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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
フランボワイヤン・ワールド・トップ水滸伝の豪傑たち目次
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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イオの末裔
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天傷星
てんしょうせい
武松
ぶしょう
梁山泊での順位 14位
持ち場 歩兵軍頭領
特技 体術(素手または短い武器を用いる拳法)
あだ名 行者(ぎょうじゃ)
出身地・前歴 清河県(せいかけん)・陽穀県都頭(捕盗係隊長)、二竜山の山賊の頭領
あだ名の由来
孟州で大暴れしたあとで、諸国修行中の行者の姿に変装して二竜山へ逃げ延びたことから、それ以降、行者と呼ばれた。
水滸伝中で最も長い物語を持つ人気者の豪傑
 武松は天罡星のひとつ天傷星が生まれ変わった好漢である。
 水滸伝百八星の全員が登場するまでを扱った『水滸伝』前半の70回の話の中で、第23回から第32回まで続く長い物語の主人公となっている大豪傑である。ちょうど10回分なので、この部分は一般に『武十回』と呼ばれている。この部分には、『景陽岡の虎退治』、『西門慶と潘金蓮殺し』、『孟州での大殺戮』という三つの話があり、武松は大いに活躍する。ただし、武松が目立つのはここまでで、梁山泊入山後はそれほど目立つ活躍はできなかった。梁山泊軍の主力は騎兵となるので、歩兵軍の頭領となった武松は名前は頻繁に出てくるものの、やっていることは一兵卒とあまり変わりなくなってしまう。武松はケンカはめっぽう強いが、たった一人で困難を打開する一匹狼型の豪傑の代表なので、梁山泊のような組織には馴染めなかったのかもしれない。
武松の物語
◆柴進の屋敷で宋江と知り合い義兄弟になる

 武松は、もとは清河県で暮らしていたが、その土地の役人とケンカをし、相手が気を失ったのを死んだものと勘違いして逃げ出し、柴進のところに身を寄せた。このとき、彼は二十三四歳で、身の丈八尺(240cm)の堂々たる風貌をしていた。柴進の屋敷に身を寄せてから1年ほどたったある日、自分が殺したと思っていた役人が実は気を失っただけでしばらくして息を吹き返したという話を人づてに聞き、それでは故郷に帰ろうと思い立った。武松は酒を飲んでは大暴れすることが多く、柴進の屋敷の下男たちから嫌われ、待遇も良くなかったのである。ところが、そう思ったとたんにおこり(マラリア)にかかって身動きできなくなってしまった。そんなある夜、武松が廊下に火鉢を出してうずくまって寒気のする身体を暖めていると、一人の小男が廊下を歩いてきて暗闇の中で火箸に足を引っかけた(第22回)。火鉢の火が顔にとんできてびっくりした武松は腹を立て、男の胸ぐらをつかみ、「この野郎め。おれを馬鹿にするのか」と怒鳴った。そこへ、下男が出てきて、「こら大男。このお方は柴進さまの大事なお客様なんだぞ」といった。これを聞いた武松はさらに腹を立て、「おれだって最初はお客様扱いだったのに、それがいまじゃどうだ」といって、小男に殴りかかろうとした。そこへ柴進がとんできて武松をなだめ、「あんたはこの偉い 押司さんをご存じないのだな」といった。「ふん。いくら偉いといっても義に厚くて有名なウン城県の宋押司どのほどではないだろう」と武松。すると柴進が笑って、「この方がその宋公明さんだよ」という。武松は大いに驚いて、慌てて非礼を詫びた。宋江も武松の名は聞いたことがあったので、相手が武松と知って喜んだ。それから二人は柴進の屋敷で毎日酒を飲んで十日間ほどすごした。
 武松は宋江に会った喜びが大きかったのか、どういうわけかおこりも治ってしまい、また再び故郷に帰りたくなってきた。宋江と柴進は別れを惜しんで引き止めたが、どうしてもといって武松は出発することにした。その日、見送りの宋江とともに柴進の屋敷を出た武松は途中の居酒屋で宋江と義兄弟の盟を結び、それから宋江と別れて故郷の清河県へ向かった(第23回)。

