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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
フランボワイヤン・ワールド・トップ水滸伝の豪傑たち目次
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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天速星
てんそくせい
戴宗
たいそう
梁山泊での順位 20位
持ち場 情報探索総責任者
特技 神行法(しんこうほう)
あだ名 神行太保(しんこうたいほう)
出身地・前歴 江州・牢役人
あだ名の由来
太保とは妖術師のことで、一日に八百里(約400km)も走ることができる神行法という 道術を使ったので神行太保と呼ばれた。
猛スピードで広大な大陸を駆け回った情報伝達係
 戴宗は天罡星のひとつ天速星が生まれ変わった好漢である。
 江州の牢城の牢役人の頭をしており、囚人や下っ端役人たちに恐れられていたが、それ以上に神行法という不思議な道術を使うことで知られていた。戴宗は神行法を使うことで、二枚のお札を両脚にくくりつけると、一日に五百里(約250km)、四枚のお札をくくりつけると一日に八百里(約40km)も歩くことができた。この速さは江州から東京開封府までほぼ三日で到達できるもので、情報伝達手段が人力に頼るしかない時代にあっては画期的な速さだった。梁山泊でも早急にどこか遠くに行かなければならない用事があれば、必ず戴宗が活躍した。この能力を使うためには肉食や飲酒をせずに精進する必要があったが、戴宗だけがそうしていれば、戴宗とともに旅する者にも神行法をかけることができた。ただし、戴宗と一緒に行けるのは多くても一人だけだったようで、それより多い人間が神行法で旅したことはない。田虎討伐戦には神行法で一日に千里走れる馬霊という妖術使いが登場するが、戴宗はのちに寝返った馬霊からその術を学び、同じ速さで走れるようになった。
戴宗の物語
◆江州牢城に送られてきた宋江を恐喝する

 戴宗は江州で牢役人の頭をしていた。このころ、牢城に送られたきた罪人は牢役人や看守たちに待遇をよくしてもらうために付け届けの金を渡すのが当然だった。そんなあるとき江州牢城に宋という姓の罪人が送られてきたので、戴宗はつけとどけが来るのを待っていたが、十日以上たっても何の音沙汰もなかった。戴宗は腹を立て、棍棒を持って牢城に押し掛けると、「新入りの囚人はどいつだ」と怒鳴った(第38回)。このとき下っ端役人が指さした男というのが実は宋江だったが、戴宗はまだ知らなかった。戴宗は男に近づくと、「このチビの色黒野郎め、何だって決まりの金をよこさないんだ。おまえを片づけるなんて俺には簡単なことなんだぞ」とののしった。ところが、男は少しも慌てず、「賄賂を使わないのが死罪になるなら、梁山泊の強盗呉用と通じている者はいったいどうなることやら」とつぶやいた。事実、戴宗は呉用とつき合いがあったのでだったので大いに驚き、棍棒を投げ捨て男にすがりつくと小さな声で、「ど、どうしてそのことを知ってるんです。あなたはいったいどこのどなたで…」。すると男が、「山東の鄆城県の宋江です」と名乗ったので戴宗はさらにびっくりした。「なんと及時雨の宋公明さんでしたか」というやすっかり態度をあらため、すぐにも宋江を外に連れ出して料亭に入った。
