梁山泊入山後の活躍
◆優れた軍人として方臘討伐後までも戦い続ける |
宣和元年 |
2月、華州に捕らえられた史進を救出するため、呉用の作戦で西嶽華山に参詣する朝廷の使節団を装って華州長官・賀太守を華山に誘い出して殺す。呼延灼はこの作戦の間に秦明らとともに華州城を攻撃した(第59回)。
史進が朱武、陳達、陽春を率いて芒碭山の山賊・樊瑞らを退治するために出征し、呼延灼は花栄、柴進らとともに援軍に出かけた(第59回)。
3月ころ、曽頭市との第一回目の戦争が起こる。晁蓋が呼延灼、徐寧を含む二十名の頭領を選んで曽頭市を攻撃した(第60回)。
5月ころ、北京に住む盧俊義を梁山泊入りさせるための作戦が実行される。呉用にだまされた盧俊義が梁山泊方面に旅してくると、呼延灼は李逵や魯智深らとともに盧俊義を襲って戦った(第61回)。
秋、盧俊義と石秀を救出するための北京攻撃軍に加わる(第63回)。この戦いの途中、関勝の軍が梁山泊に攻め寄せたことがわかると、呼延灼らが後軍となって敵の追撃を防ぎながら、梁山泊軍は撤退した(第64回)。
関勝率いる梁山泊討伐軍と戦う。関勝と古い仲だった呼延灼は密かに関勝を訪ねてだまし、関勝、宣贊、郝思文を生け捕りにするのに貢献した。 |
宣和2年 |
正月、盧俊義・石秀救出作戦が実行される。呼延灼は北京攻撃軍に加わり、前軍を率いた(第66回)。
3月、東平府・東昌府攻撃軍が編成される。呼延灼は盧俊義軍に加わり、東昌府を攻めた(第69回)。この戦いで、呼延灼は敵将・張清の石つぶてを腕に受け、双鞭を使えなくなって逃げ帰った(第70回)。 |
宣和3年 |
正月、宋江が李逵たちと一緒に東京に灯篭見物に行く。呼延灼たち五虎将は呉用の命令で宋江のあとを追い、東京で捕まりそうになった宋江を救出し、梁山泊へ連れ帰った(第72回)。この直後、一人だけ後から戻ってきた李逵が誤解から、宋江を大斧で殺そうとし、呼延灼たち五虎将が慌ててこれを遮り、李逵を忠義堂から引きずり下ろした(第73回)。
夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、呼延灼は大将として北の一隊を率いた(第76回)。
秋、高俅率いる朝廷軍と戦う。最初の戦いで、呼延灼は敵将・荊忠を討ち取った(第78回)。二度目の戦いでは、呼延灼は敵将・韓存保(かんぞんほう)と一騎打ちをし、谷川に落ちて取っ組み合いをしているところへ張清が援護に来て、韓存保を生け捕りにした(第79回)。さらに船から上陸してきた敵将・劉夢竜の一隊を秦明とともに撃退した。
11月、高俅率いる朝廷軍が大小の海鰍船数百隻で攻めて来る。呼延灼は盧俊義軍に加わって陸路の敵を迎えうった(第80回)。 |
宣和4年 |
3月、梁山泊が朝廷に帰順する。
4月ころ、遼国戦争が始まり、呼延灼は宋軍の正将として出征した。
檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、呼延灼は盧俊義麾下の軍に編入された(第84回)。
幽州城攻略戦。呼延灼は単廷珪と魏定国とともに右軍を率い、敵の伏兵と戦った(第86回)。
幽州城攻略後、敵の援軍が襲ってくると、呼延灼は遼国元帥の息子・兀顔延寿(こつがんえんじゅ)を生け捕りにした(第87回)。
昌平県境の最終決戦。宋軍は九天玄女の法を用い、呼延灼は大将として敵の火星の陣に討ち入る一隊を率いた(第89回)。
田虎討伐戦始まる。
宋軍が敵地に近い衛州から進軍を開始する。呼延灼は関勝らとともに守備隊を率いて衛州城に残った(第92回)。宋江軍が昭徳府城に滞在中に本隊と合流した。 |
(宣和5年) |
楡社県、大谷県を落とす。呼延灼は関勝とともに昭徳府から潞城県へ派遣され、索超らと合流し、楡社県、大谷県を落とした(第99回)。
王慶討伐戦始まる。
宛州城攻略戦。呼延灼は林冲らとともに城の西方に伏兵を敷き、北方からの敵の援軍を撃退した(第105回)。
荊南州での戦い。呼延灼は敵将・滕戡(とうかん)と戦って引き分けた(第107回)。南豊州での最終決戦。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、呼延灼は韓滔、彭玘を率いて後方の真北の一隊を率いた(第109回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦。
潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、呼延灼は盧俊義麾下の軍に編入され、宣州、湖州へ向かった(第112回)。
宣州城攻略戦。呼延灼は敵将・李韶(りしょう)を撃退し、城を落とすのに貢献した。
湖州攻略後、盧俊義軍は兵を二隊に分け、呼延灼は一隊の指揮官になり、徳清県に向かった(第114回)。
江州城攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、呼延灼は盧俊義麾下に編入され、歙州へ向かった(第118回)。
歙州城攻略戦。呼延灼は敵将・高侍郎を討ち取った(第118回)。
方臘討伐戦に勝利し、東京に凱旋する。呼延灼は御英兵馬指揮使の任を授けられ、その後は皇帝の御駕に従って警護していた。後に大金国との戦争に出征し、淮西で戦死した(第120回)。 |