするが」と宋江はいったが思い出せない。と、男は宋江を近くの酒屋に誘い、人気のない小部屋に入ってから自己紹介した。実はその男というのは数カ月前、宋江が晁蓋の屋敷に駆けつけたときに一度だけ会ったことのある劉唐だった。「晁蓋どのはいまでは梁山泊の主になっており、その指示でわたしが使者となり、お礼の手紙と黄金百両を持参したのです」と劉唐はいった。宋江は金には興味なかったが、晁蓋らの好意を無にするわけにもいかなかったので、金の包みをひとつと手紙だけ受け取り、残りは山寨に持って帰るようにいいつけた。
 劉唐と別れた宋江はそれから月明かりの夜道を宿に向かって歩いていったが、このとき閻婆に出くわした(第21回)。閻婆は宋江が娘のところにとんと遊びに来ないのを気にしていたので、宋江を見るやいなや今夜こそ娘のところに来てくれとしつこく誘い始めた。宋江はどうにかやり過ごそうとしたが、閻婆は聞かない。あまりのしつこさに宋江もあきらめた。ところが、閻婆の意に反して娘の婆惜の方はまさか宋江が来るなどとは思ってもいなかった。それどころか、婆惜はいまでは小張三に夢中だったので宋江が来ても全然嬉しくないし、かえって迷惑だった。閻婆は気を使い、二階の座敷に酒食を整え、「さあさあ、二人とも黙ってないでお酒でも飲みなさい」と勧めてはみるが、婆惜はまったく意に介せず、「あたしお腹が一杯でお酒なんか飲む気になんないのよね」という。宋江も宋江で女の機嫌をとる方法などまったく知らない好漢だから、酒は飲んでも終始無言でうつむいている。そうこうするうちに夜も更けた。閻婆は、「今夜はごゆっくり」などといいながら階下に去ってしまった。そうはいっても宋江と婆惜が歩み寄る気配は一向になく、そのうちに婆惜は着物を着たまま寝台に上がると壁の方を向いて寝てしまった。これには宋江もあきれたが、宋江自身も眠かったので上着を脱ぎ、帯や懐刀、書類袋を寝台の手すりにかけ、婆惜とは逆向きになって横になった。あんまり不愉快だった宋江は翌朝は夜明け前に起き上がり、上着を着るなりさっさと婆惜の家を後にした。
 が、しばらく歩いたところで大変なことに気がついた。書類袋と懐刀のついた帯を婆惜の寝台に忘れてきたのである。その書類袋には劉唐から受け取った手紙と金が入っていた。金はまだしも、手紙を読まれたら一大事だった。びっくりした宋江は大急ぎで婆惜の家に駆け戻り、二階へ上がった。が、ときすでに遅く、婆惜はすでに手紙の内容を読み終えており、必死になって書類袋を返してくれと頼む宋江をゆすり始めた。「そんなに返してほしいなら、晁蓋から受け取った百両をわたしにちょうだい。それから、今後はわたしとは縁を切るって約束して」と婆惜はいった。宋江は女と縁を切るのは何でもなかったが、受け取ってもいない百両をいますぐ用意するわけにはいかなかった。「それじゃあこうしよう。三日の間にどうにかして百両の金を用意するから、いますぐ書類袋を返してくれ」と宋江はいった。が、婆惜は聞かず、「お金と引き替えじゃなければ書類袋は渡せないわ。でなければ、明日にでも役所に訴えるから」といいだした。さすがの宋江もこれには我慢がならず、「こら返せ」と怒鳴って婆惜の手から帯を引ったくった。その拍子に帯に付いた懐刀が宋江の足もとに落ちた。宋江がこれを拾い上げたとき、「ひゃ、人殺しい」と婆惜が叫んだ。この声を聞くなり宋江はかっとし、手に持った刀を婆惜ののどに突き刺した。それから宋江はろうそくの火で晁蓋からの手紙を処分した。
 こうして宋江は追われる身になった。宋江が逃走したのを知った役所では間もなく捕盗係都頭(隊長)の朱仝と雷横に命じ、宋家村にある宋江の実家を捜索させた。このとき宋江は弟の宋清と一緒に地下室に身を潜めていたが、朱仝に発見されてしまった。しかし、朱仝は宋江とは古い仲でできれば宋江を助けたいと考えていたので、いつまでもこんなところに隠れていないでどこか頼れる場所があったらできるだけ早く逃げることだといっただけで宋江を見逃した。二人は役所から宋江がいない場合には家族を捕らえてくるように命じられていたが、雷横の方も宋江を助けたいと思っていたので、適当ないいわけを考えて手ぶらで役所に戻っていった(第22回)。宋江は朱仝と雷横に感謝し、その夜のうちに弟の宋清とともに鄆城県から逃げ出した。

