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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。


地鎮星
ちちんせい
穆春
ぼくしゅん
梁山泊での順位 80位
持ち場 歩兵軍将校
特技 朴刀
あだ名 小遮攔(しょうしゃらん)
出身地・前歴 掲陽鎮・町の親分
あだ名の由来
兄の穆弘はどうしようもない暴れ者で没遮攔(遮るものなし)と呼ばれ、穆春はその弟だったので小遮攔と呼ばれた。
掲陽鎮を牛耳る暴れ者兄弟の弟
 穆春は地煞星のひとつ地鎮星が生まれ変わった好漢である。
 穆春は穆弘の実の弟で、兄弟で江州に近い掲揚鎮の町を取り仕切る親分をしていた。立派な体格の大男で、町の者たちから恐れられており、流れ者が掲揚鎮で商売をするには、まず穆弘・穆春の兄弟に許可を得る必要があった。掲陽鎮は掲陽嶺や潯陽江に近かったので、穆春は李俊や張横とも兄弟分の関係にあった。しかし、穆春は向こう意気が強いわりには穆弘ほどの実力はなかったようだ。流れ者の武芸者だった薛永とケンカして負けたこともある。梁山泊では百八星が揃ったときに歩兵軍将校となるが、それ以前には金銭糧秣の収入を扱う仕事や家や寨の柵の造営を担当したこともあり、武辺一辺倒の人間でなかったこともわかる。兄思いの男で、方臘討伐戦中に兄の穆弘らが杭州城で疫病に冒されたときは、長いことその地に留まって看病する優しさもあった。
穆春の物語
◆町の掟を破った宋江を懲らしめようとする

 穆春は実の兄の穆弘と二人で江州に近い掲陽鎮を取り仕切る親分をしていた。あるとき、掲陽鎮に流れ者の武芸者がやってきて、槍棒の技を見せて客寄せをし、膏薬を売る商売を始めた。この武芸者というのは薛永だったが、穆春は薛永が何の断りもなしにそんなことをするのが気に入らず、町の者たちに薛永とかかわることを禁じた。このため、薛永がいくら商売をしようとしても、町の者は誰も膏薬を買おうとしなかったし、薛永に金を恵もうともしなかった。ところが、ある日、護送役人に連れられた流刑の罪人が町にやってきて、武芸者に金を恵んだ。この罪人は宋江で、閻婆惜殺しの罪でウン城県で逮捕されて江州へ流される途中、護送の役人たちとともに掲陽鎮に立ち寄ったのである。穆春はもちろんそれが宋江とは知らないので、偶然にもその様子を目撃すると人々をかき分けて罪人の前に飛び出し、「何だきさまは! どうしてこの男に金をやる」と怒鳴りつけた(第36回)。しかし、宋江は少しもひるまず、「自分の金を与えて何が悪い」と穆春を突っぱねた。穆春は腹を立て、すぐにも宋江に殴りかかろうとした。すると突然、薛永が飛び出してきて穆弘の脇腹を殴りつけ、穆春は倒されて何度も足蹴にされた。仕方なく、穆春は「ちくしょう、おぼえてやがれ」といって逃げ出した。
 とはいえ、こんなことをされて黙っている穆春ではなかった。穆春はすぐにも町の宿屋すべてに罪人と護送の役人たちを泊めてはいけないと命じ、さらに仲間を引き連れて薛永のいる宿に押し込み、戻ってきた薛永を捕らえて縛り上げた。それから罪人たちに仕返ししようと仲間とともに町中を捜し始めた。
 このころ、宋江の方はといえば、どの宿屋にも断られて大いに困り果て、日が暮れたころになって町のはずれにあった大きな屋敷の門を叩き、一晩の宿を求めた。屋敷の大旦那は親切で、宋江たち温かくもてなしてくれた。ところが、この大旦那こそ穆弘・穆春の父だったのだ。やがて夜も更けたころ、穆春が仲間を引き連れてどやどやと父の屋敷にやってきた。穆春は宋江たちが見つからないのでむしゃくしゃし、家にいる兄の穆弘を連れて一緒に捜しに出ようと考えたのである。事情を聞かされた父がいくら止めようとしても、穆春は「あいつらを捕まえて、ぐるぐる巻きにして川に投げ込んでやる」といってきかなかった。
 この騒ぎに宋江たちはびっくりし、慌てて部屋の後ろの壁を破って逃げ出したが、穆春はすぐにもそれに気がついた。穆春は穆弘にも出てきてもらい、兄弟で20人もの仲間を引き連れ、松明を持って宋江たちを追いかけ始めた。
 ところが、森を越えて潯陽江まで追っていくと、宋江と護送役人の三人はすでに渡し船に乗り、川を渡ろうとしているところだった。穆春たちは大声で、「おい、そこ船頭、すぐに舟を戻せ」と叫んだが、船頭は気にしない。この船頭は張横で、宋江たちをだまして金を奪おうとしていたのである。すぐに、それが張横だとわかった穆春たちは、「張の兄貴、おれたちはその三人を捕まえたいんだ」といったが、張横は「悪く思うなよ」といって船を進めてしまった。
 このために穆春たちは宋江一行を取り逃がしてしまうことになったのだが、この直後に穆春たちが追っていたのが有名な宋江だということがわかった。というのはこういうことだった。宋江一行を乗せた張横は川の真ん中あたりで強盗の正体を現し、宋江たちを殺して金を奪おうとした。すると、そこへ偶然にも、掲陽嶺で宋江と知り合った李俊が童威、童猛と一緒に舟で通りかかったのである。この李俊が張横や穆春たちと兄弟分で、張横が宋江たちを殺そうとしているのをやめさせ、皆を引き連れて岸に戻ると、穆春たちにもそれが宋江であることを教えたのである。話を聞いた穆春は大いに驚き、すぐにも手に持った朴刀を投げ捨てるとひざまづいてこれまでの無礼を謝罪した。そして、穆春は先に捕らえていた薛永も含めて、みなを父の屋敷に招いてもてなした。宋江たちは翌日には江州に出発しようとしたが、穆春は兄の穆弘ともども宋江を引き止め、三日ほどしてから江州に送り出した。
 ところが、それから二ヶ月ほどして、宋江が謀反を企んだとして江州で処刑されるという情報が穆春たちのもとに届いた。そこで穆春は穆弘、李俊、張横たちと一緒に宋江を救出するために舟で江州へ向かった。ところで、このころ梁山泊の好漢たちも宋江救出作戦に乗り出しており、穆春たちが江州に着くより前に処刑場から宋江を救出していた。穆春たちが江州に近づいたとき、偶然にもこの梁山泊の一団が川岸に集まっていた。そこに宋江がいるのを知った穆春たちは大いに喜び、好漢たち全員を舟に分乗させると掲陽鎮の穆弘の屋敷に向かった。穆弘の屋敷に着くと、宋江が自分に謀反の罪を着せた黄文炳に復讐したいと言い出した。そこで穆春たちは梁山泊の好漢たちとともに黄文炳の住む町・無為軍を襲撃した。こうして、見事に黄文炳に復讐したあと、穆春は正式に梁山泊の一員となった。
梁山泊入山後の活躍
◆最後は故郷の掲陽鎮に戻り庶民として生きる
政和7年 7月ころ、入山直後の宋江が家族を梁山泊に呼び寄せるために単身故郷に向かう。宋江の身を心配した呉用らの命令で、穆春は李逵、陶宗旺たちとともに宋江のあとを追い、宋江の故郷で宋江を捕らえようとしていた役人たちをけちらした(第42回)。