◆素手で景陽岡の虎を倒して都頭になる

 それから幾日か旅を重ねた武松はやがて清河県から遠くない陽穀県の景陽岡という峠にやってきた。この景陽岡は虎が出ることで土地の者には知られた場所だった。峠の下の居酒屋の主人は親切にもそのことを武松に教え、一人で行ってはいけないと注意したが武松は本気にしなかった。そして、「酒だ、酒だ」と怒鳴って、非常に強い酒を十五杯も飲んだ後で峠を登り始めた。店の主人は大いにあきれ、「そんなに行きたきゃ、勝手に行けばいいさ」と悪態をついた。
 山を登り始めた武松は間もなく大木の皮を削り取った白い部分に、「虎が出るので、真昼時に限って隊を組んで峠を越えること」と書かれているのに出会った。これを見ても武松は本気にせず、「居酒屋の主人が旅人を自分の宿に泊めるためにこんないたずらをしているんだ」と独り言をいった。しばらくして、武松は荒れた廟の門に、官印つきの告示が出ており、やはりさっきと同じことが書かれてあるのを見つけた。さすがの武松もこれには困った。が、いまさら引き返したら酒屋の主人に笑われると思い、ええいままよとそのまま山を登り続けることにした。
 ところが、そうやって歩いているうちにどんどんと酔いが回ってきた。陽も沈みかけてきたのでさらに先を急いだ武松だが、酔いのためにもはやどうにも歩けない。仕方なく大きな石を見つけてそこに横になろうとしたとき、ふいに一陣の狂風が吹き、なんと本当に1匹の虎が武松の前に現れた。武松はびっくりし、持っていた棍棒で殴りかかったが、的がはずれて棍棒が折れてしまった。こうなったらもう素手で戦うしかない。武松は虎の攻撃を何度かかわしたのち、ついに頭を押さえつけると、力を込めてパンチの嵐を浴びせた。すると虎は完全にぐったりしたので、武松は折れた棍棒でさらに殴りつけてとどめを刺した。
 それから武松は悠々と峠を下り始めたが、この虎は当地では悪名高い虎だったので、この事件が世間に知れわたったことで武松は一躍有名になり、知県から陽穀県の 都頭に任じられた。

