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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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イオの末裔
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イオの末裔
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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。


地伏星
ちふくせい
施恩
しおん
梁山泊での順位 第85位
持ち場 歩兵軍将校
特技 武芸
あだ名 金眼彪(きんがんひょう)
出身地・前歴 孟州・二竜山の山賊の小頭領
あだ名の由来
彪は色の鮮やかな虎のことで、金眼は金色の目のこと。目が金色で、武芸に秀でていて強かったので金眼彪と呼ばれた。
あだ名のわりに弱くなよなよした好漢
 施恩は地煞星のひとつ地伏星が生まれ変わった好漢である。
 二竜山の山賊の小頭領から梁山泊入りしたが、もともとは孟州の牢役人の息子だった。登場時点で二十四五歳、身長6尺(180cm)ほどだったが、育ちがよいのかどこか弱々しい印象がある。少年のころから武芸を学び、繁華な交易場を取り仕切っていたとはいうものの、あとから割り込んできたごろつきに大怪我をさせられ、あっさり奪われてしまったくらいだから、力は強くなかったのだろう。施恩はこのころ武松と知り合い、どうにか助けて欲しいと思うのだが、その頼み方にしてもきっぱりしたところがなく、好漢らしい勢いが感じられない。ただし、助けてくれた武松には完全に心酔しており、あれこれと尽くしているから、それなりの義理堅さはあったようだ。
施恩の物語
◆武松のおかげで交易場快活林を取り戻す

 施恩は土地では知られた存在で、快活林という交易場を取り仕切っていた。そんなあるとき、孟州へ新しい警備司令官・張団練がやってくると、身長が9尺(270cm)もある巨漢で、かつて有名な相撲大会で優勝したこともあるという蒋門神という手下を使って快活林を乗っ取ってしまった。施恩は戦おうとしたが、殴る蹴るの乱暴をうけて二ヶ月も寝たきりになる重傷を負わされた。
 やがて6月になると、頭と手に包帯は残っていたものの施恩はどうにか起き出せるようになった。ちょうどこのころ孟州の牢城にとある大男が囚人として送られてきた(第28回)。これが景陽岡の虎退治で有名な武松だった。それを知った施恩は心に思うところがあったので、牢役人の息子という立場を利用して、武松の牢城暮らしが楽なものになるようにと陰でいろいろと手を尽くした。牢城に来た囚人はまず初めに棒で百回打たれる決まりだったが、施恩は父に頼んでそれを免除させた。毎日の食事も豪華なものを作って兵卒に届けさせ、労役も免除させた。ところが、数日もたつとわけもなく大事にされている武松の方が不思議に思い出し、兵卒たちにあれこれと尋ね始めたので、ついに施恩が表に出て行かざるを得なくなった。施恩は武松の前に来ると挨拶し、「あなたが立派な大人物と思って大事なお願いがあるのです。が、なんといってもあなたは牢城に来たばかりで疲れていらっしゃるでしょうから、半年ほどゆっくり休んでもらって、十分元気になったときにお話ししたいのですが」といった。武松はおおらかに笑い飛ばし、「どうやらわたしの身体がなまっていると思っているようですな」といい、施恩とそこにいた兵卒を大きな円石のある場所に案内した。そして、200kg以上もある円石を軽々と抱き抱えて空中に放り出し、落ちてくる石を両手で受けとめてみせた。これを見た施恩はすっかり感心し、武松に抱きついていった。「あなたはすごい、神様だ」
 それから施恩は武松を私邸に案内し、快活林という交易場を軍司令官張団練に乗っ取られたいきさつを説明し、武松にその恨みを晴らしてほしいと訴えた(第29回)。武松はすぐにも仕返しに行こうといったが、ここに施恩の父が出てきて酒宴に招待した。このとき、大いに飲み食いした武松が泥酔したのを見た施恩は、明日は二日酔いで戦えないだろうと考え、仕返しをもう一日のばすことにして、次の日にも武松を私邸に招待すると、今度は酒はあまり出さず、肴や菜ばかりだした。ところが、武松の方は酒が飲めずに内心不満で、別れてから施恩の使用人になぜ酒が出なかったのか尋ねた。すると、使用人によれば、武松が二日酔いになって戦えなくなっては困ると施恩が考えたからだという。これを知った武松は、ならば施恩をびっくりさせてやろうと考えた。
 翌朝、施恩が馬を用意して武松を訪ねると武松はとんでもないことをいい出したのだ。「わたしは歩いていきますが、ここでひとつお願いがあります。もし蒋門神をやっつけてほしいなら、町を出てから先は居酒屋の前を通るたびに酒を三杯のませてほしいのです」。施恩はびっくりした。そんなことをしたら完全に酔っぱらってしまうからだ。が、武松が笑って、「わたしは酒を飲むほど力が出るのです」というので承知した。
 こうして十何軒かで飲んだ後、二人は快活林についた。そこで、武松が蒋門神をさんざんに痛めつけたことはいうまでもない。町を取り戻した施恩は店を武松に任せたが、それからは町からの冥加金も昔より多くはいるようになり、何もかもが施恩にとってうまく運んだ。

