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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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天貴星
てんきせい
柴進
さいしん
 梁山泊での順位  10位
 持ち場  金銭糧秣を管理する頭領
 特技  なし
 あだ名  小旋風
 出身地・前歴  滄州横海郡・大地主
 小旋風とは小さなつむじ風のこと。後周王朝の皇帝の子孫で、みなが畏れたてまつっていたので小旋風と呼ばれた。
流れ者の好漢たちの世話をしていた大金持ちの好人物
 柴進は天罡星のひとつ天貴星が生まれ変わった好漢である。
 滄州に住む大金持ちの好人物で、自分の屋敷にいつでも四五十人の流れ者の好漢たちを泊めて面倒を見ていた。宋江、林冲、武松といった大物たちの面倒を見たこともある。柴進は宋に天下を譲った後周最後の皇帝・柴世宗の子孫だったので、宋朝の最初の皇帝から与えられた、何があっても逮捕されないという権利を代々受け継いでいた。このため、柴進の屋敷は一種の治外法権で、どんな罪人でも安心して暮らすことができたのだ。柴進が梁山泊で第十位という高位についているのも、平素から宋江を含む多くの好漢たちの面倒を見ていたという実績と生まれのよさがあったからだった。特別に強いとか専門的技能を持っているということもないので、活躍することはほとんどないが、どんな大人物と一緒にいても不自然さを感じさせない人物である。
柴進の物語
◆林冲・宋江・武松らを屋敷に招いて世話をする

