梁山泊入山後の活躍 ◆軍師として終始一貫梁山泊を指導し続ける |
政和7年 |
7月、江州で処刑されそうになった宋江と戴宗を救出する。
6月、江州にいた宋江が謀反の罪で捕らえられるという事件が起こった。江州長官・蔡九は父に当たる東京の宰相・蔡京に、宋江をどう処分すべきかを問う手紙を書き、これを牢役人・戴宗に運ばせたのだが、この戴宗が偶然にも朱貴の居酒屋を訪れたことから、梁山泊もこの事件を知ることになった。このとき呉用は宋江を救うために、蔡京から蔡九にあてた偽の手紙を作ることにし、蕭譲と金大堅を入山させて作成させた(第39回)。しかし、この手紙を戴宗に持ち帰らせてから、呉用は自分の失敗に気づいた。父が子に手紙を書くのに本名の印鑑を使う習慣がないのに、呉用は本名の印鑑を使った文書を作成させてしまったのである。このために戴宗までが江州で捕らえられることになったが、呉用はすぐに、好漢たちが変装して杭州城に侵入し、処刑場を襲う作戦を考え、梁山泊の好漢たちに宋江と戴宗を救出させた(第40回)。
7月ころ、宋江が故郷の老父と弟・宋清を梁山泊に招くために単身旅立つ(第42回)。呉用は宋江の身を心配し、すぐにも戴宗を送って宋江の様子を探らせた。このおかげで、宋江は故郷で捕り手たちに捕らえられそうになったのを梁山泊の好漢たちに救われた。 |
政和8年 |
1月ころ、祝家荘との戦争が起こる(第47回)。
この戦いで、梁山泊軍は祝家荘を攻めあぐねていたが、このころ孫立、解珍、解宝ら8名の好漢たちが祝家荘を倒す良策を手みやげにして梁山泊を訪ねてきた。呉用はすぐにも孫立たちを連れて梁山泊軍を訪れ、宋江に相談した上で、この地にやってきた新任の軍人のふりをして祝家荘に侵入するという作戦を孫立たちに実行させた(第49回)。続けて呉用は、李家荘の主人・李応とその支配人の杜興を梁山泊入りさせるため、裴宣、蕭譲、侯健、金大堅らを役人に変装させ、逮捕すると見せかけて李応と杜興を連れ出す作戦を実行させた(第50回)。
7月、朱仝を梁山泊入りさせる作戦を実行する。呉用は李逵、雷横とともに滄州を訪ね、密かに朱仝に会って梁山泊入りを持ちかけた。しかし、朱仝がこれを拒否すると、朱仝が面倒を見ていた滄州長官の愛児を李逵に殺させ、朱仝が滄州にいられなくなるようにして無理矢理に梁山泊入りさせた(第51回)。
秋、柴進を救出するため、梁山泊軍が高唐州を攻撃する。梁山泊軍は高唐州長官・高廉の妖術のために大いに苦しめられ、呉用はこの術を破るにはどうしても公孫勝を探し出すしかないと宋江に進言した(第53回)。そこで、戴宗と李逵が旅に出て、薊州にいた公孫勝を連れ帰り、梁山泊は公孫勝の力で勝利を得た。
冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍との戦う。呉用はその二度目の戦いに出征し、中軍で宋江とともに全軍の指揮を執り、呼延灼を破った(第57回)。
青州に雇われた呼延灼が白虎山の孔明を生け捕りにし、桃花山、二竜山、白虎山と梁山泊軍が共同して青州を攻める。呉用は宋江、花栄とともに夜になってから青州城外の丘の上に行き、城の様子を偵察するふりをして呼延灼をおびき出し、呼延灼を生け捕りにする作戦を実行した(第58回)。 |
宣和元年 |
2月、華州に捕らえられた史進救出作戦が実行される。呉用の作戦で西嶽華山に参詣する朝廷の使節団を装って華州長官・賀太守を華山に誘い出して殺すことが決まり、呉用自身も朝廷の高官に変装した(第59回)。
史進、朱武、陳達、陽春が兵を率いて芒碭山の山賊・樊瑞らを攻め、呉用は宋江とともに援軍を率いて出発し、苦戦する史進たちを助けた(第59回)。◎5月、盧俊義を梁山泊入りさせるため、呉用は李逵ととも北京を訪ね、易者に化けて盧俊義をだまし、盧俊義が梁山泊方面に旅に出るように仕向けた(第61回)。◎冬、北京に捕らえられた盧俊義と石秀を救出するために梁山泊軍が編成され、呉用は軍師として出征した(第63回)。 |
宣和2年 |
正月、再度北京攻撃軍が編成され、呉用はあらかじめ多数の好漢たちを北京城内に潜入させ、内外呼応して北京を攻撃する作戦を実行し、盧俊義と石秀を救出した(第66回)。
春、曽頭市との二度目の戦争が起こる。
このとき宋江は、以前曽頭市との戦いで戦死した晁蓋が敵の史文恭を討ち取ったものを山寨の主にするという遺言をしていたので、是非とも盧俊義に史文恭を討ち取ってほしいと考え、盧俊義を先鋒にしようとした。呉用はそんなことになったら大変だと考え、盧俊義と燕青には兵を率いて間道で待ち伏せするように命じた。ところがここに史文恭が逃げてきて盧俊義に生け捕りにされてしまったので、戦後、宋江は盧俊義に主の座を譲るといいだした。呉用はそんなことばかりいっていてはみなの気持ちが離れてしまうと宋江に進言し、頭領たちにも目配せし、一緒に反対するように仕向けた(第68回)。
3月、宋江の発案で、宋江と盧俊義のどちらが主になるかを決めるために、宋江が東平府を、盧俊義が東昌府を攻めることになり、呉用は盧俊義の軍に加わった(第69回)。このとき、盧俊義軍は苦戦して宋江軍の応援を仰ぐことになるが、呉用はなぜか最初は少しも働かず、宋江がやってきてから敵将・張清を生け捕りにするため、糧秣船をおとりにして張清をおびき出す作戦を実行した(第70回)。 |