 ところで、宋江は江州に送られてくる途中で梁山泊に立ち寄り、呉用から戴宗に宛てた手紙をあずかっていたので、ここでそれを戴宗に渡した。宋江は実はその手紙を戴宗に渡したかったのだが連絡する方法もないので、戴宗が自分から訪ねてくるよう仕向けるために、わざと付け届けを出さずにいたのである。
 こうして、宋江と戴宗が世間話をしながら酒を飲んでいると、階下から給仕が駆け上がってきて、「いつも院長(牢役人)さんと一緒の李兄いが下で暴れているんで何とかしてください」といってきた。戴宗は笑って席を立つと、階下にいって一人の男を連れてきた。この男が黒旋風の李逵だった。李逵は牢の下っ端役人で、このころは戴宗が世話をしていたのである。このとき李逵はうまいことをいって宋江から金を借りるとばくちに行き、そこでひと騒動起こしてしまう。しばらくして町に出た戴宗と宋江は偶然にも李逵に出会うとその騒動をさめ、一緒に別な料亭に入った。
 この料亭で酒を飲んだあと、宋江が口直しに生きのいい魚の吸物が食いたいといいだしたが、あいにく今日はまだとれたての魚が売り出されていないと店の者がいう。これを聞いた李逵はすぐそこの潯陽江に漁船がいっぱい泊まっているのだから、俺が行ってもらってこようといいだした。李逵が行ったら問題が起こると思った戴宗が止めたが、李逵は気にせず行ってしまった。戴宗は大いにあきれ、「まったくあんながさつ者を紹介してしまい、まったく申しわけない」としきりに宋江に謝った。
 それから、戴宗と宋江は世間話をしながら李逵を待ったが、李逵はなかなか戻ってこない。しばらくして心配になった戴宗と宋江が外に出てみると、案の定というか、李逵が誰かを殴りつけていた。戴宗と宋江は李逵を捕まえて連れ戻そうとしたものの、李逵に殴られていた男がすぐにも小船に乗り込み、そこから李逵にケンカをしかけてきた。腹を立てた李逵が小舟に飛び乗ると男は船を沖に出し、李逵を水の中に突き落として水中で格闘し始めた。陸では李逵にやられていた男は水の中では異様に強く、さすがの李逵も目を白黒させていた。戴宗が近くの野次馬に聞いてみると、いま李逵の相手をしている男は張順だという。張順はこのあたりの漁師の親分だったが、李逵が魚ほしさに漁師といざこざを起こしたことから、張順とケンカになったのである。これを聞いた宋江は張順の兄の張横から手紙をあずかってきたことを思い出し、戴宗に告げた。戴宗はすぐにも陸から張順に呼びかけた。戴宗はこのあたりでは有名な男で、張順も戴宗の顔だけは知っていたので、それを聞くとすぐにも喧嘩をやめ、李逵を連れて岸に上がってきた。戴宗が李逵の無礼を詫び、宋江を紹介すると張順も宋江の名を知っていたので大いに喜び、仲間に加わわることになった。

