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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
地佐星
ちさせい
呂方
りょほう
梁山泊での順位 第54位
持ち場 中軍司令部護衛の騎兵軍驍将
特技 方天戟
あだ名 小温侯(しょうおんこう)
出身地・前歴 潭州・青州対影山の山賊の頭領
あだ名の由来
小温侯の温侯とは後漢末の猛将呂布のこと。呂布は弓・馬・方天戟の名手で温侯に封ぜられた。呂方はこの呂布の人柄に傾倒して方天戟を学んだので小温侯と呼ばれた。
小者だが若々しく誇り高い山賊の頭領
 呂方は地煞星のひとつ地佐星が生まれ変わった好漢である。
 もとは潭州生まれの生薬商人で、昔から呂布の人柄に傾倒して方天戟を学んでいた。が、山東で元手を失ってしまい、青州にある対影山で山賊の頭領になった。やはり方天戟を使う賽仁貴の郭盛と一騎打ちの勝負をしているときに宋江と出会い、郭盛と一緒に梁山泊入りした。梁山泊でも呂方は郭盛と一緒に行動することが多かった。二人とも若く颯爽としていたので、中軍にいて宋江や呉用を守護する仕事はうってつけだったと思える。
呂方の物語
◆郭盛と対戦中に宋江と出会いあっさり梁山泊入り

 呂方は対影山の山賊の頭領で、配下の者が100人ほどいた。ある年の春、賽仁貴の郭盛という強盗の親分がやはり100人ほどの子分を率いてやってきた。郭盛が山を乗っ取ろうとしていると思った呂方は山をひとつずつ分け合おうと提案したが、方天戟の腕くらべをしたいと考えていた郭盛は納得しなかった。そこで、それぞれの子分たちが見守る中で、呂方は真っ赤な装束、郭盛は真っ白な装束を着て、一騎打ちの腕くらべが始まった。しかし、ともに若い二人の腕はまったく互角だったため、一日一回対戦したのに、十何日たっても勝負がつかなかった。
 次の日も呂方は真っ赤な装束で現れると、「今日こそはっきり勝負をつけよう」と大声でいった(第35回)。郭盛も真っ白な装束で現れ、二人はすぐに戦い始めた。が、いくら打ち合っても勝負はつかず、そのうちに二人の方天戟の先端に取り付けてあった飾りのひもが絡み合い、解けなくなってしまった。と、このとき突然、どこからか一本の矢が飛んできて絡み合ったひもが断ち切られた。
 びっくりした二人はすぐにも馬を飛ばして矢を射たとおぼしき者の前に駆けつけて名を尋ねた。その人物というのが小李広の花栄で隣には宋江もいた。宋江と花栄は清風山の山賊たちと梁山泊に向かう途中で偶然にも呂方と郭盛の戦いに出くわし、ひもがもつれたのを見た花栄がそれを射たのである。
 目の前にいるのが宋江だと知った呂方と郭盛は戦いを忘れ、それぞれの寨に宋江を招いて歓迎した。そして、宋江に誘われると大いに喜び、呂方と郭盛はさっきまで争っていたことも忘れて一緒に梁山泊入りした。
梁山泊入山後の活躍
◆宋江や呉用を護衛する近衛兵的働きをする
政和7年 7月、謀反の罪に陥れられた宋江と戴宗が江州で処刑されそうになり、梁山泊の好漢たちが救出する。呂方は旅商人の恰好で江州に侵入し、処刑場のそばで暴れた(第40回)。また、宋江を謀反の罪に陥れた黄文炳への復讐戦にも参加した(第41回)。
政和8年 1月ころ、祝家荘戦争が起こる。呂方は出征せずに、郭盛たちと一緒に梁山泊本寨の守備を担当した(第47回)。

8月ころ、高唐州で捕らえられた柴進を救出するために高唐州攻撃軍が編成され、呂方は先鋒の1人となる(第52回)。

冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍との二度の戦いに参加する。2度目の戦いでは、呂方は郭盛とともに宋江や呉用のいる中軍で働いた(第57回)。

青州で捕らえられた孔明を救出するための攻撃軍に参加する。この戦いの最中に呼延灼が梁山泊の仲間になると、呂方を含む十人の頭領が兵士の身なりをして呼延灼とともに青州城に赴き、敵をだまして城門を開けさせ、城外の本隊と呼応して攻撃を開始し、無事に孔明を救出した(第58回)。
宣和元年 2月、芒碭山の山賊・樊瑞、項充、李袞を退治するため、呂方は宋江に率いられ、第一陣として出発した史進たちの援護に向かう(第59回)。

