梁山泊入山後の活躍
◆方臘戦で左腕を失い六和寺の寺男となって生涯を終える |
宣和元年 |
入山直後の2月、華州少華山で山賊をしていた史進、朱武、陳達、陽春を梁山泊に迎えることになり、魯智深とともに少華山へ向かう(第58回)。
華州に捕らえられた史進と魯智深を救出するために西嶽華山に参詣する朝廷の使節団を装って華州長官賀太守を華山に呼び出すことが決まり、武松はあらかじめ門のところに潜み、合図と同時に飛び出して賀太守の手下を襲う。
5月ころ、呉用にだまされた盧俊義が梁山泊方面に旅してくると、武松は李逵や魯智深らとともに盧俊義を生け捕りにするために戦う(第61回)。 |
宣和2年 |
正月、盧俊義と石秀を救出するために北京攻撃が行われ、武松は魯智深と一緒に行脚僧の恰好で北京城外の寺に泊まり、作戦実行と同時に北京南門で敵の大軍をくい止める働きをする(第66回)。
春、梁山泊と曽頭市との二度目の戦争で、武松は魯智深、楊志らとともに敵将・蘇定を追いつめ、乱れ矢の中で戦死させた。この戦いの直後、宋江が盧俊義に梁山泊の総頭領の地位を譲ると言い出すと、武松は呉用、李逵、魯智深らと一緒に、宋江の態度に不満を述べた(第68回)。
3月頃の東平府・東昌府攻撃では、武松ははじめは出征しなかったが、宋江軍が東平府を落とし、さらに盧俊義を助けるために東昌府へ向かったとき、呉用の命令で魯智深、李立らとともに全水軍を率いて東昌府へ向かった。この作戦で武松らは糧秣車を敵将・張清に略奪されるのをわざと許し、張清らが河にある糧秣船までも襲うように仕向け、張清を生け捕りにするのに貢献した(第69回)。 |
宣和3年 |
正月、史進、魯智深たちとともに宋江の供となって、15日の元宵節の祭りを見物しに東京に行く(第72回)。
4月、朝廷から梁山泊招安を伝える第一回目の勅使が派遣されてきたが、下賜された酒がただのどぶろくだったことから大騒ぎになり、武松も戒刀を引き抜いて勅使に詰め寄った(第75回)。
夏、童貫率いる朝廷軍との戦いで、武松は魯智深とともに伏兵となり、逃げてくる童貫軍に切り込んで敵をちりぢりにした(第77回)。 |
宣和4年 |
2月、梁山泊は正式に朝廷に帰順する。
4月ころ、梁山泊軍は隊列を組んで式典のために東京に入城。このときほとんどの頭領たちはみな軍装に身を包んでいたが、武松は真っ黒な行者の衣を着ていた(第82回)。
間もなく遼国戦争が始まる。
檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、武松は宋江麾下の軍に編入された(第84回)。
宋江軍が薊州を取ると遼国から梁山泊軍を招安したいという申し出があり、宋軍では一部の将兵が敵に寝返ったように見せる作戦を採る。このとき武松は盧俊義らとともに敵に寝返る第二陣を編成し、覇州文安県の関所に押し掛けて奪い取った(第85回)。
最終決戦となった昌平県境の戦い。武松は敵の太陽の陣に討ち入る一隊に加わり、敵将・耶律得重を討ち取った(第89回)。
田虎討伐戦が始り、宋軍が田虎支配地に近い衛州まで進むと、まず初めに盧俊義が陵川城を攻めることになり、武松もこれに従った(第91回)。 |
宣和5年 |
蓋州攻略後に宋軍は兵を二手に分け、武松は宋江麾下の軍に編入された(第93回)。
宋江軍の昭徳城を攻め。武松は魯智深、劉唐とともに敵軍に切り込んだが、敵将・喬道清が妖術で出現させた幻の兵士たちに襲われて苦しみ、そこへ敵軍が押し寄せたので、三人とも敵の捕虜になってしまった(第95回)。三人は喬道清の前に引き立てられると、「糞道士め、たとえおれたちを殺せても、おれたちを屈服させることはできないぞ」と怒鳴りつけた。
宋軍が昭徳城を落としたとき、武松たちは解放された(第97回)。
襄垣県境の戦い。敵の女将軍・瓊英の石つぶてに苦しめられていた解珍と解宝が敵に捕らえられると、武松は李逵とともにしゃにむに敵軍の中を進んで追いかけたが、ついに救出できず、全身血塗れになって陣地へ戻った(第98回)。
王慶討伐戦始まる。
山南城攻めの戦い。武松は魯智深らとともに水軍の操る船に乗り込み、逃げ遅れた宋軍の兵糧船と見せかけてわざと敵に捕らえられ、一斉に暴れ出して敵城を奪った(第107回)。
荊南州の戦い。武松は魯智深、李逵らと敵基地のある紀山を背後から不意打ちして攻略した。
南豊州での最終決戦。武松は魯智深らと宋軍の前軍となって敵に戦いを挑み、わざと逃げるふりをして敵軍を宋軍の前におびき寄せた(第109回)。また、敵軍が逃げ出そうとするや魯智深、李逵らと背後から襲いかかり、敵将・李雄、畢先(ひっせん)らを討ち取った。
王慶討伐戦に勝利し、宋軍が東京に凱旋したとき、武松は軍装ではなく行者の衣で行列に参加した(第110回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まり、宋軍が敵側の大商人・陳将士の屋敷を襲う。武松は魯智深、李逵らと屋敷に討ち入って大暴れした(第111回)。
潤州攻略後に宋軍は兵を三隊に分け、武松は宋江麾下の軍に編入され、常州、蘇州へ向かった(第112回)。
常州での戦い。武松は魯智深、孔亮らとともに宋軍に寝返った敵将・金節を追いかけるふりをし、そのまま敵城に切り込んで大暴れした。
杭州城攻略戦。武松は城の吊り橋の上まで攻め込み、敵将・貝応夔(ばいおうき)を討ち取った(第115回)。◎杭州攻略後、武松は再度宋江麾下の軍に編入され、睦州へ向かった(第116回)。
睦州城手前の烏竜嶺で戦死した解珍と解宝の死骸を取り戻そうと宋江が関勝らを引き連れて出発すると、武松は呉用の命令を受けて魯智深らと宋江のあとを追い、烏竜嶺で敵の伏兵に襲われた宋江を救出した(第117回)。
睦州城攻め。武松は馬に乗った敵将・包天師に二本の戒刀を持って徒歩で立ち向かったが、敵が投げつけた剣を左腕に受けて出血のために昏倒してしまった。魯智深に助けられた武松が気がつくと左腕がいまにもちぎれそうだったので、武松は左腕を自分の戒刀で斬り落としてしまった(第117回)。
方臘討伐戦後、武松は杭州の六和寺に残る。
方臘討伐戦が宋軍の勝利に終わり、宋軍が杭州まで戻ったとき、大怪我をして世をはかなんだ武松は東京には戻らずに魯智深とともに杭州の六和寺という寺に残る決心をした。武松は宋江に会うと、「自分はもう戦えない身体になってしまったので東京には戻りません。手柄を立てて手に入れた金銀などはすべて六和寺に寄贈し、寺男にでもなりたいと思います」と告げた。宋江もそれを許した。こうして武松は以降は六和寺で寺男となり、八十才まで生きた(第119回)。 |