◆兄を殺した西門慶と潘金蓮に復讐する

 陽穀県の都頭となった武松はあるとき県城の街角で偶然にも兄の武大と出会った。
 武大は身の丈は5尺(150cm)以下、顔も醜く、頭も不格好という、見た目の悪い男だった。しかし、ある理由があって、潘金蓮という若くてきれいな女を女房にしていた。というのはこういうことだった。潘金蓮はもともと清河県の金持ちの家で女中をしており、きれいだったので何度となく主人にいい寄られた。しかし、潘金蓮はいうことを聞かず、それを女主人に言いつけた。すると、主人は大いに腹を立て、わざわざ嫁入り支度をしてやって無理矢理に不格好な武大と結婚させてしまったのである。当時は女の結婚相手は親や親代わりの人間が決めるものだったから、潘金蓮にはどうすることもできなかったわけだ。ところで、このおかげで武大は結婚できたが、女房があんまりきれいなので土地のごろつきたちが毎日のようにからかいに来た。それで清河県にいづらくなった武大は潘金蓮と一緒に陽穀県の紫石街へ引っ越してきたのだという。
 こんなわけで潘金蓮は武大に大いに不満があったが、そんなおりもおり、武大が弟だといって武松を連れて帰ってきた。しかも、それは景陽岡で虎を退治した近頃評判の英雄で年は25才だという。潘金蓮が武松に一目惚れするのも当然で、何のかのといって武松を同じ家に住まわせ、あれこれとかいがいしく手を焼いて、どうにかして武松を落とそうとし始めた。しかし、天下の好漢たる武松が嫂に手を出すわけもなく、潘金蓮のことを恥知らず呼ばわりしたあげくにとっとと家を出て、役所住まいに戻ってしまった。
 そのうちに武松が知県の命令で東京へ行く用事ができ、二ヶ月以上も陽穀県を留守にするということがあった。
 この隙に西門慶という若い金持ちの商人が潘金蓮に一目惚れし、茶店の女主人で悪賢い王婆(おうば)という婆さんを利用して、潘金蓮と関係を持つようになった。それだけならまだよかったが、恋を成就するために武大が邪魔になり、西門慶、王婆、潘金蓮の三人が共謀して武大に毒を盛って殺してしまった。しかも、毒殺の証拠を消すために、さっさと葬儀を出して火葬まですませてしまったのである。
 東京から帰ってきた武松は兄の武大が死んでもうすぐ四十九日にもなると聞いて大いに驚き、潘金蓮に死因を尋ねた。すると潘金蓮は、武松が旅に出てから十日ほどして武大は胸の病に苦しみだし、看病のかいもなくそれから十日ほどで死んでしまったのだという。武松は、兄にそんな持病があったなどとは聞いたこともなかったので、すぐにも不審に思ったが黙っていた。その夜、武松は兄の家の仏壇に供えものをし、線香をあげ、大いに泣いた。潘金蓮が二階の部屋に戻って寝たあとは、武松は仏壇の前にむしろを敷いて横になった。と、真夜中頃になってあたりに冷気が立ちこめたかと思うと、仏壇の下から黒い人影が現れ、「弟よ、おれは無念だ」と叫んだ。その人影はすぐに消えてしまったが、これを聞いた武松は兄の死にはどこか怪しいところがあると確信した。
 そこで、武松は翌日から兄の死因を探り始め、すぐにもそれが他殺だという確かな証拠をつかんだ。証拠の入手先は兄の葬儀を取り仕切った葬儀屋だった。この葬儀屋は頭のいい男で、武大の死体を見るなりそれが毒殺だと直感し、火葬のときにこっそりと武大のお骨を二三本盗み出し、家に保管しておいたのである。葬儀屋はその骨を武松に見せながら、「この骨はやわらかくて黒いでしょう。これが毒殺の証拠なのです」といった。さらに、武松は町でナシ売りをしている少年から、西門慶と潘金蓮が密通していたという事実も聞き出した。少年がいうには、武大はこのために西門慶とケンカをし、大いに痛めつけられて寝込んでしまい、それから一週間ほどしたらどういうわけかもう死んでいたのだという。これだけの事実をつかんだ武松はさっそく西門慶と潘金蓮を武大殺しの罪で役所に訴えた。ところが、事態を知った西門慶がすぐにも役人たちに賄賂を贈ったので、役所では武松の訴えをまともに取り扱ってくれなかった。「こうなったら自分でやるしかないな」と武松は思った。
 武大の四十九日の日、武松は武大の供養と称して家の一階に潘金蓮と王婆、近所の旦那衆四五人を集めた。そこでみんなに酒を振る舞ったあとで武松はおもむろに立ち上がり、「みなさん、わたしの無礼を許してください。武松はばかな命知らずですが恨みは晴らすべきものだということは知っています。みなさんに怪我をさせるようなことはしません。証人になってほしいだけなのです。ただし、この場から逃げだそうとする者にはこの刀が黙っていません」といいだした。それから武松は潘金蓮と王婆に刀を突きつけ、「さあ、どうやって兄貴を殺したか何から何まで白状しやがれ」と怒鳴りつけた。それでも二人が白を切ろうとすると武松は潘金蓮の髪の毛をつかみ、短刀でその頬をぴしゃぴしゃたたきながら王婆をにらみつけ、「おれはもうすべてを知っているんだ。それでも白状しないなら、まずはこの女を斬り殺し、それからおまえを殺してやる」と脅した。王婆の方はこれでも嘘を突き通そうとしたが、若い潘金蓮はもはや恐怖にたえきれず、「ごめんなさい、ごめんなさい。すべて白状しますから」といいだした。そこで、武松は潘金蓮の口から武大殺害の様子を細かに聞き出すと、近所の旦那衆たちの一人にそれを書き写させ、他の者たちにも証人としての署名をしてもらった。さらに、武松は潘金蓮と王婆を無理矢理に仏壇の前にひざまづかせ、「兄さん、武松が敵をとってやりますよ」といい、潘金蓮をめった刺ししたあげく、刀を振るって首を落とした。武松は部下の従卒たちを呼ぶとその首を毛布で包ませ、王婆ともども居合わせた人々を二階に上げ、逃げ出さないように従卒に見張りを命じた。
 それから武松は女の首を包んだ毛布を持って家を出ると西門慶の店に行き、店の番頭から西門慶がある料亭にいることを聞き出した。武松はすぐにもその料亭に乗り込んだ。料亭の二階で金持ちの仲間と酒を飲んでいた西門慶は武松を見るなり、「あっ」と叫び、窓に駆け寄って逃げ出そうとした。しかし、武松はとっさに駆け寄るなり西門慶をつかみあげ、「えいや」と叫んで料亭の二階からまっ逆さまに投げ落とした。そして武松も窓から飛び降り、店の前で昏倒していた西門慶の首を刀で切り落とした。
 こうして二つの首を取った武松は兄の家に帰るとそれらを仏壇に供え、「兄さん早く成仏してください。武松が仇をとりましたよ」と報告した。そのあとで、武松はその場に居合わせた近所の者たちに、「これからわたしは自首して出ますが、これだけのことをしたのですから死刑になってもかまいません。みなさんはわたしのことなど気にせずに、とにかく事実そのままの証言をしてください」と頼んだ。そして、武松はその言葉の通り、二つの首を持ち、王婆を引き立てて自首するために役所に向かった。
 これが武松による西門慶・潘金蓮殺しの顛末だが、この結果として武松は孟州に流され、王婆は死刑ということになった。武松が死罪をまぬがれたのは証人の証言や証拠があるうえに、武松が義侠心のある豪傑だと知っていた上級役人たちが彼のために心を砕いたおかげだった。