◆一年半後に逮捕され江州牢城へ流される

 それから一年半の間、宋江は信頼できる数人の知人の世話になって暮らすことになった。
 最初に宋江が頼っていったのは滄州横海郡にある柴進の屋敷で、到着したその日に宋江は行者の武松と出会った。柴進の屋敷に半年ほど滞在した宋江は次に青州白虎山の孔太公の屋敷を訪れ、ここで孔太公の二人の息子・孔明と孔亮に出会う。また、この地に半年ほど滞在したとき、宋江は一年ぶりで武松に再会することになった。それから宋江は青州の軍事基地・清風寨の武官の長を務める花栄を訪ねて旅に出た。そして宋江はこの地で知り合った新らしい仲間たち、花栄、燕順、王英、鄭天寿、秦明、黄信、呂方、郭盛を引き連れて梁山泊へ向かった。ところが、この旅の途中で宋江は石勇という好漢に出会い、弟・宋清からの手紙を受け取った。宋江と一緒に逃亡した宋清は、柴進の屋敷を出た直後に老父の面倒を見るために故郷に帰っていたのだが、その手紙には老父がついに亡くなったと書かれていた。これに驚いた宋江はひとまず仲間たちだけを梁山泊に向かわせ、自分は仲間と別れ、たった一人大急ぎで故郷を目指した。
 さて、その後二三日で故郷に舞い戻った宋江は午後四時頃に村の入口の居酒屋に入ったが、居酒屋の亭主は「おや、押司さん。一年半も留守にしていたと思ったら、今日はまたえらくお疲れのようで。何かあったんですか」という(第35回)。宋江が、「何かあったはないでしょう。父親が亡くなったんですから」というと亭主はあははと笑い、「そんな馬鹿な。お父さまならついさっきまでここで酒を飲んでいましたよ」といいだした。宋江はなんのことやらさっぱりわからず、しばらく休憩すると家に向かって走り出した。ところが、家について見ると居酒屋の亭主のいうとおりどこにも変わったところはない。下男たちに聞くと父親も宋清も家にいるという。憤然として座敷に飛び込んだ宋江は宋清を見つけるなり、「この大馬鹿野郎。父上が死んだなどと嘘をつきやがって。おれは自分の親不孝をせめて死のうかと思ったほどだぞ」と怒鳴りつけた。と、そこへ父が出てきて宋江をなだめた。聞けば、父は旅に出た宋江が山賊の仲間にでもなったら大変だと心配し、できれば宋江に帰って来てほしいと思っていた。故郷に戻れば逮捕される危険も大きかったが、つい最近朝廷が皇太子を立てたことから恩赦が下り、宋江は罪一頭を減じられていた。たとえ逮捕されることがあっても流罪になるくらいで、死刑になることはなかった。そこで、父は宋清に命じてあの手紙を書かせたのだという。こういわれれば宋江も怒るわけにはいかず、あらためて家族との再会を喜び合った。
 ところで、宋江が村に帰ってきて居酒屋で酒を飲んだのを目撃したある者が役所に訴え出たために、役所では宋江逮捕に向けて捕盗係が動き始めていた。宋江にとって運の悪いことには、鄆城県の捕盗係都頭だった朱仝と雷横はこのころ出張のために土地を離れており、その代わりに趙能(ちょうのう)と趙得(ちょうとく)という二人の新参者が都頭代理を務めていた。この二人は宋江のことなどまるで知らなかったから、命令を受けるとすぐに兵を率いて宋江の屋敷を取り囲んだ。夜八時ころ、屋敷の外で喊声が上がったのを聞いた宋江はしまったと思ったがすでに遅かった。が、たとえ捕まっても死刑になるわけはないとわかっていた宋江は慌てて逃げ出すような真似はせず、素直に逮捕されることにした(第36回)。
 宋江の予想は当たり、鄆城県の役所ではほとんどの人間が宋江を寛大に扱いたいと思っていたので、宋江の供述について厳しい吟味も行われなかった。閻婆も半年前に死んでおり、それに不満を述べる者もいなかった。60日間の取調期間が明けた後、宋江は裁判のために済州に送られた。この裁判も簡単に済んだ。すでに宋江は罪一等を減じられている身だったし、家族の者たちが役人に賄賂を配っていたからだった。宋江は棒打ち二十のうえ江州の牢城に送られることになり、すぐにも二人の護送役人とともに旅に出た。

◆江州への道中でも数々の好漢たちに出会う

