梁山泊入山後の活躍
◆方臘討伐後杭州で病に倒れる |
政和5年 |
梁山泊へ逃げた晁蓋一味を捕らえるために済州の兵が攻め寄せる。林冲は敵の軍馬600頭以上を奪う活躍をした(第20回)。 |
政和8年 |
1月ころ、祝家荘戦争に参加する(第47回)。林冲は扈三娘を生け捕りにする活躍をした(第48回)。祝家荘戦争に勝利したあとには、李家荘の李応と杜興を梁山泊に引き込むために蕭譲らが役人に変装して二人を逮捕すると見せかけて屋敷から連れ出した。林冲は宋江らとともにこの一団を襲ったふりをし、二人を梁山泊までつれてきた(第50回)。
秋、柴進を救出するため高唐州攻撃軍が編成される。林冲は花栄らとともに先鋒隊に加わった(第52回)。
冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍と戦う。林冲は最初の戦いで敵の矢をうけて負傷し、養生のために戦線を離脱した(第55回)。 |
宣和元年 |
2月、華州に捕らえられた史進を救出するため、呉用の作戦で西嶽華山に参詣する朝廷の使節団を装って華州長官・賀太守を華山に誘い出して殺す。林冲はこの作戦の間に秦明らとともに華州城を攻撃した(第59回)。
4月ころ、第一回目の曽頭市との戦争が起こる。林冲は晁蓋が編成した曽頭市攻撃軍に加わった(第60回)。
5月ころ、北京に住む盧俊義を梁山泊入りさせるための作戦が実行される。呉用にだまされた盧俊義が梁山泊方面に旅してくると、林冲は軍勢を率いて盧俊義を襲った(第61回)。
秋、盧俊義と石秀を救出するための北京攻撃軍に加わる(第63回)。この戦いの途中、関勝の軍が梁山泊に攻め寄せたことがわかると、林冲らが後軍となって敵の追撃を防ぎながら、梁山泊軍は撤退した(第64回)。
関勝率いる梁山泊討伐軍と戦う。林冲は秦明とともに敵将・関勝と戦い、関勝を打ち倒すのは時間の問題となったが、宋江が太鼓を鳴らしてこの戦いを止めてしまった。宋江は関勝を殺すのは惜しいと考えたのだが、これには林冲も秦明も不満を持った(第64回)。 |
宣和2年 |
正月、盧俊義・石秀救出作戦が実行される。林冲は北京攻撃軍に加わった(第66回)。
1月ころ、梁山泊討伐軍の指揮官に凌州の二将・単廷珪と魏定国が任命される。林冲は関勝、宣贊、郝思文、黄信とともに凌州近くで単廷珪、魏定国の軍を攻撃した(第67回)。
3月、東平府・東昌府攻撃軍が編成される。林冲は宋江麾下の軍に編入され、東平府を攻め、敵軍指揮官・董平を生け捕るのに貢献した(第69回)。 |
宣和3年 |
正月。宋江が李逵たちと一緒に東京に灯篭見物に行く。林冲たち五虎将は呉用の命令で後から東京を訪れ、東京で捕まりそうになった宋江を救出し、梁山泊へ連れ帰る(第72回)。この直後、燕青と一緒に後から戻ってきた李逵が誤解から、宋江を大斧で殺そうとした。林冲たち五虎将を慌ててこれを遮り、李逵を忠義堂から引きずり下ろした(第73回)。
4月。朝廷が梁山泊を招安するための使者を派遣するという情報が入り、宋江が大いに喜ぶ。しかし、林冲は関勝や徐寧とともに朝廷に対する不信感を表した(第75回)。
夏。童貫率いる梁山泊討伐軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、林冲は大将として西門に位置する一隊を率いた(第76回)。
秋、高俅率いる梁山泊討伐軍と戦う。林冲は最初の戦いで敵将・王煥と引き分けた(第78回)
11月、高俅が海鰍船数百隻を率いて梁山泊に攻め寄せる。林冲は陸路を受け持つ盧俊義麾下の軍に編入され、敵の陸軍を追い払う(第80回)。 |
