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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
地雄星
ちゆうせい
郝思文
かくしぶん
 梁山泊での順位  41位
 持ち場  騎兵軍小彪将兼斥候担当頭領
 特技  武芸十八般
 あだ名  井木犴(せいぼくかん)
 出身地・前歴  蒲東県・巡検(捕盗役人)
母が井木犴(星座の名)が胎内に入った夢を見て身ごもって生まれてきたので井木犴と呼ばれた。
つねに宣贊とともに戦った戦闘用軍人
 郝思文は地煞星のひとつ地雄星が生まれ変わった好漢である。
 姓は郝、名は思文。関勝、宣贊とともに梁山泊討伐軍の指揮官に任命されたものの、梁山泊軍にあっさり生け捕りにされ、関勝に従って梁山泊の仲間になった。蒲東県で関勝の部下だったので梁山泊でも関勝の配下として行動することが多かった。郝思文と宣贊とは梁山泊討伐軍時代に知り合い、梁山泊入山後はつねに一緒に行動した。郝思文が宣贊の弟分のようなところがあった。軍人として梁山泊と戦い、すぐに梁山泊入りしてしまうので個人的な活躍は少なく、梁山泊でもあくまでも戦争用の軍人として行動した。こういう立場の人間はどうしても目立たないので、郝思文が面白味に欠けているのは仕方ないかもしれない。
郝思文の物語
◆関勝、宣贊と一緒に梁山泊に捕らえられる

 郝思文は蒲東県の捕盗役人で関勝の部下だった。ある年の冬、郝思文が関勝とともに役所で世間話をしていると東京からの使者がやってきた(第63回)。この使者というのが禁軍の歩兵軍大臣をしていた宣贊だった。宣贊は関勝と郝思文に迎えられるとすぐに要件を伝えた。それによれば、このころ梁山泊軍が北京に攻め寄せ、朝廷から新たに梁山泊討伐軍が派遣されることになった。その総指揮官として関勝を迎えるため、訪ねてきたのだという。これを聞いた関勝は大いに喜ぶと同時にすぐそばにいた郝思文を宣贊に紹介し、梁山泊討伐軍の指揮官の一人として採用するように推薦した。宣贊は喜んで承諾し、郝思文も関勝とともに梁山泊討伐に赴くことになった。
 郝思文は関勝とともに東京を訪れ、蔡京大臣に会った後、郝思文が先鋒、宣贊が後詰め、関勝が総指揮官となって一万五千の精鋭を率いて梁山泊へ向かった。盧俊義と石秀を救出するために北京を包囲していた梁山泊軍は、関勝の軍が梁山泊近くに陣を敷いたことがわかると、急遽撤退し、梁山泊近くに陣を敷いた(第64回)。間もなく、宣贊と関勝が撃って出て花栄や秦明たちと戦ったが、敵は手強く勝ちを治めることはできなかった。
 その夜、梁山泊の呼延灼が密かに関勝を訪ねてきて、宋江と自分は本当は朝廷に帰順したいと思っているので、宋江の命令で協力しに来たのだと関勝に告げた。この話を信じた関勝は呼延灼と話し合い、翌日の夜に間道から直接梁山泊軍の陣地に攻め込む計画を立て、宣贊と郝思文は二手に分かれてそれを援護するように命じられた。その夜、関勝は五百の兵だけを率いて呼延灼の案内で間道を進み、宣贊と郝思文は別な方角から梁山泊の陣地を目指した。と、間もなく郝思文の前に林冲と花栄が一隊を率いて立ちふさがり、「おまえの親分の関勝はすでに罠にはまって捕虜になったのに、どうして下っ端のおまえが戦おうとするんだ」と林冲が怒鳴った。郝思文は腹を立てて林冲と戦い始めたが、花栄が加勢に出てきたのですぐにも逃げ出した。ところが、ここに女将軍・扈三娘が出てきて投げ縄を投げ、郝思文は馬から引きずり落とされ、あっさり生け捕りになってしまった。同じころ、関勝と宣贊も生け捕りにされ、三人とも梁山泊の忠義堂に護送された。このとき、宋江を始め梁山泊の頭領たちは三人を殺すどころかしきりに無礼を詫び、三人が梁山泊入りすることを勧めた。この勧めを関勝が受け入れたので、宣贊と郝思文もそれに従って梁山泊入りすることになった。
梁山泊入山後の活躍
◆入山直後から梁山泊軍に加わって戦い始める
宣和元年 ◎冬、梁山泊軍として北京攻撃に加わる。宣贊、関勝、郝思文は朝廷から派遣されたときと同じ兵を率いて、先鋒となって北京に攻め寄せた(第64回)。
宣和2年 正月の北京攻撃において、宣贊、関勝、郝思文は騎兵軍に編入された(第66回)。

