梁山泊入山後の活躍
◆方臘討伐戦中に杭州で戦死する |
政和5年 |
梁山泊へ逃げた晁蓋一味を捕らえるために済州の兵が攻め寄せる。劉唐は司令官・黄安を捕虜にした(第20回)。
9月ころ、生辰綱略奪が露見したことを知らせてくれた宋江に礼をするために、劉唐が手紙と金を持って密かに宋江を訪ねる(第20回)。 |
政和7年 |
4月ころ、鄆城県で閻婆惜殺しの罪で逮捕された宋江が江州へ護送される途中で梁山泊近くを通る。劉唐は手下を引き連れて宋江と護送役人前に出現し、一行を梁山泊へ招いた(第36回)。
7月、江州で処刑されそうになった宋江と戴宗を救出する。劉唐は槍棒使いの大道芸人に変装して江州に侵入し、処刑場のそばで大暴れした(第40回)。
7月、宋江が家族を梁山泊に呼び寄せるために単身故郷に向かう。呉用らの命令で、劉唐はほかの仲間たちとともに宋江のあとを追い、故郷で宋江を捕らえようとしていた役人たちをけちらした(第42回)。 |
政和8年 |
1月ころ、祝家荘戦争が起こる。劉唐は呉用らとともに本寨の守備を担当した(第47回)。
冬、呼延灼率いる朝廷軍と戦う。二回目の戦いで、劉唐は歩兵軍に編入された(第57回)。 |
宣和元年 |
4月、曽頭市との第一回目の戦争が起こる。晁蓋が二十名の頭領を引き連れて曽頭市を攻め、そのうち十名の頭領が城内にまで攻め込んだが、劉唐もこれに選ばれた(第60回)。
5月ころ、呉用にだまされた盧俊義が梁山泊方面に旅してくると、劉唐は武松、李逵らとともに盧俊義を生け捕りにするために戦った(第61回)。 |
宣和2年 |
正月、盧俊義・石秀救出作戦が実行される。劉唐は楊雄ととともに取り手の役人に変装して北京の州役所に侵入し、梁山泊軍の攻撃を役所に報告しに来る者たちを入口のところで妨害した(第66回)。
春、曽頭市との二度目の戦争のあとで、宋江が盧俊義に梁山泊の総頭領の地位を譲ると言い出す。劉唐は呉用、李逵、武松らと一緒に、宋江の態度に不満を述べた(第68回)。
3月、東平府・東昌府攻撃軍が編成される。劉唐は宋江麾下の軍に編入され、東平府を攻めた(第69回)。戦いに勝利した後、宋江軍は盧俊義軍の応援に東昌府へ行くが、そこでの戦いで劉唐は敵の捕虜になり、戦後解放された(第70回)。 |
宣和3年 |
正月、史進、魯智深たちとともに宋江の供となって、15日の元宵節の祭りを見物しに東京に行く(第72回)。
4月、朝廷から梁山泊招安を伝える第一回目の勅使が派遣されてきたが、下賜された酒がただのどぶろくだったことから大騒ぎになり、武松も朴刀を構えて勅使に詰め寄った(第75回)。
夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、劉唐は中央の陣の後ろに位置し、遊撃隊を率いた(第76回)。
童貫軍を打ち破ったあと、劉唐は戴宗とともに東京の様子を探りに出かけ、太尉・高俅が十三万の兵を率いて梁山泊討伐に乗り出すという情報を梁山泊にもたらした(第78回)。
秋、高俅率いる梁山泊討伐軍と戦う。二度目の戦いで、劉唐は水路の戦いを指揮した(第79回)。 |
宣和4年 |
3月、梁山泊が朝廷に帰順する。
宋江、呉用、劉唐たち十二名の将が兵を率いて梁山泊に戻り、建物の取り壊しなどを行った(第83回)。
4月ころ、遼国戦争が始まり、劉唐は宋軍の正将として出征する。
檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、劉唐は宋江麾下の軍に編入された(第84回)。
薊州攻略後、遼国から梁山泊軍を招安したいという申し出があり、宋軍では宋江と一部の将兵が敵に寝返ったように見せる作戦を採る。劉唐を含む十数名の将が一万の兵を連れ、宋江と一緒に敵の文安県城に入り、後続の部隊と呼応してこれを落とした(第85回)。
昌平県境での最終決戦。劉唐は敵の金星の陣に討ち入る一隊に加わった(第89回)。
田虎討伐戦始まる。
宋軍は敵地に近い衛州に結集し、李逵は鮑旭、項充らとともに盧俊義に率いられて陵川城、高平県城を攻め落とした(第91回)。 |
(宣和5年) |
蓋州城攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、劉唐は宋江麾下の軍に編入された(第93回)。
昭徳城攻略戦。劉唐は武松、魯智深とともに敵軍に切り込んだが、敵将・喬道清が妖術で出現させた幻の兵士たちに襲われて苦しみ、そこへ敵軍が押し寄せたので、三人とも敵の捕虜になってしまった(第95回)。三人は喬道清の前に引き立てられると、「糞道士め、たとえおれたちを殺せても、おれたちを屈服させることはできないぞ」と怒鳴りつけた。
宋軍が昭徳城を落としたとき、劉唐たちは解放された(第97回)。◎王慶討伐戦始まる。
南豊州での最終決戦。劉唐は魯智深らと宋軍の前軍となって敵に戦いを挑み、わざと逃げるふりをして敵軍を宋軍の前におびき寄せた(第109回)。また、敵軍が逃げ出そうとするや魯智深、李逵らと背後から襲いかかり、敵将・李雄、畢先(ひっせん)らを討ち取った。(第109回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
潤州城攻略戦。宋軍は敵に糧秣を納入する大商人の船団を装う作戦を取る。劉唐は史進らとともに第三団の船に乗り込み、敵城を襲った(第111回)。
潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、劉唐は盧俊義麾下の軍に編入され、宣州、湖州へ向かった(第112回)。
湖州攻略後、盧俊義軍は兵を二隊に分け、劉唐は呼延灼の指揮下に徳清県に向かった(第114回)。
杭州城攻略戦中に戦死する。盧俊義軍が杭州城に迫ったとき、劉唐は一番手柄を立てようという気持ちからまっしぐらに城内へかけ込もうとし、敵が落とした門の戸に押しつぶされて戦士した(第115回)。 |