梁山泊入山後の活躍
◆戦闘には参加しないが俊足だけで大活躍する |
政和7年 |
入山直後、宋江が老父と弟を梁山泊に迎えるため、たった一人で故郷に帰る。このとき、戴宗は神行法を使って宋江の様子を探りに出かけ、故郷に戻った宋江が役人に追われて危機に陥っていることを梁山泊に知らせた(第42回)。
9月ころ、故郷に帰ったまま戻ってこない公孫勝を捜しに、公孫勝の故郷・薊州へ向かう。この途中、楊林と出会った戴宗は二人で神行法を使って旅を続け、鄧飛、孟康、裴宣と出会って彼らを梁山泊入りさせ、薊州では石秀に出会って梁山泊に誘った。が、このときは公孫勝を見つけることはできなかった(第44回)。 |
政和8年 |
1月ころ、祝家荘との戦争に参加する(第47回)。戦後は李家荘の李応と杜興を梁山泊入りさせるため、蕭譲、楊林たちと一緒に役人に変装して李家荘を訪ね、逮捕すると見せかけて無理矢理に李応と杜興を連れだした(第50回)。
秋、柴進が高唐州で捕らえられるという事件が起こり、戴宗がこの事件の第一報を梁山泊に届ける。梁山泊ではすぐにも高唐州攻撃軍を編成し、戴宗もこれに加わった(第52回)。しかし、高廉に対抗するにはどうしても公孫勝の力が必要だという呉用の考えで、戴宗と李逵が公孫勝を捜しに薊州に向かった(第53回)。
李逵は旅の途中は精進酒と精進料理だけしか口にしないと誓って旅に出たが、最初の日から約束を破り、戴宗の目を盗んで牛肉と酒を口にした。それを隠れて見ていた戴宗は、翌朝には李逵の脚と自分の脚にそれぞれ四枚ずつの甲馬を貼り付け、一日八百里の神行法を使ったが、歩き出したら最後、李逵が絶対に止まれないように術をかけた。はじめて神行法で歩く李逵はびゅんびゅんと風を切る速さに驚き慌てて止まろうとするが止まれず、「助けて、助けて」と叫んだ。これを見た戴宗は面白がって「はっきりいっておくが、俺の神行法には牛肉が一番よくないんだ。もしも牛肉なんか食ったら、十万里走らないと止まらないのだ」と脅した。李逵が昨日のことを白状し、もう二度と戴宗の言いつけにそむかないと誓ったので、戴宗は李逵を許し、それからは甲馬二枚の速さで歩いた。やがて薊州に着いた二人はそこで偶然にも九宮県二仙山の麓からきたという老人に会い、公孫勝の家がその老人の家の隣にあることを聞き出すとすぐにも公孫勝を訪ねた。このとき、公孫勝は師匠の羅真人が許してくれないという理由で梁山泊に戻ることを拒んだが、戴宗と李逵は羅真人に会い、いろいろと苦心して説得し、ついにその許可を手に入れた(第53回)。
冬、鈎鎌鎗の名手・徐寧をおびき出して梁山泊の仲間に加えるため、時遷が東京にある徐寧の家から家宝のヨロイを盗み出し、戴宗がそれを梁山泊に運んだ(第56回)。
呼延灼率いる朝廷軍との二回目の戦いで、戴宗は宋江や呉用のいる中軍に加わり、全軍に号令を伝えた(第57回)。 |
宣和元年 |
2月頃、史進を梁山泊の仲間に加えるために魯智深と武松が少華山へ向かうと、呉用の命令で戴宗はその様子を探りに出かけ、史進と魯智深が華州に捕らえられてしまったことを梁山泊に報告した(第58回)。
秋頃、盧俊義が北京で死刑囚として逮捕される。戴宗は柴進とともに北京を訪れ、牢役人の蔡福と蔡京に会い、盧俊義の命を助けるために働いてくれるよう依頼した(第62回)。
石秀までが北京に捕らえられ、二人を救出するために北京攻撃軍が編成される。戴宗は情報偵察の頭領としてこれに加わった(第63回)。この戦いの最中、蔡京太師の命を受けた関勝が一隊を率いて梁山泊の山寨を攻めにきたが、このとき梁山泊に戻っていた戴宗がこの事態を北京に出征していた梁山泊軍に報告した(第64回)。
冬、張順が建康府に住む医師の安道全を迎えに行く。戴宗はその後を追い、安道全を連れて建康府を出たばかりの張順に出会うと、安道全の脚に甲馬を貼り、神行法を使って梁山泊へ連れ帰った(第65回)。 |
宣和2年 |