◆宋江とともに捕らえられ梁山泊に救出される

 宋江と知り合った戴宗は2日後に宋江の牢を訪ねたが、その後は宋江が体をこわしていたので数日間は会わずにいた。と、六日ほどたって、江州知府(長官)の蔡九が戴宗を呼び出し、「牢城へ行って潯陽楼(料亭)で謀反の詩を読んだ鄆城県の宋江を召し取ってまいれ」と命じた(第39回)。というのも、この日の前日、宋江は一人で潯陽楼に出かけ、酒を飲んだあとで筆と墨を借り、酔った勢いで白壁に十二句の詩を書き付けた。宋江が帰ってからたまたまここを訪れた黄文炳という退職官吏がこれを見て、宋江の詩がまるで謀反を企んでいるように読み取れるのをいいことに、すぐにも蔡九知府に訴えて出たのである。とはいえ、何も知らない戴宗は大いに慌てた。戴宗は手下の牢役人たちを呼び集め、武器を用意して自分の下宿の前に集まれと命じてから、神行法を使って牢城へ駆けつけた。「兄貴、あなたは昨日潯陽楼でどんなことを書いてきたんです」と戴宗が聞くと、宋江は酔ったあげくのことなのでまったく覚えていないという。しかし、謀反となれば死罪だから何もしないわけにはいかない。少しして戴宗は、「うまくいくかどうかわかりませんが、ひとつだけ方法があります。わたしはすぐにも捕り手の者たちとあなたを逮捕に来ますが、あなたは糞小便をそこらじゅうにまき散らし、その中でのたうち回って気が狂ったふりをしてください」といってその場を立ち去った。
 それから、町へ戻った戴宗は今度は手下の者たちを連れてあらためて牢城へやってきた。戴宗はわざとらしく、「流罪人の宋江というのはどいつだ」と叫んだ。すぐに牢番が案内したので宋江の部屋に行ってみると、宋江が糞壺の中で暴れ回りながら、わけのわからないことを叫んでいた。「こいつ、気が狂ってるぞ」と捕り手たちはいった。「そうだな。これじゃ捕まえてもしかたがない」と戴宗はいい、役所に戻って蔡九知府にその通りのことを報告した。
 ところが、このとき蔡九知府のそばに黄文炳がいて、「あの詩はけっして狂人が書いたものではありません。おそらく狂人を装っているのでしょうから、何があっても捕まえてくるべきです」といいだしたので、戴宗の作戦は失敗に終わった。戴宗はあらためて宋江を捕まえてくるように命じられると手下を連れて牢城へいき、「兄貴、うまくいきませんでした」と事情を説明してから宋江を大きな竹篭に入れ、役所に運び込んだ。宋江は役所にきてからも狂人のふりをしていたが、拷問にかけられるとすべてを白状し、ついに死刑囚の牢に入れられてしまった。
 こうなってしまうと戴宗には差し入れをすることくらいしかできないが、この間にも蔡九知府は黄文炳と話し合い、謀反人・宋江をどのように処分すべきか蔡九知府の父である東京の蔡京太師に手紙で伺いをたてることに決めた。蔡九は戴宗を呼びだし、財宝を入れた飛脚駕篭と手紙を渡し、「6月15日が父の誕生日なので、その祝いの品だ。日数も少ないので急いでいって返事をもらってきてくれ」と嘘をついて命令を与えた。戴宗は宋江を残していくのは心配だったが、とにかく宋江の面倒は李逵に任せて出発した。
 江州を出た戴宗はとんでもない速さで一日中歩き、二日目も朝早くに宿を出て歩き続けた。暑い盛りだったので昼頃には腹も減り、のども渇いてきた。と、ちょうどいい具合に料理屋があった。戴宗は店に入るとすぐにも少しの酒と豆腐を食ったが、これから飯を食おうと思ったとたん頭がくらくらして気を失ってしまった。この料理屋というのが実は梁山泊のほとりで朱貴が営んでいた居酒屋で、戴宗はまんまとしびれ薬を飲まされたのである。ここに朱貴が出てきて戴宗の身体を調べ、蔡九知府から蔡京太師に宛てた手紙を見つけたが、そこには「謀反の詩を詠んだ山東の宋江をどのように処罰すべきでしょうか」と書かれてあった。宋江は梁山泊の頭領晁蓋の命の恩人でもあり、好漢たちの誰もが慕っている人物だったので、朱貴は唖然としてさらに戴宗を調べた。と、戴宗の名前と身分が書かれた漆塗りのお札が見つかった。朱貴は戴宗が梁山泊の軍師呉用の知り合いだということは知っていたので、子分に命じて戴宗にさまし薬を飲ませた。戴宗はすぐにも目を覚ますと朱貴を見て、「よくもしびれ薬など盛りやがったな」と怒鳴りつけた。朱貴の方は少しも驚かず、自分は梁山泊の朱貴だと名乗った上で、戴宗に蔡九知府の手紙を突きつけた。それを見た戴宗は、それが誕生祝いの手紙だと思っていただけに大いに驚いた。そして、江州牢城で宋江と出会ってからのいきさつを細かく朱貴に説明した。「それなら梁山泊の山寨へいき、頭領たちと一緒に宋江どのを救う方法を考えたらどうでしょう」と朱貴がいい、すぐにも戴宗を船に乗せ、梁山泊の山寨へ案内した。