◆孟州で大暴れして行者姿で二竜山に逃れる

 役人に護送されて孟州へ向かう途中、張青と孫二娘の居酒屋に立ち寄った武松は、そこであわや殺されて人肉饅頭にされそうになるが、どうにか無事に孟州牢城に着いた。ここで、武松は施恩と出会った。施恩は牢役人の息子で、その立場を利用して何くれとなく武松に尽くしたので、牢城暮らしだったが武松は快適な生活を送った。しかし、いったいどういうわけで見ず知らずの施恩がここまでしてくれるのか武松は不思議でならなかった。そこで、武松は折を見てその理由を施恩に尋ねた。すると施恩は、「わたしはつい先日まで孟州にある快活林という交易場に料理屋を営みながら、交易場を取り仕切っていました。ところが、最近になって孟州の軍に赴任してきた張団練という司令官が、将門神というごろつきを使って力尽くでわたしの縄張りを奪い取ってしまったんです。わたしも多少は武芸の心得はありましたが、身の丈9尺(290cm)もある将門神にはまったくかなわず、大怪我を負わされ、二三ヶ月は寝たきりで、つい最近になって動けるようになったばかりなんです。そんなとき掲揚岡で虎を退治した武松さんがやってきたので、その力を借りてどうにか恨みを晴らしたいと思い、元気がつくようにと毎日よい酒とよい食事を用意したのです」と説明した。
 これを聞いた武松はすぐにも施恩のために働くことを承知した。彼は施恩とともに孟州城を出ると、酒を飲まなければ力が出ないといいながら、居酒屋があるたびに3杯ずつ酒を飲んだ。「快活林までは十四五里(約8km)もあります。そんなに飲んだら酔っぱらっちゃいますよ」と施恩がとめても聞かない。「おれの場合は飲めば飲むほど力が出るんです」といいながら武松は飲み続ける。その数が50杯を超したころに快活林に到着した。武松は、すぐにも将門神に乗っ取られていた料理屋へと乗り込んだ。ここで、武松は大暴れして、駆けつけてきた将門神もアッという間にのしてしまった。ちなみに将門神は身の丈9尺、奉納相撲大会で3年間無敵を誇り、武芸の腕も相当なものという強者だったが、こんなやつでも武松にはかなわなかったのである。武松に打ちのめされた将門神はすべてを施恩に返し、町を出るという約束をした。武松のおかげで縄張りを取り戻した施恩は大喜びで、武松を快活林の料理屋に滞在させると、まるで親に仕えるように大事にした。
 ところで、将門神は解放されると町を出るどころか、張団練のところへ逃げ込んだ。張団練は孟州の軍指揮官である張都監に相談を持ちかけ、裏で取引して武松に泥棒のぬれぎぬを着せて殺してしまおうと計画した。施恩が快活林を取り戻してから一ヶ月ほどが過ぎたころ、快活林に滞在していた武松と施恩のところにこの張都監から使いの者がやってきた。聞けば、張都監は武松の活躍を知って大いに気に入り、武松を私邸に招待するためにわざわざ馬まで用意して使者を送ってよこしたのだという。武松はこれが罠だとは知らなかったから、とにかく使者とともに一人で孟州城内の張都監の屋敷へ出かけた。張都監の屋敷に着くと武松は大いに歓迎された。張都監はいかにも嬉しそうに武松の酒の相手をし、武松を屋敷内の一室に住まわせるとまるで家族のようにどの部屋にも自由に出入りすることを許した。それから数日が過ぎた8月15日の夜のこと。張都監の屋敷で家族だけの内輪の月見の宴が開かれ、武松も招待された。内輪の会だったの武松は最初は遠慮していたが、張都監が銀の大杯で次々と酒を勧めるので、そのうちに気持ちよくなってただひたすら飲み続けた。やがて自分でも酔っぱらってきたのがわかった武松は失礼があってはいけないと思い、張都監夫妻に礼をいうと自分の居室に引き下がった。と、真夜中頃になってから突然、奥の間の方で「賊だ、泥棒だ」と叫び声が上がった。「都監どのに親切にしてもらっているおれとしては、ここは助けに行かないわけにはいかないな」と思った武松はすぐにも棍棒を持って部屋を出て声のした方に駆けつけた。ここへ小間使が現れて、「泥棒は裏庭の花園に逃げ出しました」という。これを聞くと武松もまた裏庭に飛び出してぐるっと一回りしてみたが泥棒は見つからない。