梁山泊入山後の活躍
◆水軍を率いて大暴れした阮小二 |
政和5年 |
入山後間もなく晁蓋一味を捕らえるために済州の兵が四五百の船で梁山泊に攻め寄せる。阮氏三兄弟はそれぞれ船を操って敵船団を狭い入江に誘い込み、陸からの攻撃をしやすくする働きをした(第20回)。 |
政和7年 |
7月、江州で処刑されそうになった宋江と戴宗を好漢たちが救出する。阮氏三兄弟は乞食の扮装をして江州にもぐり込み、処刑場のそばで大暴れした(第40回)。 |
政和8年 |
1月ころ、祝家荘戦争が起こる。阮氏三兄弟は呉用らとともに本寨の守備を担当した(第47回)。
春、梁山泊の第二回職務分担が決まり、阮氏三兄弟は山の南の水寨の守備を担当する(第51回)。
冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍と戦う。最初の戦いで、阮氏三兄弟は李俊らとともに水軍として陸軍の応援にあたり、砲撃の名手・凌振を生け捕りにした(第55回)。二度目の戦いでは、阮氏三兄弟は水軍を率いて戦う(第57回)。 |
宣和元年 |
4月、曽頭市との第一回目の戦争が起こる。晁蓋が二十名の頭領を引き連れて曽頭市を攻め、そのうち十名の頭領が城内にまで攻め込んだが、阮氏三兄弟もこれに選ばれた(第60回)。
5月ころ、盧俊義勧誘作戦が実行される。阮氏三兄弟も盧俊義を生け捕りにする作戦に加わる(第61回)。
秋、関勝率いる梁山泊討伐軍と戦う。敵将・関勝を生け捕りにしようとして張横が自分勝手に行動し、敵に捕らえられる。張順から事態を聞かされた阮氏三兄弟は宋江からの命令を待たずに張順とともに張横の救出に出かけたが失敗し、阮小七も敵の捕虜になる。捕まった二人は間もなく李応によって救出された(第64回)。 |
宣和2年 |
3月、東平府・東昌府攻撃軍が編成され、阮氏三兄弟は宋江麾下の軍に編入され、東平府を攻める(第69回)。
東平府攻略後、宋江軍は盧俊義軍の応援に東昌府へ向かい、阮氏三兄弟はほかの水軍たちと協力して敵将・張清を生け捕りにした(第70回)。 |
宣和3年 |
秋、高俅率いる朝廷軍の梁山泊攻撃が始まる。阮氏三兄弟は張横とともに敵水軍の将・党世雄を生け捕りにした(第78回)。
11月、高俅が大小の海鰍船三百隻で攻め寄せる。この戦いでは水軍のメンバーが主力となって戦い、阮氏三兄弟は敵将・李従吉を生け捕りにした(第80回)。 |
宣和4年 |
2月、梁山泊が正式に朝廷に帰順する。
3月、阮氏三兄弟は宋江、呉用らとともに梁山泊に戻り山寨の解体作業に従事する。
4月ころ、遼国戦争が始まり、阮氏三兄弟は宋軍の正将として出征する。
檀州城攻略戦。阮氏三兄弟は李俊らとともに敵戦船を撃破し、城の水門を奪う(第83回)。
檀州攻略後、宋軍は兵を二隊に分けて進軍するが、阮氏三兄弟は守備隊となり、檀州城に残った(第84回)。
宋江軍の幽州城攻略後、阮氏三兄弟は本隊と合流する(第87回)。
昌平県境での最終決戦。阮氏三兄弟ら水軍は主力軍の援護を担当した(第89回)。
田虎討伐戦始まる。
宋軍が衛州から蓋州へ向かうときに、阮氏三兄弟ら水軍は衛州城の守備を担当した(第91回)。 |
(宣和5年) |
宋軍の一隊が潞城を落とすと、阮氏三兄弟ら水軍は黄河から潞城県へ向かい、索超の軍と合流して楡社県、大谷県を落とした(第99回)。
大原県城攻略戦。阮氏三兄弟ら水軍は盧俊義軍の応援に大原県へ向かい、大雨で水量の増した河川を決壊させて大原県城を水攻めで落とす活躍をした(第100回)。
王慶討伐戦始まる。
山南城攻略戦。阮氏三兄弟ら水軍は山南城外の河川に兵糧船を浮かべ、わざと本隊から逃げ遅れたように見せかけた。この兵糧船を敵将・段二が奪おうとしたのに乗じて、船体内に隠れていた李逵、魯智深らと協力して山南城を奪った(第106回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
杭州城攻略戦。阮小七は張横らとともに杭州城南の揚子江に配備され、阮小二、阮小五らは西方の湖に配備された(第114回)。杭州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、阮氏三兄弟は宋江麾下の軍に加わり、睦州へ向かった(第116回)。
睦州烏竜嶺の戦い。阮小二は童威、童猛らとともに千の水軍兵を率いて烏竜嶺の麓の水寨に向かったが、水寨の近くまで来たとき、敵が火筏(ひいかだ)を使った攻撃を始め、別な船に乗った敵兵たちが次々と撓鈎をのばしてきた。阮小二は慌てて水に飛び込んだが撓鈎の一本に引っかけられると捕らえられて辱めを受けるのに耐えられず、自ら首を切った(第116回)。 |