◆罠にはめられた武松に尽くし山賊になる

 一ヶ月以上が過ぎたころ、どうしたことか孟州軍総司令官・張都監が施恩の店に使者を派遣して、武松を自分の屋敷で迎えたいと伝えてきた(第30回)。張都監は施恩の父の上司でもあり、囚人である武松もその支配下にある身分だったから施恩も従うしかなかった。
 ところが、それからしばらくして、張都監の屋敷で盗みを働いた罪で武松が逮捕されたという知らせが施恩のもとに届いた。「これは完全な罠だ」と話を聞いた施恩の父はいった。「蒋門神がやられたことを根に持った張団連が、張都監に賄賂をやって、武松に無実の罪を着せたのだ」
 施恩はすぐにも牢役人をしている親しい友人や事件を担当している役人にも会って銀子を渡し、武松が罠にはめられたに違いないことを説明した。担当役人は実直な男で、すぐにも武松の罪が軽くなるような調書を作った。施恩はさらに牢番たちにも金を渡し、武松に会ってご馳走し、すべてが張都監の罠であったことを説明した。
 施恩の努力は実り、拘留期限の六十日が過ぎても武松は殺されずに恩州への流罪となったが、この間に施恩の方は再び蒋門神に襲われ、快活林を奪われてしまった。武松が首枷をつけて護送される日、施恩は包帯姿で見送りにいったが、二人の 護送役人の態度はひどいもので、落ち着いて武松に酒を飲ませることもできなかった。施恩は用意してきた着物や靴の入った包みを武松の腰にぶら下げ、丸煮のあひる二羽を首枷に引っかけた。それから、「護送役人は何かたくらんでいますよ」と武松に耳打ちし、涙を流しながら武松を見送った。
 ところで、武松はこの日のうちにも護送役人と張都監が送った二人の殺し屋に殺されそうになったが、反対にやっつけ、夜には密かに孟州城にもぐりこんだ。そして、張都監の屋敷の宴会の間にいた張都監、張団練、蒋門神、その関係者などを皆殺しにしてさっさと町から逃げ出した。
 この事件が起こると犯人逮捕のために施恩の家族も厳しく追及され、施恩は家族と一緒に孟州城から逃げ出した。あちこち渡り歩くうち、父も母も死に、施恩だけが残った。そして、武松が二竜山で山賊になっていることを知った施恩は武松を頼って仲間に加わった。やがて、青州に雇われた呼延灼が山賊退治を始め、白虎山の孔明を生け捕りにした。これを白虎山、二竜山、桃花山、梁山泊の山賊たちが共同で救出したのをきっかけに、施恩も武松、魯智深らの仲間と一緒に梁山泊入りした(第58回)。
梁山泊入山後の活躍
◆方臘討伐戦中に蘇州沿岸の町城熟で戦死
宣和2年 1月、盧俊義と石秀を救出するための北京攻撃軍に加わる(第66回)。

3月、東平府・東昌府攻撃。施恩は盧俊義麾下の軍に編入され、東昌府を攻めた(第69回)。
宣和3年 夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣で敵を迎え打ち、施恩は中央の陣の東門の位置に配置された。
宣和4年 2月、梁山泊が朝廷に帰順。

4月ころ、遼国戦争が始まり、施恩は宋軍の副将として出征する。

宋軍は檀州攻略後に兵を二隊に分け、施恩は宋江麾下の軍に編入され、平峪県から薊州へと向かった(第84回)。

昌平県境での最終決戦。施恩は敵の土星の陣に打ち込む軍に編入された(第89回)。

田虎討伐戦始まる。
(宣和5年) 蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分けて威勝城を目指すが、施恩は守備隊として蓋州城に残った(第94回)。後に宋江軍が昭徳城を取ったとき、蓋州城を出て合流した(第99回)。

王慶討伐戦始まる。

山南州攻略後、盧俊義麾下の軍に加わり、西京を攻撃する(第107回)。

西京城攻略後、荊南地方の本隊に合流。

荊南攻略後、李応、柴進に従って本隊の後から糧秣車や火砲の車両を護送し、南豊州へ向かう。このとき、敵が襲ってくるとの情報が入ると、施恩たちは伏兵となって待ち伏せ、みなで敵を撃退し、敵将・縻貹(びせい)も討ち取った(第108回)。

南豊州での最終決戦。宋軍は九宮八卦の陣を敷き、施恩は中央の陣の東門の位置に配置された(第109回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州城攻略作戦に加わる。宋軍は敵の糧秣船を装って潤州城を襲う作戦を採り、施恩は李俊の船に乗り込んで護衛に当たった(第111回)。

潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、施恩は宋江麾下の軍に編入され、常州、蘇州方面へ向かった。

常州城攻略戦。施恩は孫立らと一緒に、宋軍に寝返った敵将・金節を利用し、追いかけるふりをして一気に突入し、城内を混乱させる働きをした(第112回)。

本隊から別れて、水軍の応援に行く。宋江の軍が蘇州まで来たとき、施恩は孔明、孔亮たちとともに本隊から別れ、水軍を援助して揚子江下流沿岸沿いにある大倉、常熟などの県城を攻めることになった。しかし、施恩は泳げなかったので、阮氏三兄弟と常熟を攻めたとき、船から落ちて戦死した(113回)。
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イオの末裔
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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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