仕方なく屋敷の方に戻ってきたとき、どういうわけか武松めがけて腰掛けが投げつけられ、武松はそれに足を取られてひっくり返った。と、そこへ屋敷にいた兵士たちが七八人も飛び出してきて、「泥棒だ。捕まえろ」と叫びながら武松を縄で縛り上げた。「違う、違う。おれだよ」と武松がいっても兵士たちは取り合わない。そこに張都監も現れて、「このやろう、せっかく親切にしてやったのに泥棒するとは何事だ」と怒鳴った。武松はなおも無実を訴えたが、張都監の方は初めから武松を泥棒に仕立てようとしていたのだからそんな訴えを聞くはずもなかった。武松はすぐにも役所に送られ、取調を受けることになった。ここでも武松は無実を訴えたが、役人たちはみな張都監から賄賂をもらっていたので、だれも武松の訴えを聞こうとはせず、とにかく白状させようとして武松に激しい拷問を加えた。これではもうどうにもならないので、武松もあきらめ、無実の罪を白状した。このため、武松はすぐにも死刑囚の牢に入れられてしまった。
 とはいえ、もともと死刑になるような罪ではなかったうえに、事態を知った施恩が裁判担当の係官たちに金を贈ったので、拘留期限の切れる二ヶ月後になると武松を恩州に流刑にするという判決が下った。すると、どうにかして武松を殺そうとしていた張都監は、今度は護送途中で武松を殺そうと計画を立てた。その日、武松を見送りに行った施恩は二人の護送役人の態度がひどすぎるのに驚き、「あの二人は態度が変だから気をつけた方がいいですよ」と武松に注意した。「おれも気づいていますから大丈夫ですよ。あと2、3人出てきたってどうってことありませんよ」と武松はいって護送役人とともに出発した。と、孟州を出て4、5キロ進んだところに朴刀を手に持った二人の男が待ち受けていて、武松たちの後ろからついてきた。「いよいよだな」と思った武松は広々とした川辺に出たところで、「ちょっと小便をさせてもらいます」といって一本の板橋の上に向かった。そこへ朴刀を持った二人の男たちが近づいてきたので、「どきやがれ」と武松は叫んで一人、二人と続けて河の中に蹴落としてしまった。これを見た役人たちが逃げ出そうとしたので、武松はすぐにも自分の首に付いていた枷をへし折ると、水辺に落ちていた朴刀を拾って二人とも斬り殺した。それからまた引き返し、河から上がろうとしていた一人を殺し、もう一人を捕まえ、「さあ、どうしてこんなことをした。白状すれば助けてやるぞ」と脅した。すると男は、「わたしたちは将門神の弟子です。張団錬さまと張都監さまの命令であなたを殺しに来ました。将門神、張団錬、張都監の三人はいま張都監の屋敷の奥の座敷でわたしたちの報告を待っています」と何から何まで白状した。これを聞いた武松は、「やっぱりそうか」というなりその男も斬り殺した。しかし、4人殺したぐらいでは武松の怒りは治まらなかった。武松は将門神、張団錬、張都監の三人を殺すためにすぐにも孟州城に引き返した。夜、孟州城に戻ってきた武松は張都監の屋敷の馬ていから、張都監、張団練、将門神の3人が屋敷の二階の奥の宴会の間にいることを聞き出した。聞き出すとすぐに馬ていを殺し、土塀を乗り越えて屋敷に侵入した。武松が奥の方まで進んでいくと台所があって2人の女中がいたので、武松は手始めにその女中2人を斬り殺した。そして、武松は階段を駆け上がり、武松は死んだとばかり思っていい気分で浮かれていた張都監、張団練、将門神の首を続けざまに切り落とし、死骸の血を浸した布で壁にでかでかと犯人は武松だと書き付けた。それからさらに張都監の配下の者2人、張都監の妻、その他2、3人の女を斬った。ここまでやってやっとのことで「ああ、せいせいした」と武松はつぶやいて孟州城を逃げ出した。
 朝になると町は大騒ぎで、殺人犯武松の首には賞金がかけられたが、このとき武松はすでに張青・孫二娘の居酒屋に逃げ込んでいた。とはいえ、いつなんどき捜索隊が来るとも限らない。そこで武松は、孫二娘のアイデアで諸国修行中の行者の姿に変装し、この土地を逃れて魯智深、楊志が山賊をしている二竜山へと向かった(第31回)。このときから武松のあだ名は行者となった。