 山寨へ着いた戴宗は頭領たちと挨拶し、すぐにも宋江救出について話し合ったが、このとき呉用が自分に一計があるといいだした。それは、蔡京太師の手紙を偽造し、宋江を東京に護送するように偽の命令を下し、その途中で宋江を奪ってしまおうというものだった。ただし、この作戦を実行するには誰の書体でも真似ができる聖手書生の蕭譲と印鑑を彫る名人として知られる玉臂匠の金大堅という二人の好漢を味方にする必要があるという。この二人を誘い出す役目が戴宗に与えられた。
 翌日、戴宗は山伏に変装し、朝のうちに神行法を使って二人の住む済州へ向かった。すぐに済州に着いた戴宗はまず蕭譲の家を訪ね、「わたしは泰安州の嶽廟に仕える者ですが、新しく碑を建てることになり、その文章を作っていただくためにお迎えにまいりました。あなたのために銀子五十両を用意してあります」と嘘をついた。さらに戴宗は蕭譲とともに金大堅の家を訪ね、同じような嘘で誘い、翌日の朝早く3人で済州を旅立った。それから間もなく戴宗は、「お迎えの準備のためにわたしは先に行っています」といって二人を残してさっさと行ってしまったが、これも作戦のうちで、しばらくすると梁山泊の王英、宋万、杜遷たちが蕭譲と金大堅の前に現れ、ほとんど誘拐するようにして二人を梁山泊へと連れ去った。
 こうして、この二人の協力のおかげで蔡京太師の手紙が偽造されると、戴宗はそれを持って何食わぬ顔で江州の蔡九知府のもとに戻っていった。
 返書を受け取った蔡九知府はそれが偽造されたものとは気づかずに大いに喜んだ(第40回)。戴宗は安心し、牢を訪ねて宋江にことの次第を報告した。ところが、今度もまた黄文炳が現れ、それが偽造だと見破ってしまった。父親が子供に手紙を出すのに使うはずのない本名の印鑑が手紙に使われているのを黄文炳は見つけたのだ。実は、手紙の作成を命じた呉用自身もすぐにそのことに気がついたが、すでに戴宗が出かけた後だったのでどうすることもできなかった。偽造に気づいた黄文炳は、すぐにも戴宗を取り調べるように蔡九知府に進言した。蔡九知府に呼び出された戴宗はその場で取り押さえられ、拷問を受け、梁山泊と結託して謀反を企てたという罪で牢に入れられた。蔡九知府は黄文炳と相談して宋江と戴宗を処刑しようとしたが、戴宗と親しかった役人が先帝の命日だとか皇帝の誕生日だとかいろいろな理由を考え出したので、結局六日目の昼に二人は処刑されることになった。
 その日、宋江と戴宗は五六十人の獄卒に押し立てられて仕置場の四つ辻に向かった。他に護衛の兵士が五百名、野次馬は二千人以上いた。二人はむしろに座らせられ、午後一時の処刑を待った。と、午後一時を前にして、仕置き場のまわりに一群の乞食とか槍棒使い、旅商人のような者たちが姿を現し、役人たちともみ合いを始めた。そして、午後一時、首切り役人が刀に手をかけたときどこかで銅鑼が打ち鳴らされると、仕置場の周囲からどっと一群の人々がなだれ込んできた。手紙の失敗に気づいた梁山泊の好漢たちが、手はずを整えて、宋江と戴宗を救出にきたのだった。この時点では梁山泊と関係のなかった李逵もそこに混ざっており、二本の斧を振り回して、ものすごい勢いで人を斬りまくっていた。宋江と戴宗は梁山泊の手下に背負われ、李逵のあとを追うようにその場から逃げ出した。間もなく戴宗と宋江は李逵や梁山泊の好漢たちとともに城外の大河に臨んだ大きな廟に逃げ込んだ。このとき大河の上を数艘の船が近づいてきた。それは宋江が掲揚嶺で知り合った李俊、李立、童威、童猛、張横、穆弘、穆春、薛永らで数十人の手下を率いて宋江を救出しに来たのである。戴宗と宋江は梁山泊の好漢たちとともにその船に分乗し、ひとまず穆弘の屋敷へと逃げ延びた(第41回)。この後、戴宗は梁山泊の好漢たちとともに自分たちを大いに苦しめた黄文炳の屋敷のある町・無為軍を襲い、黄文炳に復讐を遂げ、宋江、李逵、李俊などと一緒に梁山泊入りした。
梁山泊入山後の活躍
◆戦闘には参加しないが俊足だけで大活躍する
政和7年 入山直後、宋江が老父と弟を梁山泊に迎えるため、たった一人で故郷に帰る。このとき、戴宗は神行法を使って宋江の様子を探りに出かけ、故郷に戻った宋江が役人に追われて危機に陥っていることを梁山泊に知らせた(第42回)。