春、二度目の曽頭市攻撃軍が編成される。戴宗は中軍に入ると宋江や呉用に同行した(第68回)。 |
宣和3年 |
夏、童貫率いる朝廷軍との戦い。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、戴宗は中軍に位置して軍情の報告や命令の伝達を担当した(第76回)。
童貫軍を打ち破ったあと、戴宗は劉唐とともに東京の様子を探りに出かけ、太尉高俅が十三万の兵を率いて梁山泊討伐に乗り出すという情報を梁山泊にもたらした(第78回)。
12月ころ、梁山泊に敗れた高俅が、梁山泊が朝廷に帰順できるように皇帝に働きかけると約束し、蕭譲と楽和を連れて東京に戻る。戴宗は燕青とともにことの成りゆきを探るために後から東京へ向かい、高俅の自宅に軟禁されていた蕭譲と楽和を救出した(第81回)。 |
宣和4年 |
3月、梁山泊が朝廷に帰順するために全軍を率いて東京に向かうことになり、戴宗と燕青がまず東京に派遣され、宿太尉にその旨を報告した(第82回)。
4月ころ、遼国戦争が始まり、戴宗は宋軍の正将として出征する。
檀州攻略後に宋軍は進軍する兵を二隊に分け、戴宗は宋江麾下の軍に加わる(第84回)。
薊州攻略後、宋江と公孫勝が二仙山に住む羅真人に会いに行くことになり、戴宗は花栄らとともに護衛として同行した(第85回)。
遼国戦争に勝利して宋軍が東京に凱旋したとき、戴宗は石秀と一緒に陣営の周囲をぶらぶらし、ある居酒屋で衛州からやって来た役人に出会った。このとき、この役人から河北地方で田虎が謀反を起こし大変なことになっているという話を聞き、これを宋江に伝えたことから田虎討伐戦が始まる(第91回)。 |
(宣和5年) |
蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、戴宗は宋江麾下の軍に編入された(第93回)。
昭徳城攻略後、戴宗は宋江の命令で晋寧州に派遣され、盧俊義の軍が晋寧城を落としたことを報告した。その後すぐに東京に派遣され、宋軍が衛州、晋寧、昭徳、蓋州、陵川、高平を落としたことを宿大尉に報告し、再び昭徳城に戻った(第97回)。
敵将・馬霊から一日に千里を行く神行法を伝授される。
盧俊義の軍が汾陽府を取ったころ、戴宗は宋江の命令ですでに宋軍のものとなった各地をめぐって軍令書を伝え、汾陽府へ立ち寄った。このころ、妖術を使う敵将・馬霊が公孫勝の道術に敗れ、神行法を使って逃げ出した。盧俊義軍からすぐにも戴宗が神行法で追いかけたが、馬霊の方が早く、戴宗は追いつけなかった。が、まったく偶然にも行く手に現れた魯智深の手で馬霊は捕らえられ、宋軍に投降した。このとき、戴宗は馬霊から一日に千里を行く神行法を伝授された(第99回)。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
潤州攻略後に宋軍は兵を二隊に分け、戴宗は宋江麾下の軍に編入され、常州、蘇州へ向かう(第101回)。
常州城攻略後、戴宗は宣州にいた盧俊義軍の様子を探りに出かけ、盧俊義軍の使者・柴進を連れ帰った(第112回)。そのあと、湖州を攻略してからすみやかに杭州で合流すべしという宋江の軍令書を盧俊義軍へ届けた。
宋江軍が杭州で苦戦したとき、戴宗は盧俊義軍の消息を探りに派遣され、盧俊義軍が独松関を越えて間もなく杭州に到着することを報告した(第115回)。
杭州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、戴宗は宋江麾下の軍に入り、睦州へ向かった(第116回)。
戦後、兗州(えんしゅう)都統制に任命される(第119回)。しかし、戴宗は間もなく宋江を訪ね、辞令を返上して泰安州の泰山廟に仕え、静かな余生を送りたいという決意を伝え、すぐにも泰山へ行き出家の身になった。それから数カ月後、道士たちを招いて別れの挨拶をすると、笑いながら大往生した(第120回)。 |