◆白虎山で独火星の孔亮をぶちのめす

 十数日後、旅の途中の武松はある山の中で腹を空かして居酒屋に入った(第32回)。「おやじ、とにかく酒だ、肉だ」居酒屋に入るなり武松はいった。ところが、亭主がいうには肉は売り切れで店にはどぶろくしかないという。仕方がないので武松はむしゃくしゃしながら野菜の煮付けだけでどぶろくを飲み始めた。そうこうするうち三四人の仲間を連れた大男が店にやってきた。と、亭主はすっかり愛想が良くなり、「若さま、いらっしゃい。鶏肉も牛肉も用意ができております」といい始めた。そして、立派な瓶を持ってきて、うまそうな上酒を鉢に注いで用意し、台所から数枚の大皿に積んだ鶏の丸煮や山盛りの牛肉を運んできた。武松は自分のテーブルに置かれた野菜の煮付けとその男のテーブルの料理を見比べるうちだんだん腹が立ってきて、「おい、おやじ。おまえ、おれを馬鹿にしているな。肉も酒もないといったくせに、あの男が飲み食いしているのはいったいなんだ」と怒鳴りつけた。亭主は慌てて、「あれはみんな若旦那さまが自分で用意しておいたもので、うちでは席を貸しているだけなんです」といったが、武松の怒りは治まらない。「なにをいいやがる」といって、武松は亭主の顔に一発喰らわせた。と、これを見ていた大男が、「やいおまえ、出家のくせに何をするんだ」と怒鳴った。「おまえとは関係がない。ひっこんでやがれ」と武松がいうと大男は、「この糞坊主め、おれとケンカをしたいんだな。それなら相手になってやる」といって店の外へ飛び出した。「きさまなんかを恐れる俺だと思っているのか」と武松も怒鳴って男を追いかけた。武松と大男は店の外でにらみ合ったが、大男は武松の立派な体格に気圧されてなかなか前に出ようとしない。武松は気にせず踏み込むと大男の手を引っ張って軽々と遠くへ投げ飛ばした。さらに武松は転がっている大男を踏みつけると拳骨で二三十発殴りつけ、それから身体を持ち上げて谷川の中に放り込んでやった。大男の仲間たちもこれにはびっくりし、慌てて駆け寄ると大男に肩を貸して一緒になって逃げ出した。それから武松は店に戻り、大男のテーブルにあった酒や料理を思う存分飲み食いすると大いに満足して店を出た。
 ところが、店を出てしばらく歩いたところで、足もとがふらついて谷川の中に転がり落ちてしまった。すでにぐでんぐでんに酔っていたので、川からはいあがることもできない。しかも運悪いことに、ここにさっき武松が殴った大男の仲間たちが、武松に仕返しをするために二三十人の集団で通りかかった。これではさすがの武松でもどうすることもできず、簡単に捕らえられると、山の中の大きな屋敷に連れて行かれ、大木に縛り付けられてしまった。屋敷にはさっきの大男とその兄の大男がいて、武松を四五回鞭打った。このとき、屋敷の中から一人の小男が現れた。これが誰あろう他ならぬ宋江だった。
 宋江は武松を見るとびっくりし、すぐにも大男が鞭打つのをやめさせ、武松の縄も解かせた。それから、大男の兄弟たちにこれが景陽岡で虎退治した有名な武松だと紹介した。大男たちはびっくりし、慌てて武松にわびをいうと、乾いた着物を武松に着せ、座敷に招き入れた。このとき武松はここが白虎山という山で、武松が殴った男というのがこの辺では有名な孔亮で、もう一人の大男がその兄の孔明だと知らされた。この二人の父の孔太公という人物が昔から宋江と親しくしていたので、ここ半年ほど宋江はこの屋敷で世話になっていたのだという。こうして、孔明、孔亮兄弟と知り合った武松は十数日間孔太公の屋敷に滞在し、それから再び二竜山を目指して旅立つと間もなく二竜山の山賊の仲間に加わった。
 それから2年ほどたった冬、桃花山の山賊・李忠と周通からの使者が二竜山にやってきた(第57回)。青州に雇われた呼延灼が山賊退治を始め、桃花山に攻めてきたので助けてほしいというのである。このとき、二竜山から魯智深、楊志、武松の三人が五百の手下と六十の騎兵を率いて桃花山に向かったが、呼延灼は一度戦っただけで青州長官に呼び戻されて青州に逃げ帰ってしまった。呼延灼が青州に戻ったのは白虎山の孔明と孔亮が青州を襲ったためで、青州に戻った呼延灼は見事に孔明を生け捕りにしたのだが、武松らはまだそれを知らなかった。間もなく、武松らが配下の者を連れて二竜山へ戻ろうとしたとき、孔亮が敗残兵とともに逃げてくるのに出会い、武松らははじめて孔明が青州に捕らえられたことを知らされた。すると、楊志が青州を攻めるなら梁山泊と手を結んだ方がいいといいだしたので、二竜山、桃花山、白虎山と梁山泊が手を結ぶことになった。こうして、梁山泊とともに青州を襲って孔明を救出したのち、武松たち山賊は集団で梁山泊入りすることになった(第58回)。
梁山泊入山後の活躍
◆方臘戦で左腕を失い六和寺の寺男となって生涯を終える
宣和元年 入山直後の2月、華州少華山で山賊をしていた史進、朱武、陳達、陽春を梁山泊に迎えることになり、魯智深とともに少華山へ向かう(第58回)。