 しかし、この旅が大変だった。旅に出て二日目、宋江ら一行が梁山泊の近くの間道を進んでいると早くも梁山泊の劉唐が手下四五十人を率いて一行の前に現れ、護送役人たちを殺そうとした。宋江が江州送りになったと知った梁山泊があちこちの道に仲間を配置し、宋江を救出しようとしていたのである。が、それは宋江の望むところではなかった。「そんなことをすればわたしは不忠不義を働くことになります」と宋江はいった。そこへ知らせを受けた呉用がやってきて、「それなら三人でほんのしばらくの間山寨へ来ていただくだけでも結構です。それから江州へ行けばいいでしょう」といった。それならというので、宋江も喜んで梁山泊を訪ねることにした。宋江一行が梁山泊につくと、晁蓋、呉用、公孫勝、花栄など、頭領のすべてが宋江を出迎えた。このとき晁蓋は、護送役人を金銀で買収し、梁山泊が宋江をひきさらっていったと証言させれば護送役人も罪にはならず、宋江も無事に梁山泊入りできるだろうと提案したが、宋江はこれも拒否した。「それは天の道にも父の教えにもそむくことです。そんなことをしようというならいっそのことわたしを殺していただきたい」と宋江はいった。これではさすがの梁山泊も宋江を救出することはできないので、とにかく今日一日だけは宋江にゆっくりしてもらおうと話が決まり、すぐにも酒盛りが開かれた。その翌朝、宋江らが江州へ向けて旅立とうとしたとき呉用が、「江州では神行太保の戴宗という好漢が牢役人をしています。手紙を書いておきましたから向こうについたら戴宗に渡してください。いろいろと役に立ってくれるでしょう」といった。宋江はその手紙を受け取り、護送役人と一緒に出発した。
 それから半月ばかりたって三人は江州に近い掲陽嶺という山までやってきた。この山の峠を越えたところに一件の居酒屋があり、ちょうど腹を空かしていた宋江たちはこの店に入った。ところが、この店では旅人にしびれ薬の入った肉や酒を出しては、金を奪ったうえで人間を殺し、その肉を人肉饅頭の餡にして売りさばくようなあくどい商売をしていた。宋江たち三人もここでしびれ薬を盛られ、あやうく殺されそうになったのである。幸いにもここに李俊が弟分の童威と童猛を連れてやってきた。李俊は以前から宋江の名前だけは知っており、ずっと会いたいと思っていたので、宋江が江州送りになるという情報をつかむと、宋江の通り道となるあたりで宋江が来るのを待っていたのである。居酒屋の亭主の李立は李俊の兄弟分だったので、李俊の話を聞くとびっくりし、すぐにも手下に命じて宋江らの料理を中止させた。李俊たちはさまし薬で宋江一行の目を覚まさせ、丁寧に謝罪したうえでもてなし、それから宋江らを送り出した。
 間もなく掲陽鎮の町に着いた宋江たちは今度は兄弟で町の親分をしていた穆弘と穆春に命を狙われることになった。この町に入ったとき宋江は薛永という流れ者の武芸者に出会った。薛永は大道で槍棒の技を見せ、客を集めて薬を売っていた。これを見た宋江はその技に感心し、金を恵んでやった。薛永が町で商売するのを認めていなかった穆弘と穆春はこれに腹を立てたのである。結局、宋江と護送役人はその夜にも掲陽鎮から逃げ出すことになり、潯陽江(揚子江の江州の呼び名)の渡し船に飛び乗った。すると、船頭だと思っていたのが張横という強盗だったために、ここでも宋江たちは殺されそうになった。このとき掲陽嶺で知り合いになった李俊が童威と童猛を引き連れ、舟に乗って近くを通りかかり、宋江らを助けてくれた。強盗の張横は実は李俊の弟分だったのである。また、宋江を殺そうとしていた穆弘と穆春が潯陽江の岸辺まで追ってきていたが、実はこの二人も李俊の兄弟分だということがわかった。そこで、宋江一行は数日の間、穆弘の屋敷でもてなされ、この土地の好漢たちと大いに親しくなった。このとき、江州へ向かう宋江は張横から江州で魚問屋をしている張横の弟・張順へ宛てた手紙を託された。
 間もなく江州へ到着した宋江は城外の牢城に送られ、護送役人二人は仕事を済ますと鄆城県へ戻っていった。