7月ころ、盧俊義が北京で捕らえられ、北京攻撃軍が編成される。呂方は郭盛らと一緒に中軍を守る役目に就く(第63回)。この戦いの最中、宋江が敵将索超の戦いを見ようと高みに登ったときは呂方と郭盛がこれを護衛した(第64回)。
宣和2年 春、第二回目の曽頭市攻撃軍が編成され、呂方は曽頭市の本陣を攻める副将となった(第68回)。この戦いの最中に、敵将・曽塗が出てくると、中軍にいた宋江が戦いを見るために前軍に出ていこうとしたので、呂方と郭盛がそれを護衛した。曽塗の姿を見た宋江が「だれかあいつをひっとらえろ」と叫ぶと、呂方はすぐに方天戟を持って馬を走らせたが、腕は敵の方が上だった。ここに郭盛が馬を走らせて援護に来たので、呂方は郭盛とともに曽塗を挟み撃ちにした。が、郭盛と呂方が同時に戟を振り上げたとき、二人の戟の飾りが絡み付いて離れなくなった。ここぞとばかり、曽塗は呂方を槍で突こうとしたが、このとき一本の矢が曽塗の左腕に当たり、曽塗は落馬した。三人の戦いを見ていた花栄が、味方の危機を感じて弓を放ったのである。これを見た、呂方と郭盛は絡み合ったままの戟を一度に突き出し、曽塗を討ち取った。◎3月、東平府・東昌府攻撃で、呂方は宋江麾下の軍に加わり、東平府を攻撃した(第69回)。
宣和3年 4月、朝廷から梁山泊招安の詔書を持った最初の使者が梁山泊を訪れる。呂方は蕭譲の随員としてこれを迎えに出かけた(第75回)。このとき、主の宋江が直接迎えに来なかったことを使者が責めたので、呂方たちは「こんなことははじめてなのでどうすればよいかわからなかったのです」と頭を下げた。別な使者が「招安がうまく行かなくても、おれたちには別にどうということはないんだ」というと、呂方と郭盛は腹を立て、「何をいうか。馬鹿にするんじゃないぞ」と言い返したが、蕭譲が頭を下げたので使者は怒りを治めた。

夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、呂方は中央の陣を守る将として出陣した(第76回)。
宣和4年 2月ころ、梁山泊は正式に朝廷に帰順する。

4月ころ、遼国戦争が始まり、呂方は宋軍の副将として出征する。

檀州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、呂方は宋江麾下の軍に加わる(第84回)。

薊州攻略後、宋江が公孫勝の師匠の羅真人に会いたいといいだし、呂方ら六名の将が宋江、公孫勝と一緒に二仙山への旅に出た(第85回)。

遼国から梁山泊を招安したいという申し出があり、宋江が遼国に寝返ったと見せる作戦が採られる。呂方たち十数名の将が宋江とともに遼国の文安県城に赴き、城を落とすのに成功する(第85回)。◎田虎討伐戦始まる。
(宣和5年) 蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、呂方は盧俊義麾下の軍に編入された(第93回)。

盧俊義軍が晋寧城を攻略すると、呂方はその地に残って城の守備にあたった(第97回)。

盧俊義軍が汾陽県城を落とすと、呂方は、今度はその地の守備にあたった(第99回)。

王慶討伐戦始まる。

宛州攻略後、呂方は花栄たちと宛州城の守備隊となる。間もなく遼国軍が攻撃して来ると、呂方は花栄、郭盛らと城外に討って出て、大いに奮戦し敵をけちらした(第106回)。

南豊州での最終決戦。宋軍は九宮八卦の陣を敷き、呂方は中軍に位置した(第109回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州攻略後、宋軍は軍を二隊に分ける。呂方は盧俊義麾下に編入され、宣州、湖州攻撃に向かった(第112回)。

杭州攻略後は宋江麾下に編入され、睦州と烏竜嶺に向かった(第116回)。

烏竜嶺の険しい場所で、呂方は敵将白欽と戦う。戦ううちに白欽の槍と呂方の戟が嶺の下に落ちてしまったので二人は馬上で取っ組み合いを始めた。が、場所が険しすぎたために馬が足を踏み外し、呂方は白欽と一緒に転落死した(第118回)。
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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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