梁山泊入山後の活躍
◆方臘討伐戦中に杭州城で病死する |
政和7年 |
7月ころ、入山直後の宋江が家族を梁山泊に呼び寄せるために単身故郷に向かう。宋江の身を心配した呉用らの命令で、穆弘は李逵、陶宗旺たちとともに宋江のあとを追い、宋江の故郷で宋江を捕らえようとしていた役人たちをけちらした(第42回)。 |
政和8年 |
1月ころ、祝家荘戦争に参加する(第47回)。この戦いで、穆弘は敵将・祝虎と一騎打ちの戦いをしたが、勝負はつかなかった(第50回)。
冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍との二度の戦いに参加する(第55回)。
青州に雇われた呼延灼が白虎山の孔明を生け捕りにしたことから、梁山泊軍に加わり、二竜山、白虎山、桃花山と協力して青州を攻める。 |
宣和元年 |
史進が朱武、陳達、陽春を率いて芒碭山の山賊・樊瑞らを退治するために出征し、穆弘は宋江らとともに援軍に出かけた(第59回)。
3月ころ、曽頭市との第一回目の戦争が起こる。晁蓋が穆弘を含む二十名の頭領を選んで曽頭市を攻撃した(第60回)。
5月ころ、北京に住む盧俊義を梁山泊入りさせるための作戦が実行される。呉用にだまされた盧俊義が梁山泊方面に旅してくると、穆弘は李逵や魯智深らとともに盧俊義を襲って戦った(第61回)。 |
宣和2年 |
正月、盧俊義・石秀救出作戦が実行される。穆弘は北京攻撃軍に加わった(第66回)。 |
宣和3年 |
正月、穆弘は史進、魯智深たちとともに宋江の供となって、15日の元宵節の祭りを見物しに東京に行く(第72回)。
4月、朝廷から梁山泊招安を伝える第一回目の勅使が派遣されてきたが、下賜された酒がただのどぶろくだったことから大騒ぎになり、穆弘は武松らとともに刀を引き抜いて勅使に詰め寄った(第75回)。
夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、穆弘は中央の陣の後ろに位置し、遊撃隊を率いた(第76回)。 |
宣和4年 |
3月、梁山泊が朝廷に帰順する。
4月ころ、遼国戦争が始まり、穆弘は宋軍の正将として出征する。
檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、穆弘は宋江麾下の軍に編入された(第84回)。
薊州攻略後、遼国から梁山泊軍を招安したいという申し出があり、宋軍では宋江と一部の将兵が敵に寝返ったように見せる作戦を採る。穆弘を含む十数名の将が一万の兵を連れ、宋江と一緒に敵の文安県城に入り、後続の部隊と呼応してこれを落とした(第85回)。
昌平県境での最終決戦。穆弘は敵の木星の陣に討ち入る一隊に加わった(第89回)。
田虎討伐戦始まる。
宋軍が田虎支配地に近い衛州まで進むと、まず初めに盧俊義が陵川城、高平県城を攻めることになり、穆弘もこれに従った(第91回)。
高平県城攻略後、穆弘は守備隊として城に残った(第92回)。後に昭徳城にいる宋江軍と合流した(第99回)。 |
(宣和5年) |
昭徳州での戦い。敵の援軍が昭徳城を奪還しに来るという情報が入り、穆弘は董平、花栄らとともに騎兵軍を率いて途中で敵を待ち伏せし、撃退した。
王慶討伐戦始まる。
山南城攻略後、穆弘は史進らとともに守備隊として山南城に残った(第107回)。
南豊州での最終決戦。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、穆弘は中央の陣の後ろに位置し、遊撃隊を率いた(第109回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
潤州城攻略戦。宋軍は敵城に糧秣を納入する兵糧船を装って潤州城に侵入する作戦をとる。穆弘は李俊とともに第一団の船を率いて敵城を襲った(第111回)。
潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、穆弘は盧俊義麾下の軍に編入され宣州、湖州へ向かった(第112回)。
宣州城攻略戦。穆弘は敵将・程勝祖と渡り合い、程勝祖は馬を捨てて逃げ出した(第112回)。
湖州攻略後、盧俊義軍は兵を二隊に分け、穆弘は呼延灼指揮下に徳清県へ向かった(第114回)。
杭州城で病死する。杭州城攻略後、城内で疫病が流行し、穆弘は張横らとともに病に冒され、戦線を離脱し、杭州城に残って弟の穆春らの看病を受けた。しかし、病は回復せず、そのまま病死した(第119回)。 |