 柴進は滄州郊外の横海郡に住む三十四五歳の大金持ちで、あちこちに別荘も所有していた。流れ者の好漢たちが訪ねてくればよく面倒を見たので、屋敷にはいつも四五十人の好漢たちが滞在していた。ある年の夏、猟を終えた柴進が馬に乗り、配下の者たちを引き連れて屋敷の近くまで戻ってくると、二人の護送役人と一緒にいる首枷をつけた罪人の姿が目に入った。柴進はわざわざ馬を走らせて近づき、「あなたはどなたでしょうか」と訪ねた(第9回)。「東京禁軍の武芸師範・林冲です。太尉・高俅の罠にはまり、滄州へ流罪となったのです」と男は応えた。林冲の名は柴進も知っていたので、すぐに馬から下り、「本来ならこちらからお迎えしなければならないのに」といって謝罪した。それから柴進は林冲と護送役人たちを自分の屋敷に招いた。
 屋敷につくと柴進は林冲を座敷に招き、客の座につかせたが、そこに屋敷の下男たちが肉一皿、餅一皿、酒一壷、銭十銭などを盆にのせて持ってきた。これを見た柴進は、「なんて人を見る目がないんだ。林冲どのがおいでくださったというのに、こんな粗略なことでどうする」と叱りつけた。そして、柴進はあらためて一頭の羊をつぶさせ、贅沢な酒食で林冲をもてなした。
 ところで、このころ柴進の屋敷には洪教頭というなまいきな流れ者が滞在していた。この男はちょっとばかり武芸ができるというので、柴進の屋敷にいても他の者を見下すような態度をとっていたので、柴進もあまり気に入ってはいなかった。柴進が林冲をもてなしてやがて夕刻になったころ、この洪教頭が柴進と林冲のいる座敷に入ってきた。柴進はすぐにも、「東京八十万禁軍の槍棒の教頭、林冲どのです」といって林冲を洪教頭に引き合わせたが、洪教頭は胸を反り返すばかりで、林冲が礼をしたのに答礼もしない。そして、柴進に譲られた上座にあたる席に遠慮会釈もなしに座ると林冲が首枷をつけているのを見て、「大官人どの、どうして流罪の軍人なんかをもてなすのです。大官人どのが槍棒が好きだというので、猫も杓子も自分は槍棒の教師だなどと嘘を言って、大官人どのにたかりに来るのですよ。そんな言葉を信用してはいけません。なんならわしが一勝負してもいい」といいだした。柴進は「それはいい」とすぐにも乗り気になったが、林冲は遠慮するという。実は、林冲は洪教頭というのが柴進の師匠だろうと勘違いしていて、恥をかかせてはまずいと思っていたのだ。柴進は林冲の様子からそれと察知すると、「この洪教頭どのもつい最近こちらに見えた方なんですよ。遠慮することはないんですよ」といい、林冲の気遣いを捨てさせた。それから柴進は護送役人たちに賄賂を使って一時的に林冲の首枷をはずしてもらい、さらに二十五両の賞金を用意した。しばらくして月明かりの中で二人の勝負が始まると、その結果は林冲の圧勝だった。洪教頭は下男たちからも笑われ、恥ずかしがって屋敷を出ていってしまった。柴進は大いに喜んだ。柴進はさらに十日間ほども林冲を屋敷に滞在させてもてなし、それから林冲と護送役人を滄州へ送りだした。柴進は滄州長官とも親しくしていたので、林冲が滄州で困ったことにならないように、滄州長官に宛てた手紙を書き、それを林冲に持たせることも忘れなかった。