◆潯陽楼で謀反の詩を詠み死刑囚として捕らえられる
 宋江は家が金持ちだったし、途中で立ち寄った梁山泊でも大量の金銀を与えられていたので、江州でも役人たちに配る金銀に困ることはなく、あちこちに付け届けをした。おかげで宋江は牢城に来るとすぐに書記という楽な仕事を命じられ、書記部屋を与えられ、看守や牢役人にも大事にされた。
 ところで、宋江は少しも金を惜しむことなくあちこちに 付け届けをしたにも関わらず、ある一人の牢役人にだけは付け届けの金銀を贈らずにいた。他の牢役人たちはその男を恐れていたので、しきりに宋江に注意したが、宋江は聞かなかった。と、宋江が牢城入りして十日ほどして、その牢役人の方から宋江を訪ねてきた。「この野郎。このおれさまに付け届けをよこさないとはいったいどういうことだ。おれにはおまえを殺すことだってできるんだぞ」とやってくるなり牢役人は怒鳴った(第38回)。が、宋江は少しも慌てず、「付け届けをしないくらいで殺されるなら、梁山泊の軍師・呉用と仲良くしている者はいったいどうなるんでしょうかね」といってやった。これを聞いた牢役人は大いに取り乱し、「な、何でそんなことを知っているんです。あなたはどこのどなたさまで」。宋江が名を名乗ると男はさらに驚き、「な、なんと及時雨の宋公明さまでいらっしゃいましたか。ここではゆっくり話もできませんから、町の料理屋にでも行きましょう」といいだした。宋江は呉用からの手紙を持って牢役人の後について行った。実はこの牢役人こそ呉用から紹介されていた戴宗だったのである。
 間もなく料理屋に入った宋江はすぐにも呉用からの手紙を戴宗に渡し、別に金が惜しくて付け届けをしなかったわけではなく、戴宗に直接会いたかったからそうしたのだとこれまでの事情を説明した。戴宗の方も、牢城に宋という姓の者が送られてきたとは聞いていたが、まさかそれが宋江だとは思いも寄らなかったといい、この日の無礼をあらためて謝罪した。それから二人はお互いのこれまでの経緯をあれこれと話し合いながら酒を飲んだ。と、そこへ階下から給仕がやってきて、いつも戴宗と一緒にいる大男が一階で大暴れしていると訴えてきた。戴宗は笑い、すぐにもその男を連れてくると宋江に紹介した。これが李逵だった。李逵は以前から宋江のうわさを聞いて大いに敬服していたので、目の前にいるのがその宋江だと知ると感激し、すぐにも宋江の弟分になった。この後、三人は川沿いの琵琶亭と料亭に移り、さらに酒を飲み続けたが、ここで宋江が活きのいい魚の吸物を吸いたいといったことから、宋江は張順と出会うことになった。というのも、その料亭に活きのいい魚がないと知った李逵がそれならおれが手に入れて来ようと店を飛び出し、川沿いにいた漁師たちともめ事を起こし、挙げ句の果てに魚問屋の親分とケンカを始めた。その親分というのが張順だったので、宋江は張順の兄の張横と知り合いだということを話し、二人のケンカをやめさせ、張順を仲間に引き入れたのである。それから4人で酒盛りを始めた。張順が宋江のために取れたての立派な鯉を4匹も用意してくれたので宋江も満足だった。
 ところで、この日がつがつして鯉を食いすぎた宋江はその夜牢城に戻ってから激しい腹痛に襲われ、一週間ほど牢城で養生しなければならないことになった。その間も戴宗、李逵、張順が遊びに来たが、宋江は一緒に楽しむことはできなかった。
 こんなことがあったので、やっと体調の回復した宋江は今度は自分の方から遊びに行こうと思い、午前八時頃に牢城を出て戴宗、李逵、張順を捜してみた。が、あいにくなことに三人とも留守だった。手持ちぶさたな宋江が河を眺めながらぶらぶらしていると江州でも有名な潯陽楼という料亭があった。一人ではあったが、宋江は迷わずにこの料亭に入った。有名な料亭だっただけに料理も酒も上等で宋江は大いに満足した。そのうちに酔いが回り気分が乗ってきた宋江はその部屋の白壁にいろいろの人が思い思いに詩を書いているのを見て、よし自分も書いてやろうと思った。宋江は給仕から筆と硯を借り、思い浮かんだ詩句を書き付けた。
「幼いときから経史を学んだので/いまや権謀術数に優れている/荒野に臥した猛虎と同じように/爪牙をかくして待っているのだ
 不幸にして罪人となり/刺青を施されて江州に配されているが/いつか恨みを晴らすときが来れば/潯陽江の水を真っ赤な血で染めてやろう」
 この詩に満足した宋江はさらにその後に四句の詩を書き付けた。
「身体は呉の土地にあるが心は山東のことばかり思っている/いまは揚子江に流浪して嘆いているが/いつか必ず凌雲の志を遂げ/大反乱者・黄巣をあざ笑ってやろう」
 それから宋江は最後に「鄆城県宋江の作」と署名した。
 こうして気分上々で詩を書き終えた宋江はさらに酒を飲み続け、完全に酔っぱらって牢城へ帰ったので、翌日には詩を書いたことをすっかり忘れていた。
 ところが、この詩を書いたために宋江は謀反を企てたとして、死刑に相当する罪を着せられることになった。宋江が潯陽楼を立ち去った後、そこに黄文炳という男がやってきたのが事の発端だった。黄文炳はすでに退職した役人で江州に近い無為軍という町に住んでいたが、もう一度官途につきたいという野心を持っており、江州長官・蔡九に普段からおべっかを使っているような男だった。この黄文炳が宋江が立ち去った後に潯陽楼で酒を飲み、宋江の詩の中に「恨みを晴らす」「潯陽江を血で染める」「大反乱者・黄巣をあざ笑う」などとあるのを見つけ、この男は間違いなく謀反を企んでいると考えたのである。黄文炳は宋江の詩を写し取ると給仕には壁の詩を削り落としてはならぬと命じ、その翌日に喜び勇んで蔡九長官のところへ駆けつけた。この蔡九というのが東京の宰相・蔡京の息子で、権力を笠に着て好き放題のことをしているような男だったので、おべっか使いの黄文炳にそそのかされると、すぐにも牢役人の戴宗を呼びだし、牢城にいる宋江を捕らえてくるように命じた。びっくりしたのは戴宗だった。戴宗はとにかく宋江を助けなければいけないと思い、手下の役人たちに集合の命令を出してから大急ぎで宋江のいる牢城に駆けつけた。
 ところで、このとき宋江はといえば、昨日潯陽楼で大酒を飲み過ぎ、二日酔いに苦しんでいるところだった。そこへ戴宗がとんできて、「宋江どの、昨日潯陽楼へ行ってどんなことを書いてきたんですか。いま長官から呼び出され、宋江どのを謀反の詩を書いた犯人として逮捕しろと命じられたんですよ」といったので、宋江もびっくりした。とにかく詩の内容さえ覚えていない宋江は、「ああ、もうだめだ」とおろおろするばかりだった。このとき戴宗が、「それでは宋江どの、あなたは部屋中に糞小便を撒き散らし、その中にまみれて気が狂ったふりをしていてください。そうすればどうにかごまかすことができるでしょう」というので、宋江はすぐにそうすることに決めた。しばらくして、町へ戻った戴宗が手下を連れて再び牢城にやって来ると、宋江は糞小便にまみれながらわけのわからないことをわめき散らした。これを見た戴宗と捕り手たちは、「こんな奴を逮捕しても仕方がないな」と話し合い、そのまま役所に戻って行った。が、この作戦は失敗に終わった。戴宗が捕り手たちと一緒に役所に戻り、宋江は狂っていると蔡九長官に報告したとき、その場所に黄文炳がいて、それは芝居に違いないと蔡九に進言したからだった。このために宋江は結局は江州の役所に引き立てられ、そこで獄卒たちから激しい拷問を受けた。宋江は実際には謀反の詩を書いたつもりなどなかったが、この拷問にたえられず、ついに謀反の詩を書いたという嘘の供述をし、死刑囚として大牢に入れられてしまった。