宣和4年 |
3月、梁山泊が朝廷に帰順する。林冲は宋江、呉用たちとともに兵を率いて梁山泊に戻り、建物の取り壊しなどを行った(第83回)。
4月。遼国戦争が起こり、林冲は宋軍の正将として出征する。
檀州城攻略戦。林冲は花栄たちと一緒に真っ先に飛び出し、敵将・阿里奇を生け捕った(第83回)。
檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、林冲は宋江麾下の軍に編入された(第84回)。
薊州攻略後、遼国から梁山泊軍を招安したいという申し出があり、宋軍では宋江と一部の将兵が敵に寝返ったように見せる作戦を採る。林冲を含む十数名の将が一万の兵を連れ、宋江と一緒に敵の文安県城に入り、後続の部隊と呼応してこれを落とした(第85回)。
幽州での戦い。盧俊義率いる一隊が青石峪という谷に閉じ込められると、林冲は宋江、李逵らと救援に駆けつけた。林冲は敵将・賀拆をたった二合打ち合っただけで討ち取った(第86回)。
昌平県境での最初の戦い。林冲は朱仝らとともに敵の黒旗の陣を打ち破ったが、戦いには勝てなかった(第88回)。
昌平県境での最終決戦。宋軍は九天幻女の法を用い、林冲は大将として敵の木星の陣に討ち入る一隊を率いた(第89回)。
田虎討伐戦始まる。
蓋州城攻略戦。林冲は黄信らとともに右軍を率いた(第92回)。 |
(宣和5年) |
蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、林冲は宋江麾下の軍に編入された(第93回)。
壷関の戦い。林冲は敵将・伍粛を討ち取った(第94回)。
昭徳城攻略戦。敵将・喬道清の妖術のために林冲は徐寧や宋江とともに危機に陥ったが、不思議な土地の神によって救われた(第95回)。
襄垣県境の戦い。林冲は敵の女将軍・瓊英を捕まえようとしたが、瓊英の石つぶてを顔面に受けて逃げ帰った(第98回)。
昭徳州での戦い。敵の援軍が昭徳城を奪還しに来るという情報が入り、林冲は花栄らとともに騎兵軍を率いて途中で敵を待ち伏せし、撃退した。林冲は敵将・顧愷を討ち取った(第99回)。
宛州城攻略戦。林冲は董平らとともに伏兵となって宛州西方に陣を取り、北方から来た敵の援軍を撃退した(第105回)。
宛州攻略後、林冲は花栄らとともに守備隊として宛州城に残った。敵軍が宛州を取り戻すために攻めてきたが、林冲と花栄はすぐにも敵将二人を討ち取った(第106回)。
南豊州での最終決戦。宋軍は九宮八卦の陣を敷き、林冲は大将として西門の一隊を率い、敵将・柳元を討ち取った(第109回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、林冲は盧俊義麾下の軍に編入され宣州、湖州へ向かった(第112回)。
宣州城攻略戦。林冲は敵将・杜敬臣を討ち取った。
湖州攻略後、盧俊義軍は兵を二隊に分け、林冲は盧俊義指揮下に独松関に向かった(第114回)。
独松関の戦い。林冲は敵将・蔣印を負傷させた(第115回)。
杭州城攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、林冲は盧俊義麾下に編入され、歙州へ向かった(第118回)。
方臘討伐戦に勝利後、杭州で病死する。方臘討伐戦に勝利した宋軍は東京への帰路に杭州城に立ち寄るが、このとき林冲は突然に中風にかかり、動けなくなった。このため、林冲は宋軍と別れて杭州の六和寺に残って武松の看病を受けることになったが、半年後に死亡した(第119回)。 |