 こうして柴進は林冲と別れたが、この年の冬、柴進はまた林冲の面倒を見ることになった。滄州へ送られた林冲は当初は平和に暮らしていたが、冬になると林冲を亡き者にしようという殺し屋たちが滄州までやってきた。このため林冲は自分の命を狙った三人を殺し、雪の中を逃走することになった。その途中、林冲は土地の百姓たちといざこざを起こし、逆に捕らえられ、ある屋敷に運ばれた。その屋敷が柴進の東の別荘だった。夜、百姓たちが誰かを吊るして打ちたたいている音を聞いた柴進が出ていって見ると、それが林冲だったので柴進は大いに驚いた(第11回)。柴進はすぐにも林冲の縄を解かせ、事情を聞くと林冲を別荘に留め、下男たちに身の回りの世話をさせた。一週間ほどしたとき林冲が、「わたしが殺人を犯したために、役所では一軒一軒厳しく捜し回っているようです。このままでは大官人どのにも迷惑がかかります。いくらかの路銀をめぐんでいただき、どこか別な場所を捜して身を隠したいのですが」といいだした。これを聞いた柴進はすぐにも林冲に梁山泊に頼ることを進めた。このころ、梁山泊では王倫、杜遷、宋万が頭領をしていたが、柴進はかつて王倫の面倒を見ていたこともあり、これらの頭領たちと親しくしていたからだった。「いますぐ手紙を書きますから、それを持って梁山泊を訪ねればいいでしょう」と柴進はいった。問題は滄州道の出入口で、林冲を捕らえるために二人の軍官が見張りをしていることだったが、これについても柴進はいいことを思いついた。
 その日、柴進は二三十頭の馬や鷹や猟犬などを用意し、まるで大勢の配下の者たちと猟にでも出かけるように見せかけ、その中に林冲をまぎれ込ませた。やがて一行が関所まで来ると、軍官たちは柴進たちのことをよく知っていたので、笑顔で挨拶してきた。「いったいどうして見張りなどしているのです」と柴進がいうと、「殺人犯林冲を捕らえるためです」と軍官は応えた。柴進は笑いながら、「では、この中にいる林冲を当ててもらいましょうか」といったが、軍官たちはもちろんそんなことをするはずもない。「いやいや、そんなことをする必要はないでしょう。さあ、どうぞお通りください」という。こうして、柴進は難なく関所を越え、林冲を滄州から送り出した。
 この後も、柴進は多くの流れ者の面倒を見続け、翌年の十月ごろには、横海郡にある柴進の屋敷を宋江と弟の宋清が訪ねてきた(第22回)。宋江も柴進が好漢たちの面倒を見る立派な人物だと知っていたので、ウン城県で愛人の閻婆惜を殺し、弟ともに逃亡しなければならなくなったとき、まず初めに柴進を頼ることに決めたのである。相手が好漢たちの間で名を知らぬ者のない有名な宋江だったので、柴進も大いに喜び、「わたしのところに来れば、心配することは何もありません」といって歓迎した。その日、柴進は宋江と宋清を大いにもてなしたが、ずいぶん長く飲み続けた宋江が小用に立ったとき、ひょんなことから、すでに一年近くも柴進の屋敷で世話になっていた大男が宋江を怒鳴りつけ、殴りかかるという事件が起こった。この大男はつい最近おこり(マラリア)をわずらい、寒くてならないので廊下で火鉢にあたっていた。そこへ宋江が千鳥足で通りかかり、あやまって火箸につまづき、火鉢の火が大男の顔にかかってしまったのである。宋江を案内していた下男がなだめても大男の怒りは治まらない。騒ぎを聞いた柴進はびっくりして駆けつけたが、その原因がまったくつまらぬことだったので笑い出し、「おまえさんはまだこの偉い人物を知らないんだな」と大男にいった。すると、大男がいくら偉いといってもウン城県の宋江どのほどではあるまいというので柴進はさらにおかしくなり、「この人こそ、その宋江どのだよ」と紹介した。それから、柴進はその大男を宋江に紹介した。実はそれが武松だった。お互いの名を知ると宋江も武松も大いに喜んだので、柴進は武松も連れて座敷に戻り、再び酒席を整えさせた。宋江と武松はこの後十日間ほど柴進の屋敷に留まり、それぞれの目的地へと旅に出た(第23回)。