9月ころ、故郷に帰ったまま戻ってこない公孫勝を捜しに、公孫勝の故郷・薊州へ向かう。この途中、楊林と出会った戴宗は二人で神行法を使って旅を続け、鄧飛、孟康、裴宣と出会って彼らを梁山泊入りさせ、薊州では石秀に出会って梁山泊に誘った。が、このときは公孫勝を見つけることはできなかった(第44回)。
政和8年 1月ころ、祝家荘との戦争に参加する(第47回)。戦後は李家荘の李応と杜興を梁山泊入りさせるため、蕭譲、楊林たちと一緒に役人に変装して李家荘を訪ね、逮捕すると見せかけて無理矢理に李応と杜興を連れだした(第50回)。

秋、柴進が高唐州で捕らえられるという事件が起こり、戴宗がこの事件の第一報を梁山泊に届ける。梁山泊ではすぐにも高唐州攻撃軍を編成し、戴宗もこれに加わった(第52回)。しかし、高廉に対抗するにはどうしても公孫勝の力が必要だという呉用の考えで、戴宗と李逵が公孫勝を捜しに薊州に向かった(第53回)。
 李逵は旅の途中は精進酒と精進料理だけしか口にしないと誓って旅に出たが、最初の日から約束を破り、戴宗の目を盗んで牛肉と酒を口にした。それを隠れて見ていた戴宗は、翌朝には李逵の脚と自分の脚にそれぞれ四枚ずつの甲馬を貼り付け、一日八百里の神行法を使ったが、歩き出したら最後、李逵が絶対に止まれないように術をかけた。はじめて神行法で歩く李逵はびゅんびゅんと風を切る速さに驚き慌てて止まろうとするが止まれず、「助けて、助けて」と叫んだ。これを見た戴宗は面白がって「はっきりいっておくが、俺の神行法には牛肉が一番よくないんだ。もしも牛肉なんか食ったら、十万里走らないと止まらないのだ」と脅した。李逵が昨日のことを白状し、もう二度と戴宗の言いつけにそむかないと誓ったので、戴宗は李逵を許し、それからは甲馬二枚の速さで歩いた。やがて薊州に着いた二人はそこで偶然にも九宮県二仙山の麓からきたという老人に会い、公孫勝の家がその老人の家の隣にあることを聞き出すとすぐにも公孫勝を訪ねた。このとき、公孫勝は師匠の羅真人が許してくれないという理由で梁山泊に戻ることを拒んだが、戴宗と李逵は羅真人に会い、いろいろと苦心して説得し、ついにその許可を手に入れた(第53回)。

冬、鈎鎌鎗の名手・徐寧をおびき出して梁山泊の仲間に加えるため、時遷が東京にある徐寧の家から家宝のヨロイを盗み出し、戴宗がそれを梁山泊に運んだ(第56回)。

呼延灼率いる朝廷軍との二回目の戦いで、戴宗は宋江や呉用のいる中軍に加わり、全軍に号令を伝えた(第57回)。
宣和元年 2月頃、史進を梁山泊の仲間に加えるために魯智深と武松が少華山へ向かうと、呉用の命令で戴宗はその様子を探りに出かけ、史進と魯智深が華州に捕らえられてしまったことを梁山泊に報告した(第58回)。

秋頃、盧俊義が北京で死刑囚として逮捕される。戴宗は柴進とともに北京を訪れ、牢役人の蔡福と蔡京に会い、盧俊義の命を助けるために働いてくれるよう依頼した(第62回)。

石秀までが北京に捕らえられ、二人を救出するために北京攻撃軍が編成される。戴宗は情報偵察の頭領としてこれに加わった(第63回)。この戦いの最中、蔡京太師の命を受けた関勝が一隊を率いて梁山泊の山寨を攻めにきたが、このとき梁山泊に戻っていた戴宗がこの事態を北京に出征していた梁山泊軍に報告した(第64回)。

