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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
地祐星
ちゆうせい
郭盛
かくせい
梁山泊での順位 第55位
持ち場 中軍司令部護衛の騎兵軍驍将
特技 方天戟
あだ名 賽仁貴(さいじんき)
出身地・前歴 西川嘉陵・強盗団首領
あだ名の由来
賽仁貴は仁貴まさりという意味で、仁貴は戟の使い手で、太宗、高宗の時代に大活躍した唐の将軍・薛仁貴のこと。嘉陵軍の指揮官から方天戟を学び、かなりの腕前だったので賽仁貴と呼ばれた。
負けず嫌いで自信家の強盗団の若き頭領
 郭盛は地煞星のひとつ地祐星が生まれ変わった好漢である。
 もともと水銀商人だったが黄河で嵐に遭い船が転覆して商売に失敗したことから強盗団の頭領になった。年若く勝ち気な性格で、世間の噂で青州対影山の山賊・呂方が方天戟の名手だと知ると、自分とどっちが上か比べたくなってわざわざ挑戦しに出かけた。郭盛と呂方の腕前は全くの互角で一日一回勝負して十何日間も引き分けたが、それでも勝負をやめようとしなかった。二人は年齢も近く、まさに好敵手という感じで、敵同士だが似た点が多い。呂方が全身赤の装束なのに対して、郭盛が全身白の装束を着ていたことも、違っていたというより似ていたことを表しているだろう。梁山泊入山後も一緒に活躍することが多かった。
郭盛の物語
◆呂方との腕くらべが梁山泊入りのきっかけを作る

 強盗団の頭領だった郭盛は、方天戟の使い手として自信を持っていた。ある年の春、青州対影山の山賊の頭領・呂方が自分と同じ方天戟の使い手だと知るとすぐにも百人以上の手下を引き連れて挑戦しに出かけた。郭盛が山寨を乗っ取ろうとしていると考えた呂方は山を分け合おうと提案したが、郭盛は聞かず、一騎打ちが始まった。ところが、腕前はまったく互角だったので、一日一回対戦して十何日たっても勝負はつかなかった。その十何日目のこと、二人が対戦しているとそれぞれの戟の先端についていた飾りが絡み合い、離れなくなった。と、このときどこからか一本の矢が飛んできて、絡み合った飾りを断ち切った。郭盛と呂方はすぐに戦いをやめると弓を射た人物の前に馬を走らせ、「弓の名人のお名前は」と尋ねた。その人物とは実は小李広の花栄で、清風山の山賊たちと梁山泊に向かう途中だった。花栄の隣には有名な宋江もいた。郭盛も呂方も宋江の名前は知っていたので、すぐにも正式に挨拶し、一日ずつ自分たちの寨に招いて宋江や花栄たちを歓迎した。このとき宋江から梁山泊入りを勧められた郭盛と呂方は大いに感激し、争っていたことも忘れてそのまま梁山泊入りした(第35回)。
梁山泊入山後の活躍
◆呂方と一対になって宋江の近くで働く
政和7年 7月、謀反の罪に陥れられた宋江と戴宗が江州で処刑されそうになり、梁山泊の好漢たちが救出する。郭盛は旅商人の恰好で江州に侵入し、処刑場のそばで暴れた(第40回)。また、宋江を謀反の罪に陥れた黄文炳への復讐戦にも参加した(第41回)。
政和8年 1月ころ、祝家荘戦争が起こる。郭盛は出征せずに、呂方たちと一緒に梁山泊本寨の守備を担当した(第47回)。

8月ころ、高唐州で捕らえられた柴進を救出するために高唐州攻撃軍が編成され、郭盛は先鋒の1人となる(第52回)。

冬、呼延灼率いる梁山泊討伐軍との二度の戦いに参加する。2度目の戦いでは、郭盛は呂方とともに宋江や呉用のいる中軍で働いた(第57回)。

青州で捕らえられた孔明を救出するための攻撃軍に参加する。この戦いの最中に呼延灼が梁山泊の仲間になると、郭盛を含む十人の頭領が兵士の身なりをして呼延灼とともに青州城に赴き、敵をだまして城門を開けさせ、城外の本隊と呼応して攻撃を開始し、無事に孔明を救出した(第58回)。
宣和元年 2月、芒碭山の山賊・樊瑞、項充、李袞を退治するため、郭盛は宋江に率いられ、第一陣として出発した史進たちの援護に向かう(第59回)。