◆高唐州で捕らえられ梁山泊に救出される

 三年後の7月ごろには、すでに梁山泊の頭領になっていた宋江から依頼の手紙を受け、柴進は朱仝を梁山泊入りさせるための作戦の手助けをした。そのころ罪人として滄州に送られた朱仝は滄州長官の愛児とよく遊びに出かけたが、李逵がこの子を殺し、朱仝が滄州にいられなくなるようにして無理矢理梁山泊入りさせるというのがその作戦だった。この作戦のために呉用、李逵、雷横が柴進の屋敷に滞在し、作戦実行後には李逵が朱仝をその屋敷に誘い込んだ。李逵が、立派な人物として知られた柴進の屋敷に逃げ込んだことを不思議がる朱仝に、柴進は李逵がなぜ滄州長官の愛児を殺したかを説明した。これを聞いた朱仝はやむを得ず梁山泊入りを承知したものの、殺人者の李逵がいる限りは梁山泊へ行きたくないといった。そこで、李逵だけは柴進の屋敷に留まり、朱仝、呉用、雷横の三人で梁山泊へ行くことになった。
 こうして、李逵はしばらくの間柴進の屋敷に留まることになったが、それから一ヶ月ほどして、柴進の屋敷に一通の手紙が届けられた(第52回)。それを読んで柴進は大いに驚いた。柴進には高唐州に柴皇城(さいこうじょう)という叔父がおり、柴進と同じく後周皇帝の子孫に与えられた特権を持っていた。ところが、高唐州長官・高廉の義弟に当たる殷天錫(いんてんしゃく)という男がこの叔父の庭園に目を付け、叔父の持つ特権を無視して無理矢理に横取りしようとしているのだという。高廉は東京の太尉・高俅の従弟だったので大きな権力を持っていたが、高廉の妻の弟の殷天錫もその権力を利用したのである。殷天錫は柴皇城に殴る蹴るの暴力まで振るった。このために叔父は病気になっていまにも死にそうで、どうしても柴進にいい残したいことがあるのだという。「これではわたしが行かないわけにはいかない」と柴進がいうと李逵は自分も一緒にという。そこで、柴進は李逵と一緒に従者を引き連れ、馬に乗って高唐州へ向かった。
 高唐州に着いた柴進はすぐにも柴皇城を見舞ったが、柴皇城は柴進に、自分たちに与えられている特権の証明書をもって皇帝に直訴し、恨みを晴らしてくれと頼むなり、あっさり息を引き取ってしまった。李逵は大いに腹を立て、すぐにも殷天錫をたたき殺してやろうといいだしたが、柴進はそれをなだめ、従者に命じて滄州の屋敷に保管してある特権の証明書を取りにやらせた。その一方で、柴進はてきぱきと準備を進め、柴皇城の葬儀を営んだ。
 それから三日たったとき、殷天錫が大勢のごろつきを引き連れて柴皇城の屋敷を訪ねてきた。柴進が出ていって名を名乗ると、「この間、おれがここから出て行けといったのに、どうしてまだこの屋敷にいるんだ」と怒鳴った。叔父が亡くなったばかりだから四十九日がすむまでは無理ですと柴進がいっても少しも聞かない。「うるさい。三日以内だ。さもなければおまえらみんな百叩きの刑にしてやるからな」と殷天錫。柴進の家には先祖から受け継いでいる特権の証明書があるから勝手な手出しはできないと聞かされてもはなから信じようとはせず、逆に怒り出して、「そんなものにびびるようなおれさまじゃない。ものども、こいつをやっつけろ」といいだした。ところが、ちょうどこのとき、柴進と殷天錫のやりとりを戸の隙間からのぞき見ていた李逵がいまだとばかり飛び出してくると大声を上げながら殷天錫に襲いかかり、馬から引きずり下ろしてぼかすか殴り始めた。柴進がとめても李逵は耳を貸さない。殷天錫のごろつき仲間が助けようとしたが、あっという間に五六人が殴り倒されると残りの者たちは近づこうともしない。そうこうするうち、李逵の拳固で殷天錫は死んでしまった。これを見た柴進は、「このままここにいたらあなたは逮捕されて死刑になる。すぐに梁山泊へ帰りなさい。わたしは特権の証明書があるから少しも心配することはない。さあ、急ぐんだ」といって無理矢理に李逵を梁山泊へ向かわせた。間もなく大勢の捕り手たちが柴皇城の屋敷を取り囲み、柴進は捕らえられて高唐州長官・高廉の前にひきすえられた。妻の弟を殺されて激怒する高廉に柴進は、「殷天錫どのが柴皇城の屋敷を乗っ取ろうとして仲間の者たちにわたしを殴らせようとしたところ、下男の李大という者が出てきて殴り殺してしまったのです。李大は慌てて逃げてしまいました」と説明した。が、高廉はそれを信じず、柴進を激しい拷問にかけたうえ、首枷をつけて死刑囚の牢に監禁した。柴皇城の家族や滄州にいた柴進の身内の者たちまでが捕らえられ、牢に入れられた。
 こうなると柴進自身にはもはやどうすることもできなかったが、幸いにも梁山泊へ逃げ帰った李逵が、高唐州で自分のやったことを宋江らに報告した。さらに、呉用の命令で柴進と李逵の様子を探りに出ていた戴宗も梁山泊に戻り、柴進が高唐州で捕らえられたことを報告した。この結果、梁山泊軍が編成されて高唐州への攻撃が始まると高廉は戦いに忙しくなり、柴進の問題は先延ばしにされた。冬になって梁山泊軍がやっとのことで高唐州を落としたとき、柴進はどうにか生きていたが、古井戸の中でいまにも死にそうな状態だった。これより三日前に、高廉は牢屋詰めの軍官に柴進を殺すように命じたが、この軍官が柴進が立派な人物だと知っており、柴進を殺さずに古井戸の中に隠したからだった。梁山泊軍は柴進だけでなく、その一族の者たちも救出し、梁山泊に招いた。このときから、柴進は梁山泊の仲間になった(第54回)。
梁山泊入山後の活躍
◆大物ではあるが戦争では活躍しなかった柴進
政和8年 冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍との戦い。柴進は二回目の戦いに加わり、騎兵を率いて山麓で敵の挑発にあたった(第57回)。

青州に雇われた呼延灼が白虎山の孔明を生け捕りにすると柴進は梁山泊軍の一員として青州を攻撃した(第58回)。
宣和元年 史進が朱武、陳達、陽春を率いて芒碭山の山賊・樊瑞らを退治するために出征し、柴進は朱仝らとともに宋江に率いられて援軍に出かけた(第59回)。

