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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。


天平星
てんぺんせい
張横
ちょうおう
梁山泊での順位 28位
持ち場 四方の寨を守る水軍頭領
特技 水泳、操船術
あだ名 船火児(せんかじ)
出身地・前歴 潯陽江の船頭
あだ名の由来
潯陽江の渡し船の船頭だったので、船火児(船頭)と呼ばれた。
潯陽江を取り仕切っていた張兄弟の兄
 張横は天罡星のひとつ天平星が生まれ変わった好漢である。
 身の丈7尺、赤い髪をした大男で、実の弟の張順とともに江州に近い潯陽江(揚子江の江州の呼び名)の親分だった。潯陽江の渡し船の船頭をしながら、利用客から金を巻き上げるというあくどい強盗家業をしていた。掲陽嶺や掲陽鎮の親分をしていた李俊、李立、穆弘、穆春らとも兄弟分のつき合いをしていた。一度、そうとは知らずに宋江を殺そうとしたことがあるが、これが縁で宋江と知り合った。梁山泊入山後は船頭の経験を活かして水軍の頭領となるが、弟の張順ほどの目立った活躍はなかった。弟思いの男だったので、方臘討伐戦中に張順が戦死したときには大いに嘆いた。
張横の物語
◆渡し船に乗った宋江を危うく殺そうとする

