梁山泊入山後の活躍
◆歩兵だが諜報活動を得意とした活躍 |
政和8年 |
1月ころ、祝家荘戦争が起り、石秀は攻撃軍に加わる(第47回)。戦いの初め、石秀は楊林と一緒に敵情を探るために祝家荘に潜入した。石秀は山伏の身なりになった楊林の後ろから、薪売りに変装して祝家荘に入った。このとき石秀はとある居酒屋の老人から、複雑に曲がりくねった祝家荘の道から抜け出すには、楊柳(はこやなぎ)の木があるところで曲がらなければいけないことを聞き出した(第47回)。孫立が祝家荘の味方を装って戦いに出てくると、石秀は馬に乗って孫立と戦い、負けたふりをしてわざと生け捕りにされた。祝家荘戦争に勝利したあとには、李家荘の李応と杜興を梁山泊に引き込むために蕭譲らが役人に変装して二人を逮捕すると見せかけて屋敷から連れ出した。石秀は宋江らとともにこの一団を襲ったふりをし、二人を梁山泊までつれてきた(第50回)。
7月ころ、高唐州に捕らえられた柴進を救出するための軍に加わる(第52回)。
冬、呼延灼率いる朝廷軍との戦い。一度目の戦いで梁山泊軍は苦戦し、石秀も敵の矢を受けて負傷した(第55回)。 |
宣和元年 |
2月、史進と魯智深が華州の賀太守という役人のために捕らえられる。梁山泊軍は西嶽華山に参詣に来た朝廷の使節団を装って賀太守をおびき出して殺したが、このとき石秀は朝廷の役人に変装した(第59回)。
3月ころ、曽頭市との一回目の戦争が起こる。石秀は晁蓋が編成した曽頭市攻撃軍に加わった(第60回)。
7月ころ、盧俊義が北京で逮捕され、石秀はその様子を探るため北京に侵入する。盧俊義が処刑されるという話を聞いた石秀はすぐにも処刑場近くの料理屋の二階に入り込み、屋根から飛び降り、首を切られる寸前で盧俊義を助けた。しかし、このために二人とも役人に捕らえられてしまった(第62回)。 |
宣和2年 |
正月、梁山泊軍の作戦で石秀は盧俊義とともに救出された(第66回)。 |
宣和3年 |
夏、童貫率いる朝廷軍との戦い。石秀は盧俊義、楊雄とともに伏兵となり、逃げてくる童貫の前に立ちふさがった(第77回)。
11月、高俅率いる朝廷軍が大小海鰍船数百隻で攻め寄せる。石秀は楊雄とともに敵将・楊温を生け捕りにした(第80回)。 |
宣和4年 |
3月、梁山泊が朝廷に帰順する。
4月ころ、遼国戦争が始まり、石秀は宋軍の正将として出征した。
檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、石秀は宋江麾下の軍に編入された。
薊州城攻略戦。石秀は時遷とともに敵城に侵入し、二人で火を放って城内を混乱させる働きをした(第84回)。
昌平県境での最初の戦い。梁山泊軍は苦戦し、石秀も槍傷を負った(第88回)。
遼国戦争が終わり、東京に凱旋する。石秀は楊雄と町の居酒屋に出かけ、衛州からやって来た役人に出会った。このとき、この役人から河北地方で田虎が謀反を起こし大変なことになっているという話を聞き、これを宋江に伝えたことから田虎討伐戦が始まることになった(第91回)。
田虎討伐戦始まる。
陵川県城攻略戦。戦争のはじめ、まず盧俊義が十九名の頭領を率いて陵川県城を攻めることになり、石秀はこれに加わった。
高平県城攻略戦。陵川県の敵将・耿恭(こうきょう)が宋軍に寝返ったことから、石秀は楊雄らとともに耿恭に率いられた敵兵に変装して高平県城に侵入し、城を落とすのに貢献した(第91回)。
蓋州城攻略戦。石秀は時遷とともに敵兵に変装して敵城に侵入し、あちこちに火を放って城内を混乱させた(第92回)。 |
(宣和5年) |
蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、石秀は盧俊義麾下の軍に編入された(第93回)。
汾陽府での戦い。盧俊義軍は敵将・馬霊の妖術に苦しめられ、石秀も手傷を負った(第99回)。
威勝城攻略戦。石秀は楊雄らとともに王宮の正面から切り込んで活躍した(第100回)。
王慶討伐戦始まる。
山南城攻略戦。石秀は楊雄、魯智深らとともに兵糧船に潜み、敵が兵糧船を捕らえて城内に引き込もうとしたときに一斉に飛び出して敵城を混乱させた(第106回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
潤州攻略戦。石秀は阮小七とともに敵情を探るために潤州の焦山へ向かった(第111回)。
潤州攻略後、石秀は水軍の頭領たちと合流し、揚子江下流沿岸の都市へ向かった(第112回)。石秀はこれらの都市を鎮定した後、蘇州にいる宋江軍と合流した(第113回)。
杭州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、石秀は盧俊義麾下の軍に加わり、歙州へ向かった。
歙州城の関所・昱嶺関の戦いで戦死する。盧俊義軍が昱嶺関の前方まで来たとき、石秀、史進、陳達ら六名が歩兵を連れて昱嶺関の偵察に出た。しかし、関所の前まで来たとき敵に発見されてしまい、石秀たちは関所の上から雨のように矢を射られ、戦死した(第118回)。 |