華州に捕らえられた史進と魯智深を救出するために西嶽華山に参詣する朝廷の使節団を装って華州長官賀太守を華山に呼び出すことが決まり、武松はあらかじめ門のところに潜み、合図と同時に飛び出して賀太守の手下を襲う。

5月ころ、呉用にだまされた盧俊義が梁山泊方面に旅してくると、武松は李逵や魯智深らとともに盧俊義を生け捕りにするために戦う(第61回)。
宣和2年 正月、盧俊義と石秀を救出するために北京攻撃が行われ、武松は魯智深と一緒に行脚僧の恰好で北京城外の寺に泊まり、作戦実行と同時に北京南門で敵の大軍をくい止める働きをする(第66回)。

春、梁山泊と曽頭市との二度目の戦争で、武松は魯智深、楊志らとともに敵将・蘇定を追いつめ、乱れ矢の中で戦死させた。この戦いの直後、宋江が盧俊義に梁山泊の総頭領の地位を譲ると言い出すと、武松は呉用、李逵、魯智深らと一緒に、宋江の態度に不満を述べた(第68回)。

3月頃の東平府・東昌府攻撃では、武松ははじめは出征しなかったが、宋江軍が東平府を落とし、さらに盧俊義を助けるために東昌府へ向かったとき、呉用の命令で魯智深、李立らとともに全水軍を率いて東昌府へ向かった。この作戦で武松らは糧秣車を敵将・張清に略奪されるのをわざと許し、張清らが河にある糧秣船までも襲うように仕向け、張清を生け捕りにするのに貢献した(第69回)。
宣和3年 正月、史進、魯智深たちとともに宋江の供となって、15日の元宵節の祭りを見物しに東京に行く(第72回)。

4月、朝廷から梁山泊招安を伝える第一回目の勅使が派遣されてきたが、下賜された酒がただのどぶろくだったことから大騒ぎになり、武松も戒刀を引き抜いて勅使に詰め寄った(第75回)。

夏、童貫率いる朝廷軍との戦いで、武松は魯智深とともに伏兵となり、逃げてくる童貫軍に切り込んで敵をちりぢりにした(第77回)。
宣和4年 2月、梁山泊は正式に朝廷に帰順する。

4月ころ、梁山泊軍は隊列を組んで式典のために東京に入城。このときほとんどの頭領たちはみな軍装に身を包んでいたが、武松は真っ黒な行者の衣を着ていた(第82回)。

間もなく遼国戦争が始まる。

檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、武松は宋江麾下の軍に編入された(第84回)。

宋江軍が薊州を取ると遼国から梁山泊軍を招安したいという申し出があり、宋軍では一部の将兵が敵に寝返ったように見せる作戦を採る。このとき武松は盧俊義らとともに敵に寝返る第二陣を編成し、覇州文安県の関所に押し掛けて奪い取った(第85回)。