 張横は実の弟の張順とともに潯陽江を取り仕切る親分で、船頭をしながら利用客から金を巻き上げるという強盗家業をしていた。ある夜、張順が潯陽江を舟で進んでいると、掲陽鎮の近くの岸辺の葦の茂みの中から、「船頭さん、われわれ3人を助けてくれ。金は十分にだすよ」と誰かが呼びかけてきた(第37回)。「何者だね」と張順がいうと、「追い剥ぎに追いかけられて困っているんだ。早く舟に乗せてくれ。料金ははずむから」と応えた。この3人というのは、実は宋江と護送役人たちだった。宋江は閻婆惜殺しの罪で故郷のウン城県で逮捕され、江州へ流されることになった。その旅の途中の掲陽鎮で、膏薬売りをしていた薛永に宋江が金を与えたことから、土地の親分だった穆弘と穆春ににらまれて追いかけられ、潯陽江の岸辺まで逃げてきたのである。
 張横はそれが宋江だとは知らなかったので、3人から金を巻き上げてやろうと思い、すぐにも舟を岸に寄せて3人を乗せ、船を漕ぎだした。舟が川の真ん中まで来たころ、大男二人に率いられた連中が20人ほど、松明と武器を持って岸辺に現れた。二人の大男は張横の知り合いの穆弘と穆春で、男たちは口々に、「おい、船頭、舟を戻せ」と叫んだ。しかし、張横は気にしなかった。岸辺にいた連中は腹を立て、「きさま、どこの船頭だ」と叫んだ。「船頭の張横さんだよ」と張横がいうと、穆兄弟は喜び、「なんだ張兄貴か。おれたちが見えないのかよ。おれたちはその3人を捕まえたいんだ」といった。しかし、張横は「おれの飯の種を渡すわけにはいかないよ。悪く思わないでくれよな」といっただけで、船を漕ぎ進めた。舟に乗っていた宋江と役人たちはこれで助かったと大いに喜んだが、このとき張横はいかにも気持ちよさそうに歌を歌いだした。「大河の流れはおれのもの/役人だって恐くはない/どんな奴等が来ようとも/何から何までかっぱらう」。それから張横は強盗の正体を現し、「やいきさまら、この舟板の下には切れ味のよい刀があるんだ。きさまらはそれで斬られたいか、もしそうでないならいますぐ着物を脱いで真っ裸で川に飛び込んで自分で死ね」と3人を脅した。宋江が脅えながら、「わたしは罪を犯したために江州へ流される途中の哀れな囚人なんです。金も持ち物も全部あげますから、どうか3人の命だけは助けてください」というと、張横はすぐにも刀を取り出し、「さあ、どうするんだ」と叫んだ。
 すると、ちょうどこのとき、上流の方から一艘の舟が近づいてきた。その舟の先頭に立っていたのが張横とは兄弟分の李俊で、船を漕いでいたのは童威と童猛だった。それを見た張横は「なんだ、李の兄貴じゃないか。おれはいま3匹の獲物を捕まえたところだ。ちびの囚人と役人二人で、江州に行く途中だというんだが、金がありそうなのでいまここで始末しようと思っていたんだ」といった。これを聞くと李俊が慌てて「まさか、おれの兄貴分の宋江どのじゃないだろうな」といった。李俊は数日前に掲陽嶺で宋江一行と出会い、そこで宋江と兄弟の盟を結んでいたのである。このとき、張横の舟の胴の間から囚人が顔を出すと、李俊はすぐにも張横の舟に飛び移り、「本当に兄貴だ。わたしが来なかったら命を取られているところ。家にいても落ち着かないので、塩の闇商いに出てきたが、まったくよかった」と話しかけた。張横が呆然として、「この人が宋江さんなんですか」というと李俊は「そうだ」。張横も宋江の名前だけは知っていたので、これには大いに驚き、舟の上でひざまづくと「どうして名乗ってくれなかったんですか」といって慌てて無礼を謝罪した。それから張横は李俊とともに岸辺にいた穆兄弟と合流した。穆兄弟も自分たちが追っていたのが宋江だと知らされると大いに驚き、穆弘の屋敷で宋江をもてなした。宋江はそこに3日間ほど滞在して、役人たちとともに江州に旅立つことになった。弟の張順が江州で商売をしていた張横は、このとき穆弘の屋敷の者に頼んで弟宛の手紙を書いてもらい、それを宋江に託して宋江たちを送り出した。
 ところが、それから二ヶ月ほどして、今度は宋江が謀反を企んだとして江州で処刑されるという情報が張横たちのもとに届いた。そこで張横は李俊、童威、童猛、穆弘たちと一緒に宋江を救出するために舟で江州へ向かった。このころ梁山泊の好漢たちも宋江救出作戦に乗り出しており、張横たちが江州に着くより前に処刑場から宋江を救出していた。張横たちが江州に近づいたとき、偶然にもこの梁山泊の一団が川岸に集まっていた。そこに宋江がいるのを知った張横たちは大いに喜び、好漢たち全員を舟に分乗させると掲陽鎮の穆弘の屋敷に向かった。
 穆弘の屋敷に着くと、宋江が自分に謀反の罪を着せた黄文炳に復讐したいと言い出した。そこで張横たちはみなで無為軍の町にある黄文炳の屋敷を襲撃し、見事に黄文炳への復讐を果たし、これを機に張横は正式に梁山泊の一員となった(第41回)
梁山泊入山後の活躍
◆方臘討伐戦中に杭州で病死する
政和7年 7月ころ、入山直後の宋江が家族を梁山泊に呼び寄せるために単身故郷に向かう。宋江の身を心配した呉用らの命令で、張横は李立、穆弘たちとともに宋江のあとを追い、宋江の故郷で宋江を捕らえようとしていた役人たちをけちらした(第42回)。
政和8年 1月ころ、祝家荘戦争に参加する(第47回)。

秋、柴進を救出するため高唐州攻撃軍が編成される。張横は朱仝らとともに中軍に加わった(第52回)。

冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍と戦う。最初の戦いで、張横はほかの水軍頭領とともに陸軍の応援にあたり、砲撃の名手・凌振を生け捕りにした(第55回)。二度目の戦いでも、張横は水軍を率いて戦った(第57回)。

青州に雇われた呼延灼が白虎山の孔明を生け捕りにすると張横は梁山泊軍の一員として青州を攻撃した(第58回)。
宣和元年 4月、曽頭市との第一回目の戦争が起こる。晁蓋が二十名の頭領を引き連れて曽頭市を攻め、張横もこれに加わった(第60回)。