8月ころ、梁山泊で一回目の職務分担が決まり、穆春は朱富とともに金銭糧食の管理者になった(第44回)。
政和8年 春、梁山泊で二度目の職務分担が決まり、穆春は李雲とともに家屋などの造営管理者になった(第51回)。

冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍と戦う。穆春は二度目の戦いで歩兵隊を率いた(第57回)。
宣和2年 正月、盧俊義・石秀救出作戦が実行される。穆春は北京攻撃軍に編入された(第66回)。
宣和3年 夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、穆春は中央の陣の後ろに位置し、遊撃隊を率いた(第76回)。
宣和4年 3月、梁山泊が朝廷に帰順する。

4月ころ、遼国戦争が始まり、穆春は宋軍の副将として出征する。

檀州攻略後、宋軍は進軍する兵を二隊に分け、穆春は宋江麾下の軍に編入された(第84回)。

昌平県境での最終決戦。宋軍は九天玄女の法を用い、穆春は穆弘らとともに敵の木星の陣に討ち入る一隊を率いた(第89回)。

田虎討伐戦始まる。
(宣和5年) 蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、穆春は盧俊義麾下の軍に加わった(第93回)。

威勝城攻略戦。穆春は鄒淵らとともに歩兵を率いて王宮に攻め込み、多数を斬り殺した(第100回)。

王慶討伐戦始まる。

山南州攻略後、穆春は盧俊義麾下の軍に加わり、西京州へ向かった(第106回)。

荊南州攻略後、宋軍は南豊州へ進軍する。穆春は李応、柴進らとともに本隊の後から糧秣車や火砲の車両を護送した。この途中、敵に襲われた穆春らは見事にこれを撃退し、糧秣を本営に届けた(第108回)。

南豊州での最終決戦。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、穆春は中央の陣の後ろに位置し、遊撃隊を率いた(第109回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分け、穆春は盧俊義麾下の軍に編入され、宣州、湖州へ向かった(第112回)。

湖州攻略後、盧俊義軍は兵を二隊に分け、穆春は呼延灼指揮下に徳清県へ向かった(第114回)。

杭州城攻略戦。宋軍は敵城に租税の糧秣を納入する船団を装う作戦を取り、穆春は王英らとともに船頭に変装して杭州城を襲った(第115回)。

杭州城攻略後、城内で疫病が流行し、張横、穆弘、孔明、朱貴、楊林、白勝が病に冒される。穆春は朱富とともに杭州城に残って看病にあたる(第116回)。

方臘討伐戦に勝利し、東京に凱旋する。穆春は朝廷から与えられた官爵を辞退し、生まれ故郷の掲陽鎮に帰り、庶民として生きた。
 小説
イオの末裔
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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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