7月ころ、盧俊義が北京で捕らえられ、北京攻撃軍が編成される。郭盛は呂方らと一緒に中軍を守る役目に就く(第63回)。この戦いの最中、宋江が敵将索超の戦いを見ようと高みに登ったときは郭盛と呂方が護衛した(第64回)。
宣和2年 春、第二回目の曽頭市攻撃軍が編成され、郭盛は曽頭市の本陣を攻める副将となった(第68回)。この戦いの最中に、敵将・曽塗が出てくると、中軍にいた宋江が戦いを見るために前軍に出ていこうとしたので、郭盛と呂方が護衛した。曽塗の姿を見た宋江が「だれかあいつをひっとらえろ」と叫ぶと、すぐに呂方が方天戟を持って馬を走らせたが、腕は敵の方が上だった。これを見た郭盛は馬を走らせて援護に向かい、呂方とともに曽塗を挟み撃ちにした。が、郭盛と呂方が同時に戟を振り上げたとき、二人の戟の飾りが絡み付いて離れなくなった。ここぞとばかり、曽塗は呂方を槍で突こうとしたが、このとき一本の矢が曽塗の左腕に当たり、曽塗は落馬した。三人の戦いを見ていた花栄が、味方の危機を感じて弓を放ったのである。これを見た、郭盛と呂方は絡み合ったままの戟を一度に突き出し、曽塗を討ち取った。

3月、東平府・東昌府攻撃で、郭盛は宋江麾下の軍に加わり、東平府を攻撃した(第69回)。
宣和3年 4月、朝廷から梁山泊招安の詔書を持った最初の使者が梁山泊を訪れる。郭盛は蕭譲の随員としてこれを迎えに出かけた(第75回)。このとき、主の宋江が直接迎えに来なかったことを使者が責めたので、郭盛たちは「こんなことははじめてなのでどうすればよいかわからなかったのです」と頭を下げた。別な使者が「招安がうまく行かなくても、おれたちには別にどうということはないんだ」というと、郭盛と呂方は腹を立て、「何をいうか。馬鹿にするんじゃないぞ」と言い返したが、蕭譲が頭を下げたので使者は怒りを治めた。

夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、郭盛中央の陣を守る将として出陣した(第76回)。
宣和4年 2月ころ、梁山泊は正式に朝廷に帰順する。

4月ころ、遼国戦争が始まり、郭盛は宋軍の副将として出征する。

檀州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、郭盛は宋江麾下の軍に加わる(第84回)。

薊州攻略後、宋江が公孫勝の師匠の羅真人に会いたいといいだし、郭盛ら六名の将が宋江、公孫勝と一緒に二仙山への旅に出た(第85回)。

遼国から梁山泊を招安したいという申し出があり、宋江が遼国に寝返ったと見せる作戦が採られる。郭盛たち十数名の将が宋江とともに遼国の文安県城に赴き、城を落とすのに成功する(第85回)。

田虎討伐戦始まる。
(宣和5年) 蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、郭盛は盧俊義麾下の軍に編入された(第93回)。

盧俊義軍が晋寧城を攻略すると、郭盛はその地に残って城の守備にあたった(第97回)。

盧俊義軍が汾陽県城を落とすと、郭盛は今度はその地の守備にあたった(第99回)。

王慶討伐戦始まる。

宛州攻略後、郭盛は花栄たちと宛州城の守備隊となる。間もなく遼国軍が攻撃して来ると、郭盛は花栄、呂方らと城外に討って出て、大いに奮戦し敵をけちらした(第106回)。

南豊州での最終決戦。宋軍は九宮八卦の陣を敷き、郭盛は中軍に位置した(第109回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州攻略後、宋軍は軍を二隊に分ける。郭盛は盧俊義麾下に編入され、宣州、湖州攻撃に向かった(第112回)。

杭州攻略後は宋江麾下に編入され、睦州と烏竜嶺に向かった(第116回)。

烏竜嶺での戦闘中、郭盛は呂方とともに山に駆け登って嶺を奪おうとした。が、このとき敵が山頂から大きな石を転がし、郭盛はそれにあたって戦死した(第118回)。
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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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