冬、張順が建康府に住む医師の安道全を迎えに行く。戴宗はその後を追い、安道全を連れて建康府を出たばかりの張順に出会うと、安道全の脚に甲馬を貼り、神行法を使って梁山泊へ連れ帰った(第65回)。
宣和2年 春、二度目の曽頭市攻撃軍が編成される。戴宗は中軍に入ると宋江や呉用に同行した(第68回)。
宣和3年 夏、童貫率いる朝廷軍との戦い。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、戴宗は中軍に位置して軍情の報告や命令の伝達を担当した(第76回)。

童貫軍を打ち破ったあと、戴宗は劉唐とともに東京の様子を探りに出かけ、太尉高俅が十三万の兵を率いて梁山泊討伐に乗り出すという情報を梁山泊にもたらした(第78回)。

12月ころ、梁山泊に敗れた高俅が、梁山泊が朝廷に帰順できるように皇帝に働きかけると約束し、蕭譲と楽和を連れて東京に戻る。戴宗は燕青とともにことの成りゆきを探るために後から東京へ向かい、高俅の自宅に軟禁されていた蕭譲と楽和を救出した(第81回)。
宣和4年 3月、梁山泊が朝廷に帰順するために全軍を率いて東京に向かうことになり、戴宗と燕青がまず東京に派遣され、宿太尉にその旨を報告した(第82回)。

4月ころ、遼国戦争が始まり、戴宗は宋軍の正将として出征する。

檀州攻略後に宋軍は進軍する兵を二隊に分け、戴宗は宋江麾下の軍に加わる(第84回)。

薊州攻略後、宋江と公孫勝が二仙山に住む羅真人に会いに行くことになり、戴宗は花栄らとともに護衛として同行した(第85回)。

遼国戦争に勝利して宋軍が東京に凱旋したとき、戴宗は石秀と一緒に陣営の周囲をぶらぶらし、ある居酒屋で衛州からやって来た役人に出会った。このとき、この役人から河北地方で田虎が謀反を起こし大変なことになっているという話を聞き、これを宋江に伝えたことから田虎討伐戦が始まる(第91回)。
(宣和5年) 蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、戴宗は宋江麾下の軍に編入された(第93回)。

昭徳城攻略後、戴宗は宋江の命令で晋寧州に派遣され、盧俊義の軍が晋寧城を落としたことを報告した。その後すぐに東京に派遣され、宋軍が衛州、晋寧、昭徳、蓋州、陵川、高平を落としたことを宿大尉に報告し、再び昭徳城に戻った(第97回)。

敵将・馬霊から一日に千里を行く神行法を伝授される。
 盧俊義の軍が汾陽府を取ったころ、戴宗は宋江の命令ですでに宋軍のものとなった各地をめぐって軍令書を伝え、汾陽府へ立ち寄った。このころ、妖術を使う敵将・馬霊が公孫勝の道術に敗れ、神行法を使って逃げ出した。盧俊義軍からすぐにも戴宗が神行法で追いかけたが、馬霊の方が早く、戴宗は追いつけなかった。が、まったく偶然にも行く手に現れた魯智深の手で馬霊は捕らえられ、宋軍に投降した。このとき、戴宗は馬霊から一日に千里を行く神行法を伝授された(第99回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州攻略後に宋軍は兵を二隊に分け、戴宗は宋江麾下の軍に編入され、常州、蘇州へ向かう(第101回)。

常州城攻略後、戴宗は宣州にいた盧俊義軍の様子を探りに出かけ、盧俊義軍の使者・柴進を連れ帰った(第112回)。そのあと、湖州を攻略してからすみやかに杭州で合流すべしという宋江の軍令書を盧俊義軍へ届けた。

宋江軍が杭州で苦戦したとき、戴宗は盧俊義軍の消息を探りに派遣され、盧俊義軍が独松関を越えて間もなく杭州に到着することを報告した(第115回)。

杭州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、戴宗は宋江麾下の軍に入り、睦州へ向かった(第116回)。

戦後、兗州(えんしゅう)都統制に任命される(第119回)。しかし、戴宗は間もなく宋江を訪ね、辞令を返上して泰安州の泰山廟に仕え、静かな余生を送りたいという決意を伝え、すぐにも泰山へ行き出家の身になった。それから数カ月後、道士たちを招いて別れの挨拶をすると、笑いながら大往生した(第120回)。
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