梁山泊入山後の活躍
◆山男らしく烏竜嶺から墜落して戦死 |
政和8年 |
春、梁山泊で第二回目の職務分担が決まる。解珍は解宝とともに山の正面の第一関門の守備を任された(第51回)。
冬、呼延灼率いる朝廷軍と戦う。二回目の戦いで、解珍は解宝とともに歩兵軍に編入された。戦いは梁山泊の勝利だったが、二人は点鋼叉で呼延灼の双鞭と戦い、まったくかなわずすぐに逃げ出している(第57回)。
青州に雇われた呼延灼が白虎山の孔明を生け捕りにしたことから、青州攻撃軍が編成される(第58回)。この戦いで梁山泊の捕虜となった呼延灼が梁山泊の仲間になると、解珍、解宝を含む十人の頭領が呼延灼と一緒に青州城に入り込み、城外の本隊と呼応して青州城を落とすのに貢献した(第58回)。 |
宣和元年 |
2月、華州に捕らえられた史進を救出するため、呉用の作戦で西嶽華山に参詣する朝廷の使節団を装う。解珍は解宝とともに 虞候に変装し、だまされて華山にやってきた華州長官・賀太守を捕らえて短刀で首をはね、その後仲間とともに華州へ押し掛けた(第59回)。
秋、盧俊義と石秀を救出するため北京攻撃軍に加わる。解珍は解宝、孔亮らと一緒に苦戦する李逵の援軍として敵将・索超の軍の前に飛び出し、索超を追い払った(第63回)。 |
宣和2年 |
正月、盧俊義・石秀救出作戦が実行される。解珍は解宝とともに猟師の恰好で北京に侵入し、戦いが始まったときに役所への報告を妨害する役目を与えられた(第66回)。
春、曽頭市との二度目の戦争が起こる。解珍は解宝とともに敵の中央の陣を攻める軍に加わった(第68回)。
3月、東平府・東昌府攻撃軍が編成される。解珍は解宝とともに宋江の軍に加わり、東平府を攻めた(第69回)。 |
宣和3年 |
夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、解珍は解宝とともに中軍の護衛にあたった(第76回)。 |
宣和4年 |
3月、梁山泊が朝廷に帰順する。
4月ころ、遼国戦争が始まり、解珍は宋軍の副将として出征する。
檀州での戦い。張清が敵の弓をのどに受けて落馬したのを、解珍と解宝が史進とともに救出した。
檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、解珍と解宝は盧俊義麾下の軍に加わった(第84回)。
薊州攻略後、遼国から梁山泊軍を招安したいという申し出があり、宋江が一部の将兵を引き連れて敵に寝返ったように見せる作戦が取られる。解珍は魯智深らとともに敵に寝返る第二陣を編成し、覇州文安県の関所に押し掛けてこれを奪い取った(第85回)。
幽州での戦い。盧俊義と一部の将が断崖に囲まれた青石峪という場所に迷い込み、身動きが取れなくなると、解珍は解宝とともに猟師の身なりで捜索に出かけ、この土地で猟師をしている兄弟に出会い、青石峪について詳しい情報を聞き出した(第86回)。
昌平県境での最終決戦。宋軍は九天玄女の法を用い、解珍は解宝とともに敵の中軍に討ち入る一隊に加わった。解珍は解宝とともにまっさきに敵の元帥旗を切り倒し、敵兵を斬りまくった(第89回)。
田虎討伐戦始まる。
蓋州城攻略戦。解珍は解宝とともに飛楼(攻城兵器)からまっさきに敵の城壁によじ登って大暴れした(第92回)。 |
(宣和5年) |
蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、解珍は宋江麾下の軍に編入された(第93回)。
昭徳城攻略戦。宋軍が魔法使いの敵将・喬道清に苦しめられると、解珍は解宝、張清、王英とともに衛州まで行き、無事に公孫勝を連れてきた(第95回)。
襄垣県での戦い。解珍は敵の女将軍・瓊英の石つぶてを受けて倒れたが、解宝らによって救われた(第98回)。
威勝城攻略戦。女将軍・瓊英が梁山泊に寝返ったことから、解珍は瓊英に率いられて敵の本拠地威勝城へ向かい、敵兵を装って城内に押し入った(第100回)。
王慶討伐戦始まる。
山南城攻めの戦い。解珍は解宝らとともに水軍の操る船に乗り込み、逃げ遅れた宋軍の兵糧船と見せかけてわざと敵に捕らえられ、一斉に暴れ出して敵城を奪った(第107回)。
山南州攻略後、盧俊義軍に加わり西京州に向かう。西京州城攻略戦中、楊志が率いていた部隊が行方不明になると、解珍は解宝とともに捜索に出かけ、奥深い谷の中で身動きできなくなっていた一隊を救出した(第108回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
潤州攻略戦。宋軍は敵城に糧秣を納入する大商人の兵糧船を装う作戦を取り、解珍は解宝らとともに第三船団の船に乗り込み、敵城を襲った(第111回)。
潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、解珍は盧俊義麾下の軍に加わり、宣州、湖州へ進んだ(第112回)。
湖州攻略後、盧俊義軍は兵を二隊に分けると、解珍は盧俊義とともに独松関に向かった(第114回)。
杭州城攻略戦。解珍は解宝とともに敵将・張倹と張韜(ちょうとう)を討ち取った。さらに二人は敵地を偵察中に杭州城に糧秣を運搬する船団を発見し、杭州攻略にこの船団が利用されることになった(第115回)。
杭州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、解珍は宋江麾下の軍に編入され、睦州に向かった。
睦州の烏竜嶺で戦死する。
宋江軍が睦州城への入口にあたる烏竜嶺の関所で苦戦したとき、解珍は解宝とともに宋江に申し出て、烏竜嶺の上にある敵の関所に火をつけるために猟師のわざを生かして険しい山を登っていった。しかし、二人を発見した敵が撓鈎をのばし解珍の髷をひっかけて釣り上げた。解珍はすぐにも刀を引き抜いて振り回したが、それが敵の撓鈎の柄を斬ってしまい、解珍はそのまま墜落して戦死した(第116回)。 |