宣和3年 |
正月、呉用の反対を押し切って、宋江が柴進、燕青らと東京に灯篭見物に出かける。呉用は宋江の身を心配し、五虎将に千の兵を与えて東京に派遣した(第72回)。
4月、朝廷が梁山泊を招安するために第一回目の勅使を派遣するという情報が入る。宋江は大いに喜んだが、呉用は今度の招安は良い結果にならないだろうと予言した。朝廷の大軍に攻めてこさせ、大打撃を与えてから招安を受け入れた方が梁山泊には有利だというのが呉用の考えで、結果はその通りになった(第75回)。
夏、童貫率いる朝廷軍が攻め寄せる。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、呉用は中軍で宋江の側に位置した(第76回)。
秋、高俅率いる朝廷軍と戦う。二度目の戦いで、呉用は追カンの計を用い、梁山泊の軍団にたえず敵の背後から攻めたてさせ、敵を大いに痛めつけた(第79回)。 |
宣和4年 |
春、朝廷からの三度目の招安の勅使として宿太尉が梁山泊を訪れる。呉用は朱武、蕭譲らとともに済州まで出迎えに出かけた(第82回)。
3月、梁山泊が朝廷に帰順し、それを祝う式典が東京で行われる。このときほとんどの頭領が軍装で身を包んでいる中で、呉用は黒い頭巾をかぶり道服という恰好をしていた。他に独自の恰好をしていたのは、公孫勝、魯智深、武松だけだった(第82回)。
この直後、宋江、呉用、公孫勝たち十二名の将が兵を率いて梁山泊に戻り、建物の取り壊しなどを行った(第83回)。
4月ころ、遼国戦争が始まり、呉用は宋軍の軍師として出征した。
檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、呉用は宋江麾下の軍師となった(第84回)。
薊州攻略後、遼国が宋軍を招安したいと申し出たので、宋軍ではこの案を受け入れるようなふりをして宋江以下十数名の将が一万の兵を連れて敵の覇州文安県城に入った。呉用は遅れていったようなふりをして敵の関所を開けさせ、後続の攻撃部隊を関所の中に引き入れ、宋江らと呼応して文安県城を落とした(第85回)。
幽州での戦い。呉用と朱武が反対したにも関わらず、宋江と盧俊義が幽州に向けて軍を進め、盧俊義率いる一隊が青石峪という谷に閉じ込められてしまった(第86回)。その後、呉用は兵を三手に分ける作戦で、幽州城を攻略した(第87回)。
昌平県境の最初の戦い。呉用は九宮八卦の陣を敷かせたが、敵に打ち勝つことはできなかった(第88回)。
田虎討伐戦始まる。 |
(宣和5年) |
蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、呉用は宋江麾下の軍師となった(第93回)。
昭徳城攻略戦。敵将・喬道清の妖術に苦しめられると、呉用は守備隊として壷関に残っている樊瑞を呼ぶべきだと主張したが宋江はこれを無視して林冲、徐寧らとともに出陣し、喬道清の魔法のために危機に陥った。呉用はすぐにも王英、扈三娘らを率いて援軍に出て、宋江らを救出した(第95回)。
王慶討伐戦始まる。
山南州城攻略戦。呉用の作戦で李俊ら水軍メンバーと李逵、魯智深らが兵糧船に乗り込み、敵がこれを奪いに来るところに襲いかかって城を攻略した(第106回)。
南豊州での最終決戦。宋軍は九宮八卦の陣を敷き、呉用は中軍で宋江の側に位置した(第109回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
潤州城攻略戦。呉用は敵城に糧秣を納入する大商人の船団を装う作戦を立て、潤州城を落とした(第111回)。
潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、呉用は宋江麾下の軍師となり、常州、蘇州へ向かった(第112回)。
江州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、呉用は宋江麾下の軍師として睦州に向かった(第116回)。
睦州の戦い。睦州城手前の烏竜嶺の戦いで解珍、解宝が戦死すると、呉用が反対したにも関わらず宋江は関勝、花栄らを率いてその死体を奪い返しに出発した。呉用はすぐにも李逵、魯智深、秦明らに命じて宋江の援護に出発させ、危機に陥った宋江を救出させた(第117回)。
9月、方臘討伐戦に勝利し、東京に凱旋する。 |
宣和6年 |
夏、毒殺された宋江に殉じて死を選ぶ(第120回)。
方臘討伐後、呉用は宋軍とともに東京に凱旋し、朝廷から武勝軍(州)の承宣使に任命され、すぐにも武勝軍に赴任した。ところが翌年夏のある夜、呉用は夢の中で宋江と李逵に会い、二人が高俅らの陰謀で朝廷から毒酒をたまわって毒殺され、楚州の高原に葬られたことを告げられた。翌日呉用は楚州へ旅立ち、宋江と李逵の墓を訪ねた。間もなく同じように不思議な夢を見た花栄がそこにやって来て、二人は再会した。このとき呉用が自分は宋江の恩義に報いるためにここで死のうと考えているというと、花栄もその後に従うと応えた。呉用は、「あなたには妻子があるのだからよく考えなさい」と忠告したが、花栄はきかなかった。こうして呉用は花栄とともに宋江の墓のそばの木に首をかけて死んだ(第120回)。 |