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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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イオの末裔
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《内容》
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イオの末裔
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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。


天究星
てんきゅうせい
穆弘
ぼくこう
 梁山泊での順位  第24位
 持ち場  騎兵軍八驃騎兼先鋒使
 特技  朴刀
 あだ名  没遮攔(ぼつしゃらん)
 出身地・前歴  江州掲陽鎮・掲陽鎮の親分
どうしようもない暴れ者で、向かうところ敵なしで遮る者がいなかったので没遮攔と呼ばれた。
怒りだしたら止まらない掲陽鎮の親分
 穆弘は天罡星のひとつ天究星が生まれ変わった好漢である。
 小遮攔の穆春の実兄で、弟とともに掲陽鎮の町の親分をしていた。掲陽鎮は掲陽嶺や潯陽江に近かったので、穆春は李俊や張横とも兄弟分の関係にあった。威風凛々とした威圧感のある男で、町の者たちから恐れられており、流れ者が掲揚鎮で商売をするには、まず穆弘・穆春の兄弟に許可を得る必要があった。弟の穆春と薛永に殴られたときには、父の穆太公はそのことはけして穆弘に告げてはいけない、弟が殴られたことを知れば彼は黙っていないし、またしても人殺し騒ぎになると穆春に注意している。このことから、穆弘が平気で人殺しをするような男だったことがわかる。個人的なエピソードはないが、暴れ者なので梁山泊入山後も戦争があるたびに活躍した。
穆弘の物語
◆宋江一行を追いかける

 穆弘は穆春の実の兄で、弟とともに掲陽鎮の町の親分をしていた。
 あるとき、掲陽鎮に流れ者の武芸者がやってきて、槍棒の技を見せて客寄せをし、膏薬を売る商売を始めた。この武芸者というのは薛永だったが、穆弘と穆春は薛永が何の断りもなしにそんなことをするのが気に入らず、町の者たちに薛永とかかわることを禁じた。このため、薛永がいくら商売をしようとしても、町の者は誰も膏薬を買おうとしなかったし、薛永に金を恵もうともしなかった。ところが、ある日、護送役人に連れられた流刑の罪人が町にやってきて、武芸者に金を恵んだ。この罪人は宋江で、閻婆惜殺しの罪でウン城県で逮捕されて江州へ流される途中、護送の役人たちとともに掲陽鎮に立ち寄ったのである。
 このとき、偶然にもその様子を目撃した弟の穆春が宋江にいちゃもんをつけたが、逆にその場にいた薛永に殴られてしまった。穆春はすぐにも町の宿屋すべてに罪人と護送の役人たちを泊めてはいけないと命じ、さらに仲間を引き連れて薛永のいる宿に押し込み、戻ってきた薛永を捕らえて縛り上げた。それから罪人たちに仕返ししようと仲間とともに町中を捜し始めた。
 このころ、宋江の方はといえば、どの宿屋にも断られて大いに困り果て、日が暮れたころになって町のはずれにあった大きな屋敷の門を叩き、一晩の宿を求めた。屋敷の大旦那は親切で、宋江たち温かくもてなしてくれた。ところが、この大旦那こそ穆弘・穆春の父・穆太公だったのだ。このとき、穆弘も同じ屋敷にいたのだが、宋江たちが来ていることには気がつかなかった。やがて夜も更けたころ、穆春が仲間を引き連れてどやどやとその屋敷にやってきた。穆春は宋江たちが見つからないのでむしゃくしゃし、家にいる兄の穆弘を連れて一緒に捜しに出ようと考えたのである。事情を聞かされた父は、「そんなことを穆弘に知らせたら、またしても人殺し騒ぎになる」といって止めようとしたが、穆春はきかなかった。この騒ぎに宋江たちはびっくりし、慌てて部屋の後ろの壁を破って逃げ出したが、穆春はすぐにもそれに気がついた。このとき、穆春から事情を聞いた穆弘も出てきて、穆春と一緒に20人もの仲間を引き連れ、松明を持って宋江たちを追いかけ始めた。
 ところが、森を越えて潯陽江まで追っていくと、宋江と護送役人の三人はすでに渡し船に乗り、川を渡ろうとしているところだった。穆弘たちは大声で、「おい、そこ船頭、すぐに舟を戻せ」と叫んだが、船頭は気にしない。この船頭は張横で、宋江たちをだまして金を奪おうとしていたのである。すぐに、それが張横だとわかった穆弘たちは、「張の兄貴、おれたちはその三人を捕まえたいんだ」といったが、張横は「悪く思うなよ」といって船を進めてしまった。
 このために穆弘たちは宋江一行を取り逃がしてしまうことになったのだが、この直後に穆弘たちが追っていたのが有名な宋江だということがわかった。というのはこういうことだった。宋江一行を乗せた張横は川の真ん中あたりで強盗の正体を現し、宋江たちを殺して金を奪おうとした。すると、そこへ偶然にも、掲陽嶺で宋江と知り合った李俊が童威、童猛と一緒に舟で通りかかったのである。この李俊が張横や穆春たちと兄弟分で、張横が宋江たちを殺そうとしているのをやめさせ、皆を引き連れて岸に戻ると、穆弘たちにもそれが宋江であることを教えたのである。話を聞いた穆弘は大いに驚き、すぐにも手に持った朴刀を投げ捨てるとひざまづいてこれまでの無礼を謝罪した。そして、穆弘は穆春が先に捕らえていた薛永も含めて、みなを父の屋敷に招いてもてなした。宋江たちは翌日には江州に出発しようとしたが、穆弘は弟の穆弘ともども宋江を引き止め、三日ほどしてから江州に送り出した(第37回)。
 ところが、それから二ヶ月ほどして、宋江が謀反を企んだとして江州で処刑されるという情報が穆弘たちのもとに届いた。そこで穆弘は穆春、李俊、張横たちと一緒に宋江を救出するために舟で江州へ向かった。ところで、このころ梁山泊の好漢たちも宋江救出作戦に乗り出しており、穆弘たちが江州に着くより前に処刑場から宋江を救出していた。穆弘たちが江州に近づいたとき、偶然にもこの梁山泊の一団が川岸に集まっていた。そこに宋江がいるのを知った穆弘たちは大いに喜び、好漢たち全員を舟に分乗させると掲陽鎮の穆弘の屋敷に向かった。穆弘の屋敷に着くと、宋江が自分に謀反の罪を着せた黄文炳に復讐したいと言い出した。そこで穆弘たちは梁山泊の好漢たちとともに黄文炳の住む町・無為軍を襲撃した。こうして、見事に黄文炳に復讐したあと、穆弘は正式に梁山泊の一員となった。このときには、穆弘は父の穆太公や家族の者たちもつれ、金銀は車に積み、家も焼き払った。
梁山泊入山後の活躍
◆方臘討伐戦中に杭州城で病死する
政和7年 7月ころ、入山直後の宋江が家族を梁山泊に呼び寄せるために単身故郷に向かう。宋江の身を心配した呉用らの命令で、穆弘は李逵、陶宗旺たちとともに宋江のあとを追い、宋江の故郷で宋江を捕らえようとしていた役人たちをけちらした(第42回)。
政和8年 1月ころ、祝家荘戦争に参加する(第47回)。この戦いで、穆弘は敵将・祝虎と一騎打ちの戦いをしたが、勝負はつかなかった(第50回)。

冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍との二度の戦いに参加する(第55回)。

青州に雇われた呼延灼が白虎山の孔明を生け捕りにしたことから、梁山泊軍に加わり、二竜山、白虎山、桃花山と協力して青州を攻める。
宣和元年 史進が朱武、陳達、陽春を率いて芒碭山の山賊・樊瑞らを退治するために出征し、穆弘は宋江らとともに援軍に出かけた(第59回)。

3月ころ、曽頭市との第一回目の戦争が起こる。晁蓋が穆弘を含む二十名の頭領を選んで曽頭市を攻撃した(第60回)。

5月ころ、北京に住む盧俊義を梁山泊入りさせるための作戦が実行される。呉用にだまされた盧俊義が梁山泊方面に旅してくると、穆弘は李逵や魯智深らとともに盧俊義を襲って戦った(第61回)。
宣和2年 正月、盧俊義・石秀救出作戦が実行される。穆弘は北京攻撃軍に加わった(第66回)。
宣和3年 正月、穆弘は史進、魯智深たちとともに宋江の供となって、15日の元宵節の祭りを見物しに東京に行く(第72回)。

4月、朝廷から梁山泊招安を伝える第一回目の勅使が派遣されてきたが、下賜された酒がただのどぶろくだったことから大騒ぎになり、穆弘は武松らとともに刀を引き抜いて勅使に詰め寄った(第75回)。

夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、穆弘は中央の陣の後ろに位置し、遊撃隊を率いた(第76回)。
宣和4年 3月、梁山泊が朝廷に帰順する。

4月ころ、遼国戦争が始まり、穆弘は宋軍の正将として出征する。

檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、穆弘は宋江麾下の軍に編入された(第84回)。

薊州攻略後、遼国から梁山泊軍を招安したいという申し出があり、宋軍では宋江と一部の将兵が敵に寝返ったように見せる作戦を採る。穆弘を含む十数名の将が一万の兵を連れ、宋江と一緒に敵の文安県城に入り、後続の部隊と呼応してこれを落とした(第85回)。

昌平県境での最終決戦。穆弘は敵の木星の陣に討ち入る一隊に加わった(第89回)。

田虎討伐戦始まる。

宋軍が田虎支配地に近い衛州まで進むと、まず初めに盧俊義が陵川城、高平県城を攻めることになり、穆弘もこれに従った(第91回)。

高平県城攻略後、穆弘は守備隊として城に残った(第92回)。後に昭徳城にいる宋江軍と合流した(第99回)。
(宣和5年) 昭徳州での戦い。敵の援軍が昭徳城を奪還しに来るという情報が入り、穆弘は董平、花栄らとともに騎兵軍を率いて途中で敵を待ち伏せし、撃退した。

王慶討伐戦始まる。

山南城攻略後、穆弘は史進らとともに守備隊として山南城に残った(第107回)。

南豊州での最終決戦。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、穆弘は中央の陣の後ろに位置し、遊撃隊を率いた(第109回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州城攻略戦。宋軍は敵城に糧秣を納入する兵糧船を装って潤州城に侵入する作戦をとる。穆弘は李俊とともに第一団の船を率いて敵城を襲った(第111回)。

潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、穆弘は盧俊義麾下の軍に編入され宣州、湖州へ向かった(第112回)。

宣州城攻略戦。穆弘は敵将・程勝祖と渡り合い、程勝祖は馬を捨てて逃げ出した(第112回)。

湖州攻略後、盧俊義軍は兵を二隊に分け、穆弘は呼延灼指揮下に徳清県へ向かった(第114回)。

杭州城で病死する。杭州城攻略後、城内で疫病が流行し、穆弘は張横らとともに病に冒され、戦線を離脱し、杭州城に残って弟の穆春らの看病を受けた。しかし、病は回復せず、そのまま病死した(第119回)。
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イオの末裔
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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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