◆梁山泊の好漢たち救出され黄文炳に復讐する

 さて、こうして宋江を死刑囚の牢に閉じ込めた蔡九と黄文炳は、宋江の処分について東京にいる宰相・蔡京の判断を仰ぐことにした。そうすれば蔡九と黄文炳の手柄が皇帝の耳にも入るだろうと考えたからだ。このとき蔡九は手紙を運ぶ使者として戴宗を指名した。神行太保というあだ名の通り、戴宗は神行法を使い一日に八百里も歩くことができたからだ。が、このことがきっかけになって梁山泊の好漢たちが宋江救出に乗り出すことになった。
 命令を受けた戴宗はすぐにも飛脚駕篭を持ち神行法を使って出発し、三日後には早くも済州の梁山泊付近までやってきた。このとき戴宗は腹も減っていたし暑さにも耐えられなかったので目に付いた居酒屋に入った。この居酒屋は梁山泊から派遣された朱貴が情報収集のために経営していた。この朱貴が戴宗にしびれ薬を飲ませて眠らせ、戴宗の飛脚駕篭を調べたことから、それが呉用の知り合いの戴宗であり、宋江が江州で処刑されそうになっていることがわかった。朱貴はびっくりし、すぐにも戴宗を目覚めさせると二人で梁山泊へ向かった。このとき呉用の発案で、蔡京からの返書を偽造し、宋江を生かしたまま東京に護送するように仕向けるという作戦が採られることになった。梁山泊ではすぐにも蔡京からの手紙を偽造し、戴宗はそれを持って江州へ向かった。だが、その手紙には決定的なミスがあり、これを黄文炳が見破ったために、梁山泊と結託して宋江を助けようとしたという罪で戴宗までが宋江と同じ大牢に入れられてしまった。とはいえ、戴宗を送り出すとすぐに呉用自身がそのミスに気づいたので、梁山泊では間髪おかずに次の作戦が立てられた。
 宋江が大牢に入れられてから一ヶ月ほどたった7月21日、宋江と戴宗は処刑のために十字路の仕置場に引き出された。やがて刻限が来て二人が処刑されそうになったそのとき、あらかじめ変装して江州に侵入していた梁山泊の好漢たちが暴れ出した。李逵もまたこの時点では梁山泊とは関係なかったが宋江と戴宗を救うためにたった一人で暴れ出した。さらに、宋江が江州に来る前に知り合った掲陽嶺と掲陽鎮の好漢たちまでが、宋江の危機を知って舟に分乗して江州にやってきた。おかげで宋江と戴宗は救出され、梁山泊の好漢たちを含めて全員が掲陽鎮にある穆弘の屋敷へと逃げ延びた。
 このとき宋江は立ち上がり、一同に礼を述べた後、「それにつけても憎むべきなのは黄文炳です。そこでお願いがあります。これからすぐにも無為軍を攻め、黄文炳を討ち取ってこの恨みを晴らさせてもらえないでしょうか」といった。こうして、みなの協力で黄文炳が討ち取られた後、宋江はやっと梁山泊入りした。宋江が梁山泊入りすると晁蓋はすぐにも主の座を宋江に譲ろうとしたが、宋江はそれを受け入れず、当分の間は第二の座に就くことになった。
梁山泊入山後の活躍
◆第一の頭領として終始一貫梁山泊を率いる
政和7年 7月、老父と弟・宋清を迎えるために鄆城県へ帰る。
宋江と一緒に多くの好漢たちが新しく梁山泊に加わったことから、梁山泊では連日にわたって酒宴が開かれたが、三日たったとき宋江は一同に向かい、老父と弟・宋清を梁山泊に迎えるために一度故郷に戻りたいと申し出た(第42回)。晁蓋は一人で帰るのは危険だから、二三日して山寨が落ち着いたら勢揃いで迎えに行けばいいと提案したが、宋江はいますぐ行きたいといい、たった一人で鄆城県宋家村に向かった。ところが、宋江の仲間たちが江州で大暴れしたことから鄆城県の役所でも宋江の行方を追っており、故郷に戻るやいなや宋江は都頭代理の趙能と趙得に追われることになった。宋江は夜道を逃げ出し、とある村の古い廟に入り込み、祭壇の上の厨子の中に身を潜めた。と、このとき不思議なことが起こった。間もなく趙能と趙得が追ってきて帳を明けて厨子の中を覗こうとすると、どういうわけか厨子の中から怪しい風が吹き出して二人の持っていた松明の火を吹き消してしまったのである。二人はこれはきっと神のたたりだといって廟の中の捜索を中止した。さらに、二人が廟から出ていった後、宋江が隠れている厨子の前に青い服を着た童子が二人現れて、「星主さま、星主さま」と宋江に呼びかけた。見たこともない童子なので宋江がびっくりしていると、「宋星主さま、女神さまがお呼びです」という。宋江は何のことやらわからず、自分は宋江という名で、星主などという者ではないといったが、童子たちはとにかく付いてくればわかりますという。そこで、宋江が童子の後について祭壇の後ろの小さな隠し門をくぐると、そこには宋江が見たこともない風景が広がっており、しばらくいくと美しい宮殿があった。さらにその中に入っていくと色とりどりの簾や宝石や燭台で飾られた露台があり、そこに見目麗しい女神が立っていた。女神はおそれおののいている宋江を親切に招き、童女や童子たちに命じて酒食でもてなし、その後で宝石の盆に載せた三巻の天書を宋江に与えた。縦十五センチ、横十センチ、厚さ十センチほどのものだった。それから女神は、「宋星主、あなたはこの三巻の天書を熟読し、天に替わって正しい道を行うように務めなさい。その仕事が終われば、あなたはまた天宮の星に帰ることができます。ただし、この天書は天機星(呉用)と一緒に読んでもかまいませんが、他のものに見せてはなりません」と告げた。宋江がその天書を袖の中にしまったとき、宋江は厨子の中で目を覚ました。何だ夢だったのかと宋江は思ったが、袖の中にはちゃんと天書が入っている。厨子の外へ出てあらためて廟の中を見回してみると、祭壇の上に夢で見たのと同じ美しい女神の像があった。廟の外にはそれが九天玄女の廟だという額が掛かっていた。「ああ、九天玄女さまが助けてくれたのだな」と宋江は思った。このとき村の方からまた喊声が聞こえてきたので宋江はびっくりし、とっさに木の陰に身を隠した。が、逃げてきたのは趙能で、その後ろから李逵、欧鵬、陶宗旺といった梁山泊の仲間たちが追いかけてきた。宋江の身を心配した梁山泊の好漢たちがこぞって宋江の救出にやってきたのである。こうして宋江は救われたが、宋江の老父と弟の宋清もこのとき同時に屋敷から連れ出され、梁山泊に招かれることになった。 
政和8年 1月ころ、祝家荘戦争が起こる。晁蓋は梁山泊に留まって山寨を守り、宋江が梁山泊軍を率いて戦いに出た(第47回)。

8月ころ、高唐州で捕らえられた柴進を救出するために梁山泊軍が編成された。このとき晁蓋は自分が軍を率いていこうとしたが、宋江は山寨の主がそんな軽はずみなことをしてはいけないと注意し、結局宋江が軍を率いることになった(第52回)。この戦いで、高唐州長官・高廉の妖術に驚いた宋江は九天玄女の天書から風を戻し火を返す法を見つけだして使ったが、あまり役には立たなかった。

冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍と戦う。宋江はまだ山寨の主ではなかったが、最初から命令を下し、梁山泊軍を編成した(第55回)。この戦いで梁山泊軍が大敗すると、晁蓋は宋江に山に戻って休息するように勧めたが、宋江は山には登らず、梁山泊のほとりの鴨嘴灘(おうしたん)の水寨に留まった(第55回)。間もなく呼延灼軍との二度目の戦いが始まると宋江はまた梁山泊軍を率いて戦いに出た(第57回)。
この戦いに敗れた呼延灼が青州に雇われて白虎山の孔明を生け捕りにする。桃花山、二竜山、白虎山と梁山泊軍が共同して青州を攻めることになり、宋江は梁山泊軍を率いて出征した(第58回)。
 
宣和元年 2月、華州に捕らえられた史進救出作戦が実行される。呉用の作戦で西嶽華山に参詣する朝廷の使節団を装って華州長官・賀太守を華山に誘い出して殺すことが決まり、宋江は朝廷の高官に変装した(第59回)。

史進、朱武、陳達、陽春が兵を率いて芒碭山の山賊・樊瑞らを攻め、宋江は呉用とともに援軍を率いて出発し、苦戦する史進たちを助けた(第59回)。

3月ころ、曽頭市との最初の戦争が起こる。晁蓋が呼延灼を含む二十名の頭領を選んで曽頭市を攻撃したが、この戦いで晁蓋が致命傷を負った(第60回)。山寨に運ばれた晁蓋は、自分を射た奴を討ち取った者を山寨の主にするようにと遺言して死んだが、みなの勧めでこのときから宋江が仮の第一の頭領となった。これと同時に宋江は山寨の中心となっていた建物の名を聚義庁から忠義堂へと改めた。

5月、呉用にだまされた盧俊義が梁山泊方面に旅してくると梁山泊の手下たちがこれを捕らえ、宋江は盧俊義を梁山泊に二ヶ月間も引き止めた(第61回)。このとき、宋江は盧俊義に梁山泊の第一の頭領の座を譲ると申し出たが、盧俊義に拒否された。

冬、北京に捕らえられた盧俊義と石秀を救出するために梁山泊軍が編成され、宋江が軍を率いて出征した(第63回)。この戦いの最中に宋江は重い病になり、梁山泊軍は一度撤退した(第65回)。宋江の病は、張順が建康府から連れてきた神医・安道全のおかげで治癒した。
 
宣和2年 盧俊義・石秀救出作戦が実行され、梁山泊軍が北京を攻める。宋江は養生のために山寨に留まった(第66回)。この戦いで救出された盧俊義の梁山泊入りが決まると、宋江はまた盧俊義に主の座を譲るといったが、盧俊義は拒否した(第67回)。

春、二度目の曽頭市戦争が起こる。
宋江は、以前曽頭市で戦死した晁蓋が敵の史文恭を討ち取ったものを山寨の主にするという遺言をしていたので、是非とも盧俊義に史文恭を討ち取ってほしいと考え、盧俊義を先鋒になるように提案した。これに呉用が反対したので、結局は盧俊義は燕青とともに間道で待ち伏せするように命じられた。ところが、ここに敵の史文恭が逃げてきて盧俊義に生け捕りにされてしまったので、戦後、宋江は盧俊義に主の座を譲るといいだした。が、盧俊義はそれを拒否し、呉用や李逵たちも反対を表明した(第68回)。

3月、宋江の発案で、宋江と盧俊義のどちらが主になるかを決めるために、宋江が東平府を、盧俊義が東昌府を攻める(第69回)。先に敵城を打ち破った方が主になるという約束だったが、結局は宋江が先に城を落とすことになり、宋江が主ということで落ち着くことになった(第69回)。

4月、梁山泊の頭領たちが百八星の生まれ変わりと判明する。
梁山泊に百八人の頭領が勢揃いしたこの月、宋江の発案で梁山泊で七日間にわたる晁蓋の供養が大々的に営まれた。この七日目の夜、天から火の玉が落ちるという事件があり、宋江がその場所を掘り返させると一枚の碑が出てきた。その碑に刻まれていた古代文字を、供養のために招かれていた博識の道士が解読したところ、碑の表には「替天行動(天に替わって道を行う)」という文字と天罡星三十六名の名が席順に刻まれていることがわかった。さらに碑の裏にも文字があり、そこには地サツ星七十二人の名が席順に刻まれていた。これを見た宋江ははじめて、梁山泊の頭領百八名が上天の星の生まれ変わりであり、ここに集まるように運命づけられていたのだということをさとった(第71回)。この後宋江は百八人全員の最終的な職務分担を定めた。このことがあってから、数カ月間、梁山泊には珍しく平和な日々が続いた。
宣和3年  正月、宋江は柴進、史進、李逵、燕青、李逵たちを率いて密かに東京に灯篭見物に出かけた(第72回)。
 宋江はいつかは朝廷に帰順したいと考えていたので、東京に着くと皇帝と親密な関係にある李師師(りしし)という花魁(おいらん)に自分の思いを皇帝に伝えてほしいと考えた。燕青の活躍で李師師との面会が実現することになった。宋江、柴進、戴宗、燕青の四人が李師師を訪ねて話し始めると間もなく、裏門から皇帝がお忍びで遊びに来たというので、四人は慌てて立ち去るしかなかった。翌日は皇帝は来ない予定だというので宋江、柴進、燕青がまた李師師の家を訪ねたが、この日も皇帝が訪ねてきたという知らせがあり、宋江は自分の思いを李師師に伝えることができなかった。ところで、宋江たちは二度目に李師師と面会したとき、家の前に見張り役として李逵と戴宗を待たせていた。李逵は一度目のときにも見張り役だったので、李師師が美人だということは知っていた。そこで、この日もまた見張り役になった李逵はみなが家の中で美人と酒を飲んでいるのに腹が立ち、李師師の家を訪ねてきた皇帝の付き人とひょんなことからケンカを始めると、あちこちに火を放ってしまった。このため、宋江たちは慌てて東京から逃げ出すことになった。