最終決戦となった昌平県境の戦い。武松は敵の太陽の陣に討ち入る一隊に加わり、敵将・耶律得重を討ち取った(第89回)。

田虎討伐戦が始り、宋軍が田虎支配地に近い衛州まで進むと、まず初めに盧俊義が陵川城を攻めることになり、武松もこれに従った(第91回)。
宣和5年 蓋州攻略後に宋軍は兵を二手に分け、武松は宋江麾下の軍に編入された(第93回)。

宋江軍の昭徳城を攻め。武松は魯智深、劉唐とともに敵軍に切り込んだが、敵将・喬道清が妖術で出現させた幻の兵士たちに襲われて苦しみ、そこへ敵軍が押し寄せたので、三人とも敵の捕虜になってしまった(第95回)。三人は喬道清の前に引き立てられると、「糞道士め、たとえおれたちを殺せても、おれたちを屈服させることはできないぞ」と怒鳴りつけた。

宋軍が昭徳城を落としたとき、武松たちは解放された(第97回)。

襄垣県境の戦い。敵の女将軍・瓊英の石つぶてに苦しめられていた解珍と解宝が敵に捕らえられると、武松は李逵とともにしゃにむに敵軍の中を進んで追いかけたが、ついに救出できず、全身血塗れになって陣地へ戻った(第98回)。

王慶討伐戦始まる。

山南城攻めの戦い。武松は魯智深らとともに水軍の操る船に乗り込み、逃げ遅れた宋軍の兵糧船と見せかけてわざと敵に捕らえられ、一斉に暴れ出して敵城を奪った(第107回)。

荊南州の戦い。武松は魯智深、李逵らと敵基地のある紀山を背後から不意打ちして攻略した。

南豊州での最終決戦。武松は魯智深らと宋軍の前軍となって敵に戦いを挑み、わざと逃げるふりをして敵軍を宋軍の前におびき寄せた(第109回)。また、敵軍が逃げ出そうとするや魯智深、李逵らと背後から襲いかかり、敵将・李雄、畢先(ひっせん)らを討ち取った。

王慶討伐戦に勝利し、宋軍が東京に凱旋したとき、武松は軍装ではなく行者の衣で行列に参加した(第110回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まり、宋軍が敵側の大商人・陳将士の屋敷を襲う。武松は魯智深、李逵らと屋敷に討ち入って大暴れした(第111回)。

潤州攻略後に宋軍は兵を三隊に分け、武松は宋江麾下の軍に編入され、常州、蘇州へ向かった(第112回)。

常州での戦い。武松は魯智深、孔亮らとともに宋軍に寝返った敵将・金節を追いかけるふりをし、そのまま敵城に切り込んで大暴れした。

杭州城攻略戦。武松は城の吊り橋の上まで攻め込み、敵将・貝応夔(ばいおうき)を討ち取った(第115回)。◎杭州攻略後、武松は再度宋江麾下の軍に編入され、睦州へ向かった(第116回)。

睦州城手前の烏竜嶺で戦死した解珍と解宝の死骸を取り戻そうと宋江が関勝らを引き連れて出発すると、武松は呉用の命令を受けて魯智深らと宋江のあとを追い、烏竜嶺で敵の伏兵に襲われた宋江を救出した(第117回)。

睦州城攻め。武松は馬に乗った敵将・包天師に二本の戒刀を持って徒歩で立ち向かったが、敵が投げつけた剣を左腕に受けて出血のために昏倒してしまった。魯智深に助けられた武松が気がつくと左腕がいまにもちぎれそうだったので、武松は左腕を自分の戒刀で斬り落としてしまった(第117回)。

方臘討伐戦後、武松は杭州の六和寺に残る。
 方臘討伐戦が宋軍の勝利に終わり、宋軍が杭州まで戻ったとき、大怪我をして世をはかなんだ武松は東京には戻らずに魯智深とともに杭州の六和寺という寺に残る決心をした。武松は宋江に会うと、「自分はもう戦えない身体になってしまったので東京には戻りません。手柄を立てて手に入れた金銀などはすべて六和寺に寄贈し、寺男にでもなりたいと思います」と告げた。宋江もそれを許した。こうして武松は以降は六和寺で寺男となり、八十才まで生きた(第119回)。
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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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