秋、関勝率いる梁山泊討伐軍と戦う。敵将・関勝を生け捕りにしようとして張横は自分勝手に行動し、敵に捕らえられる。張順から事態を聞かされた阮氏三兄弟は宋江からの命令を待たずに張順とともに張横の救出に出かけたが失敗し、阮小七も敵の捕虜になる。捕まった二人は間もなく李応によって救出された(第64回)。
宣和2年 3月、東平府・東昌府攻撃軍が編成される。張横は当初は山寨の守備を担当したが、後に東昌府へ行き、ほかの水軍頭領とともに敵将・張清を生け捕りにした(第70回)。
宣和3年 秋、高俅率いる朝廷軍と戦う。二度目の戦いで、張横は敵将・牛邦喜を生け捕りにしたが、そのまま梁山泊に送ると宋江が釈放してしまうと考え、殺してしまった(第79回)。

11月、高俅が大小の海鰍船三百隻で攻め寄せる。この戦いでは水軍のメンバーが主力となって戦い、張横は李俊とともに敵将・王文徳を生け捕りにした(第80回)。
宣和4年 3月、梁山泊が朝廷に帰順する。

4月ころ、遼国戦争が始まり、張横は宋軍の正将として出征する。

檀州城攻略戦。張横は李俊、阮氏三兄弟らとともに敵戦船を撃破し、城の水門を奪う(第83回)。

檀州攻略後、宋軍は兵を二隊に分けて進軍するが、張横は柴進らとともに守備隊となり、檀州城に残った(第84回)。宋江軍の幽州城攻略後、本隊と合流する(第87回)。

昌平県境での最終決戦。張横ら水軍は主力軍の援護を担当した(第89回)。

田虎討伐戦始まる。

宋軍が衛州から蓋州へ向かうときに、張横ら水軍は衛州城の守備を担当した(第91回)。
(宣和5年) 宋軍の一隊が潞城を落とすと、張横ら水軍は黄河から潞城県へ向かい、索超の軍と合流して楡社県、大谷県を落とした(第99回)。

大原県城攻略戦。大谷県城攻略後、張横は李俊らとともに大原県城へ向かい、盧俊義軍に協力して、太原県城を陥れた(第100回)。

王慶討伐戦始まる。

山南城攻略戦。張横ら水軍は山南城外の河川に兵糧船を浮かべ、わざと本隊から逃げ遅れたように見せかけた。この兵糧船を敵将・段二が奪おうとしたのに乗じて、船体内に隠れていた李逵、魯智深らと協力して山南城を奪った(第106回)。

朝廷の待遇が気に入らず、クーデターを画策する。宋軍は王慶討伐戦後に東京に凱旋するが、朝廷からは大した褒美が与えられなかった。これに腹を立てた張横たち水軍頭領は李俊に率いられて呉用に会い、反乱を起こして梁山泊へ帰ろうと訴えた(第110回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州城攻略戦。宋軍は敵城に糧秣を納入する兵糧船を装って潤州城に侵入する作戦をとる。張横は張順とともに第二団の船を率いて敵城を襲った(第111回)。

潤州攻略後、宋軍は陸路の兵を二隊に分けるが、張横はこれには加わらず、ほかの水軍頭領たちとともに揚子江下流沿岸の都市の攻撃に向かった(第112回)。のちに蘇州城にいる宋江軍と合流した(第113回)。

杭州城攻略戦。張横は阮小七らとともに杭州城南の揚子江に配備された(第114回)。
 張横はこの戦いの最中に自分でも知らない間に杭州城から逃げてきた敵の大将・方天定の首を取ると、馬に乗り、杭州城へ行ってその首を宋江に差し出した。このとき張横はいった。「わたしは張横ではなく張順です。わたしは杭州城の水門外で敵の矢を受けて死にましたが、わたしの魂はずっと戦いの様子を見ていたのです。今回、宋江兄貴が杭州城を落とし、敵の大将・方天定が逃げ出したので、わたしはそれを追いかけました。すると、揚子江に兄の張横がいるのを見つけたので、兄の身体を借りて方天定の前に飛び出し、その首を取ってここに駆けつけたのです」。それから張横はばったりと倒れた。少しして正気に返った張横は一体何が起こったのか皆から知らされ、弟の張順が死んだことを知ると大いに嘆いた。

杭州城で病死する。宋軍が杭州城に滞在中、城内に疫病が流行した(第116回)。これに冒された張横は宋軍を離脱し、杭州城に留まったが、病が回復しないまま病死した(第119回)。
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イオの末裔
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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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