4月、朝廷が梁山泊を招安するために第一回目の勅使を派遣するという情報が入ると宋江は大いに喜んだ。が、阮小七が朝廷から下賜された酒をただのどぶろくに変えてしまったり、朝廷からの詔書に梁山泊が素直に帰順すれば罪を許すがそうでなければ天誅を加えるなどという言葉があったために、梁山泊の好漢たちが怒りだした。このために、今回の招安はかなわないこととなった(第75回)。

夏、童貫率いる朝廷軍が攻めてくる。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、宋江は中軍で指揮を執った(第76回)。◎秋、梁山泊軍が高俅率いる朝廷軍を二度も打ち破ると朝廷から梁山泊招安を求める二度目の勅使が派遣された。ところが、これを知った高俅が詔書の中に「宋江・盧俊義など大小頭領の犯した罪を許し」とあったのを「宋江を除き、盧俊義など大小頭領の犯した罪を許し」と変更したために、今回もまた梁山泊は朝廷に帰順することができなかった(第80回)。

11月、梁山泊軍は三度目の戦いでも高俅軍を打ち破り、ついに太尉・高俅を生け捕りにした。このとき宋江は高俅をもてなし、皇帝が梁山泊を招安するよう取りなすという約束を高俅から取り付け、蕭譲と楽和をともにして高俅を東京に送りだした。この高俅は結局約束を守らなかったが、この後に梁山泊から派遣された燕青が活躍し、皇帝に直訴したことから、三度梁山泊招安の詔書が下されることになった。
宣和4年  2月、朝廷から三度目の使者が派遣されついに梁山泊の招安が決定する。

3月、梁山泊が朝廷に帰順する(第82回)。

この直後に梁山泊軍が宋軍として宋国の領土を脅かしている遼国討伐に出征することが決まると宋江は十日間の猶予をもらい、呉用、公孫勝たちを率いて梁山泊に戻り、山寨の建物などを解体した(第83回)。

4月ころ、宋軍の壮行会が行われる。皇帝から兵士たち全員に酒や肉が下賜されたが、これを朝廷の小役人がピンハネしたことから、軍の下士官の一人がその小役人を斬るという事件が起こった。これを知った宋江は泣く泣くその下士官を処刑するように命じた。

遼国戦争始まる。

檀州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、宋江は正副の将四十七名を率い、平峪県へ進んだ(第84回)。

薊州攻略後、遼国が梁山泊を招安したいと申し出たので、宋軍ではこの案を受け入れるようなふりをし、宋江が十数名の将と一万の兵を連れて敵の文安県城に入り、後続の部隊と呼応してこれを落とした(第85回)。

幽州での戦い。宋軍が文安県城にいる間に幽州から敵が攻めてくると、呉用と朱武が反対したにも関わらず、宋江と盧俊義は幽州に向けて軍を進めたため、盧俊義率いる一隊が青石峪という谷に閉じ込められてしまった(第86回)。白勝の活躍で事態を知った宋江はすぐにも林冲、李逵らを率いて救出に出かけ、その後幽州も落とした(第86回)。

昌平県境での戦い。
最初の戦いで宋軍は大敗を喫し、宋江は大いに困り果てた。そんなある夜、宋江が陣営の中でうとうとしているとふいに青い服を着た童女が現れ、宋江を九天玄女のところへ連れていった。九天玄女は宋江を見ると、遼国の陣形は混天象の陣と呼ばれるものだといい、どのようにして打ち破ればよいかを説明した(第88回)。宋江はこのとき授かった九天玄女の法を用い、遼国軍を打ち破った(第89回)。敗れた遼国は宋軍に和睦を申し入れ、これを朝廷が受け入れたことから、遼国戦争は宋軍の勝利に終わった。

田虎討伐戦始まる。
遼国戦争後、宋軍は東京に凱旋するが、凱旋するとすぐに宋江は河北の田虎が反乱を起こしたことを知った。宋江はすぐにも田虎討伐を朝廷に申し出、宋軍は休む間もなく次の戦争に出征することになった(第91回)。

田虎討伐戦では宋軍は田虎の領土に近い衛州に結集し、まず初めに盧俊義が陵川城、高平県城を落とした後、兵を一つにして蓋州を落とした(第92回)。
ここで兵を二つに分け、宋江は正副の将四十七名を率いた(第93回)。

昭徳城下の戦い。李逵が敵の捕虜になると、宋江は呉用の意見を無視し、林冲、徐寧、魯智深たちと一緒に兵を率いて進軍した。が、敵将・喬道清の魔法のためにさんざんに苦しめられ、宋江たちは絶体絶命の危機に陥った。するとここに頭に二本の角が生えた不思議な人物が現れ、喬道清の魔法を破り、宋江たちを救出してくれた。呉用によれば、それはこの土地の神で、宋江の忠義心が神の心を動かしたのだという(第95回)。

宋江軍が昭徳城を落として後に宋江軍は敵の女将軍・瓊英に苦しめられるが、間もなくこの瓊英が宋軍に寝返り、張清と結婚することになったことから、戦況は一気に宋軍が有利となった。

宋江軍が威勝城に到着したとき、すでに敵将・田虎、田豹、田彪は捕らえられ、宋軍の勝利は決定していた(第100回)。

王慶討伐戦始まる。宋軍が田虎を討伐したころ、淮西で反乱を起こしていた王慶がさらに強大化し、宛州を打ち破り、ついに東京管下の州県にまで力を及ぼそうとしていた。このため、宋江率いる宋軍は威勝城からまっすぐに王慶討伐戦に向かうことになった(第101回)。