梁山泊討伐軍の指揮官に任命された凌州の将・単廷珪と魏定国を討伐するため、宣贊、関勝、郝思文が五千の兵を率いて凌州に攻め寄せた。この戦いで、宣贊と郝思文は一度は敵捕虜となったが、東京へ護送される途中で李逵と鮑旭に救出された。

3月、東平府・東昌府攻撃で、宣贊、関勝、郝思文は盧俊義麾下の軍に編入され、東昌府を攻めた(第69回)。この戦いの最中、宣贊は敵将・張清の石つぶてを受けて落馬し、味方に救出された(第70回)。
宣和3年 夏、童貫率いる梁山泊討伐軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、宣贊、郝思文は大将・関勝の副将として、東門に位置する一隊を率いた(第76回)。
宣和4年 2月、梁山泊が朝廷に帰順。

4月ころ、遼国戦争始まる。宣贊、郝思文は宋軍の副将として遼国戦争に出征。

檀州攻略後、宋軍が進軍する兵を二隊に分ける。宣贊、郝思文は盧俊義麾下の軍に編入される(第84回)。

幽州城攻略戦。宣贊、郝思文は関勝とともに左軍を率い、敵の伏兵と戦う(第86回)。

昌平県境での最終決戦。宣贊、郝思文は敵の土星の陣に討ち入る一隊に加わる(第89回)。

田虎討伐戦始まる。蓋州城攻略戦。宣贊、郝思文は東門を攻撃する兵を率いた(第92回)。
(宣和5年) 蓋州攻略後に宋軍が兵を二隊に分ける。宣贊、郝思文は盧俊義麾下の軍に編入される(第93回)。

盧俊義軍が晋寧府城を取る。宣贊、郝思文は呂方、郭盛とともに城の守備隊となる(第97回)。

盧俊義軍が汾陽府城を取る。宣贊、郝思文は本隊と合流し、盧俊義とともに城を奪い返しに来た敵将・索賢、党世隆、凌光を討ち取る。宣贊、郝思文はそのまま汾陽府の守備隊となった(第99回)。

王慶討伐戦。宛州城攻略戦。宣贊、郝思文は敵の援軍と戦うために城の東側に陣を敷き、宛州城攻略後は城の守備隊となる(第105回)。

南豊州での王慶軍との最終決戦。宋軍は九宮八卦の陣を敷き、宣贊、郝思文は大将・関勝の副将として、東門に位置する一隊を率いる(第109回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。宋軍は潤州攻略後に兵を三隊に分け、宣贊、郝思文は宋江麾下の軍に編入され、常州、湖州へ向かう(第112回)。

方臘討伐戦の常州攻略戦。関勝が危機に陥り、宣贊、郝思文は徐寧とともにこれを救出する。敵将・沈抃を討ち取る(第112回)。

方臘討伐戦の蘇州無錫県の戦い。敵方から選ばれた8騎兵と宋軍から選ばれた8騎兵がそれぞれ一騎打ちをすることになり、郝思文もこのうちの一騎に選ばれ、敵将・昌盛と引き分けた(第113回)。

郝思文、杭州城で処刑される。
 宋江軍が杭州に陣を敷いたときのこと。花栄と秦明、郝思文と徐寧が二人一組となり一日交替で杭州城の偵察を命じられた。この日は郝思文と徐寧の晩だったので、二人は十数騎を従えて敵城の北関門に偵察に出た。そこで、敵の城門が空いているのを見た二人は吊り橋のたもとまで近づいた。すると突然に城内から敵の軍勢が飛び出してきた。郝思文は生け捕りにされて敵に処刑され、見せしめのために城壁の上から首をぶら下げられた(第114回)。
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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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