秋、盧俊義が北京で死刑囚として逮捕される。柴進は戴宗とともに北京を訪れ、牢役人の蔡福と蔡京に会い、大金を贈って盧俊義の命を助けるために働いてくれるよう依頼した(第62回)。
宣和2年 正月、盧俊義・石秀救出作戦が実行される。柴進は楽和はとともに軍官に扮して北京に侵入し、梁山泊軍が救出に来るまで盧俊義と石秀を殺さないように牢役人の蔡慶と蔡福に頼みに行った(第66回)。
宣和3年 正月、柴進は史進、魯智深たちと一緒に宋江の供となり、15日の元宵節の祭りを見物しに密かに東京に行く(第72回)。
 一行が東京城外の宿に入った後、柴進は燕青とともにみなよりも一足早く東京城内の様子を探りに出かけた。このとき柴進は街にいた捕盗役人の一人をだまして衣服を奪い取り、役人に変装して皇帝の住む内裏に侵入した。皇帝の執務室まで来た柴進はそこにあった衝立に、「山東宋江/淮西王慶/河北田虎/江南方臘」と四大反逆者の名が書かれているのを見つけ、刃物を取り出すと「山東宋江」の四字だけ削り取ってから外へ出た。また、東京にいる間に、宋江が皇帝と親密な関係にある李師師(りしし)という花魁に会うことになると、柴進は燕青と一緒に二度にわたって宋江と李師師の面会に同席した。

4月、朝廷から梁山泊招安を求める第一回目の勅使が梁山泊を訪れる。宋清と曹正が宴席の用意を命じられ、柴進はその監督と手配を命じられた(第75回)。
宣和4年 3月、梁山泊が朝廷に帰順する。

4月ころ、遼国戦争が始まり、柴進は宋軍の正将として出征した。

檀州城攻略後、柴進は守備隊に編入され檀州に残った(第84回)。後に幽州城まで進んだ本隊に合流した(第110回)。

昌平県境での最終決戦。宋軍は九天玄女の法を用い、柴進は副将として敵の土星の陣に討ち入る一隊に加わった(第89回)。

田虎討伐戦始まる。

陵川城攻略後、柴進は李応とともにその城の守備隊となった(第92回)。
(宣和5年) 宋江軍による昭徳城攻略後、陵川城にいた柴進たちは本隊と合流した(第99回)。

王慶討伐戦始まる。

荊南州攻略後、宋軍は南豊州へ進軍する。柴進は李応らとともに本隊の後から糧秣車や火砲の車両を護送した。この途中、敵に襲われた柴進らは見事にこれを撃退し、糧秣を本営に届けた(第108回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州城攻撃前、柴進は張順とともに敵地の偵察を命じられた(第111回)。

潤州城攻略戦。宋軍は潤州城に糧秣を納入する敵側の大商人の兵糧船を装う作戦を取る。柴進は第三団の船に乗り込み、潤州城を襲った(第111回)。

潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、柴進は盧俊義麾下の軍に編入され、宣州、湖州へ向かった(第112回)。

宣州攻略後、柴進は勝利を報告する使者に任命され常州にいる宋江を訪ねた。

柴進と燕青がスパイとして敵地に乗り込む。
 宋軍がこれから杭州を攻めようというとき、柴進は自らスパイになることを宋江に申し出て、燕青とともに方臘の本拠地へ向かった(第114回)。睦州へ入った二人は柴進が学者の柯引、燕青はその従者と名乗って敵城に入った。さらに敵の本拠地清渓県に案内され、敵将たちと目通りした。柴進は学識があったので、誰も疑う者はなかった。柴進はうまい言葉で方臘をもだまし、ついに皇女の婿になるまでに出世した(第118回)。宋軍が清渓県まで押し寄せ、方臘一味が宮殿のあるホウ源洞に逃げ込んだとき、二人は正体を現した。「おれは柯引ではなく柴進だ」と叫んだ柴進は、宋軍の関勝、花栄、朱仝、李応を導いて洞内に攻め込んだ(第119回)。

方臘討伐戦に勝利し、東京に凱旋する。柴進は朝廷から横海軍滄州都統制に任じられた。が、間もなく自ら辞令を返上して横海郡に帰った。それから柴進は庶民として気ままな暮らしを楽しみ、ある日突然病気にもならずに死んでしまった(第120回)。
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