王慶討伐戦では宋軍はまず山南州を取り、ここから盧俊義は正副の将十八名とともに兵を率いて西京を攻め、宋江は残りの将兵を率いて荊南州へ向かった(第107回)。

荊南州の紀山の要害を落とした後に宋江は一度病になったが、安道全の治療のおかげで回復した(第108回)。

南豊州での最終決戦。宋軍は九宮八卦の陣を敷き、宋江は中軍で指揮を執った(第109回)。

王慶戦に勝利して東京に凱旋する。

朝廷は宋江と盧俊義に官爵を授与したが、それは極めて地位の低いものだった。しかも、正月の皇帝拝賀の式典には宋江と盧俊義の参加だけが許され、他の将兵はみだりに東京城内に入ることを禁じられた。こうした扱いに対して、梁山泊の多くの頭領が不満を述べ、水軍の統領たちなどは謀反を起こそうとさえいい始めた。これを知った宋江は一同を集め、自分の忠心は何があっても変わらないので、みなが謀反を起こすというならまず初めにこの宋江の首を斬ってくれと訴えた。宋江にこういわれては梁山泊の仲間たちにはどうすることもできず、これからも異心は抱かないと誓いを立てた(第110回)。それから間もなく、江南で方臘というものが謀反を起こしたことを知った宋江が朝廷に討伐を申し出たことから、宋江率いる宋軍は方臘討伐戦に出征することになった(第110回)。
 
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州城攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、宋江は正副の将四十一名を率いて常州、蘇州へ向かった(第112回)。

常州城攻略戦。宋江軍は常州城を落としたが、潤州の戦いで三名、常州の戦いで二名、さらに宣州を攻めた盧俊義軍でも三名が戦死したことを知った宋江は、こんなに不運が続くのでは方臘討伐はできないだろうと大いに嘆いた。が、呉用に慰められて意を新たにした(第113回)。

杭州城攻略戦。この戦いで張順を失った宋江は大いに嘆き、張順の戦死した湖の岸辺で供養を執り行った(第114回)。

杭州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、宋江は正副の将三十六名とともに睦州へ向かった(第116回)。

睦州烏竜嶺の戦い。
睦州城の入口にあたる烏竜嶺で解珍と解宝が戦死し、敵がその遺骸を放置しているのを知った宋江は呉用が止めるのも聞かず、関勝、花栄たちを率いて遺骸を取り返しに出かけた。これを敵将・石宝の軍勢が迎え討ったことから宋江らは危機に陥ったが、呉用の命令を受けて駆けつけた李逵、秦明たちの活躍で救われた(第117回)。宋江の軍勢は改めて睦州を攻めると、今度は敵の魔法使い鄭魔君が現れた。鄭魔君は不思議な妖術であたりを真っ暗にし、宋江の軍勢を金のよろいをつけた巨人で取り囲んだ。これを見た宋江は唖然とし、「早く死なせてください」と口の中で唱えた。と、このとき宋江の前にまるで書生のような恰好をした男が現れ、一瞬のうちに鄭魔君の魔法を打ち破った。その男はすぐに消えてしまったが、しばらくしてから調べてみるとちょうどその場所に龍神の廟があり、廟の中にあった龍神の聖像がその男と同じ姿をしていた(第117回)。睦州を攻略した宋江軍は盧俊義軍と合流し敵の本拠地・清渓県に攻め込んだ(第118回)。

方臘討伐戦に勝利し、東京に凱旋する。宋江は楚州安撫使と兵馬都総管に任命された(第119回)。その後休暇を取った宋江は弟・宋清と故郷の鄆城県に帰ったが、すでに老父はなくなっていたので大いに悲しんだ。数カ月後、宋江は東京に戻り、それから任地の楚州へ赴いた(第120回)。
 
宣和6年  夏、朝廷の悪臣たちに暗殺される。
朝廷に巣くう奸臣の代表・蔡京・童貫・高俅たちは宋江たちが重く取り立てられたので内心やきもきしていた。奸臣たちは密かに相談をまとめると、盧俊義や宋江たちを殺してしまおうと考えた。宋江が赴任して半年ほどたった宣和6年初夏、どういうわけか朝廷から宋江に酒が贈られることになった。使者が役所にやってきて宋江に酒を勧めた。ところがこの儀式が済んでから急に宋江の腹が痛みだした。このときになって宋江は罠にはめられたことを知ったが、このとき宋江が考えたのは、このまま自分が死んでしまえば後に残った李逵が何をしでかすかわからないということだった。もしも朝廷に対して謀反でも起こすことになれば梁山泊の名が汚れることになる。そう思った宋江はすぐにも使者を派遣して潤州にいる李逵を楚州に呼び出した。李逵はやってくるなり「兄貴、どんな大事な話ですか」と尋ねたが、宋江はまず酒を飲ませた。実はその酒には毒が入っていたのだが李逵には黙っていた。それから宋江は「李逵よ、わたしを責めないでくれ。わたしは朝廷から贈られた毒酒を飲んだためにもう間もなく死ぬ運命なのだが、たとえこんなことになってもわたしは朝廷にそむく気はない。だが、わたしが死ねば、おまえは朝廷に謀反を起こすかも知れない。そこでわたしはおまえを呼びだし、いま毒入りの酒を飲ませたのだ。潤州に帰るころにはおまえの命もないだろうから、死んだ後にはせめて魂だけでも楚州南門外の高原に来なさい。わたしの遺骸は必ずそこにあるから」と涙を流して打ち明けた。李逵は「いいさ、いいさ。おれは生きていたときも死んでからも兄貴と一緒なんだよ」といい、潤州へ帰っていった。李逵と別れた宋江は配下の者に、自分が死んだら南門外の高原に葬るように言い残してから息を引き取った(第120回)。
 
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

Copyright(C) 草野巧 All Right Reserved