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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
地正星
ちせいせい
裴宣
はいせん
梁山泊での順位 47位
持ち場 賞罰査定を担当する軍政司(軍規の取締役)
特技 事務処理
あだ名 鉄面孔目(てつめんこうもく)
出身地・前歴 京兆府出身・飲馬川地方の山賊の第一の頭領
あだ名の由来
もと裁判官の孔目(文書係)をつとめており、事務の能力は抜群。頭も良くて曲がったことは絶対にしない堅物なので鉄面孔目と呼ばれた。
軍隊編成に必要不可欠だった梁山泊の陰の功労者
 裴宣は地煞星のひとつ地正星が生まれ変わった好漢である。
 山賊の頭領で、武芸の腕もあり、でっぷり太っていたが、けっして無骨な人物ではなかった。もともと裁判所の仕事をしていただけに見た目は上品で色白だった。だいたい山賊のくせに事務能力に優れているというのが奇妙だが、もとの職業を考えれば納得できる。この能力のおかげで、梁山泊にまともな軍隊が編成されるようになった。梁山泊軍団にとって最初の戦争らしい戦争は祝家荘との戦いだが、裴宣はまさにその直前に入山している。その意味では戦争のために入山したようなものだから、『水滸伝』での貢献度は高かったといっていい。戦いで目立ったわけではないが、軍隊を編成し、宋軍の組織をまとめあげた影の功労者である。
裴宣の物語
◆入山直後から軍政司として才能を発揮する

 裴宣は飲馬川地方の山に山寨を構え、三百人の手下を率いる山賊の第一の頭領をしていた。もともと京兆府の裁判係の孔目をつとめていたが、意地汚い上官のためにあらぬ罪を着せられて沙門島へ流罪になった。その護送の途中、飲馬川で山賊をしていた鄧飛、孟康に救出され、第一の頭領として迎えられた。それから半年ほどしたあるとき、第二の頭領・鄧飛と第三の頭領・孟康が戴宗と楊林と偶然出会い、裴宣のもとに連れてきた(第44回)。戴宗は、故郷の老母と師匠の羅真人に会いに出たまま梁山泊に戻ってこない公孫勝を捜す旅の途中で楊林に会い、さらに鄧飛と孟康に会ったのである。裴宣は戴宗と楊林を迎え、酒宴を開いた。この席上、戴宗が梁山泊の頭領である晁蓋、宋江の美点を数え上げ、梁山泊がいかにすごいところであるかを説明すると、裴宣はすぐにも仲間に加わりたくなった。「ここにも三百人の兵力があり、蓄財もありますが、もし問題がなければ、われわれも梁山泊に入りたいのですが」と裴宣は申し出た。もとより戴宗が拒むはずはなく、「それならすぐにも荷物をまとめて出かけてください」この後、戴宗と楊林は公孫勝を捜す旅を続けたが、裴宣は戴宗の言葉どおり仲間を引き連れて梁山泊入りした。
 その直後から、裴宣は梁山泊の軍政司として働いた。しばらくして、楊雄と石秀が梁山泊を頼ってくるが、この二人が祝家荘で問題を起こしただけでなく、勝手に梁山泊の名をかたったことを知った晁蓋は二人の首を切れと命じる。幸いにも宋江がなだめたことから二人の首はつながったが、このとき宋江は、「梁山泊では最近、鉄面孔目の裴宣が軍政司になり、賞罰功罪の規定ができています。過ちを犯せばすぐに首を切られるのです」と説明している。
梁山泊入山後の活躍
◆入山直後から軍政司として活躍した裴宣
政和8年 1月ころ、祝家荘戦争が起こる。宋江の命令を受けた裴宣は出動可能人員を調べた(第47回)。祝家荘戦争後には、呉用が李応と杜興を梁山泊入りさせるための作戦を立て、裴宣は蕭譲、金大堅らと一緒に役人に変装して李家荘にある李応の屋敷を訪れ、無理矢理に逮捕して梁山泊の仲間に引き渡す働きをした(第50回)。

冬、青州に雇われた呼延灼が白虎山の孔明を生け捕りにしたことから、梁山泊が青州を攻撃する。裴宣は軍の編成にあたった(第58回)。
宣和元年 秋、盧俊義と石秀を救出するために梁山泊軍が北京を攻撃する。裴宣は軍の編成を担当した(第63回)。
宣和2年 正月、盧俊義・石秀救出作戦が実行される。裴宣は呉用とともに北京攻撃軍を編成した(第66回)。
宣和3年 4月、朝廷から梁山泊の招安を求める第一回目の勅使を派遣される。裴宣は蕭譲の随員として、呂方、郭盛とともに使者を迎えに出た。このとき、朝廷の使者たちが無礼な態度に出ると、呂方、郭盛は怒って怒鳴り返したが、裴宣と蕭譲はひたすら堪え忍んだ(第75回)。

夏、童貫率いる朝廷軍と戦う。梁山泊軍は九宮八卦の陣を敷き、裴宣は緑の紗の頭巾をかぶり、黒い絹の上着を着て中央の陣に位置を占めた(第76回)。
宣和4年 2月、第三回目の招安で梁山泊の朝廷帰順が決まる。配下の兵たちの中で頭領たちと一緒に朝廷に行きたい者が集められ、裴宣と蕭譲が名簿を作った(第82回)。

3月、梁山泊が朝廷に帰順する。

4月ころ、遼国戦争が始まり、裴宣は宋軍の副将として出征する。

檀州攻略後、裴宣は柴進らとともに守備隊として檀州城に残った(第84回)。宋江の軍が幽州を奪ったあとに本隊と合流した(第87回)。

田虎討伐戦始まる。
(宣和5年) 蓋州攻略後、宋軍は兵を二隊に分け、裴宣は宋江麾下の軍に加わった。

方臘討伐戦始まる(第93回)。

荊南州で敵の捕虜になる。
 宋江麾下の軍にいた裴宣が荊南州にいたとき、宋軍が宛州を取り返した記念に碑を建てることになり、裴宣は蕭譲、金大堅と一緒に荊南からその地に向かった。が、すぐにも敵将・ビセイに捕らえられてしまい、三人とも荊南城に運ばれた。三人は荊南城の将・梁永から投降を勧められると大いに怒り、「殺したければさっさと殺せ。われわれが膝を屈することなどあり得ない」と罵った。このため三人は大いに痛めつけられたが、間もなく宋軍に寝返ろうとしていた敵将・蕭嘉穂によって救出された(第108回)。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

潤州攻略後、宋軍は兵を二隊に分けて進軍するが、このとき裴宣が諸将を二つに分け、自らは宋江麾下の軍に加わり、常州、蘇州へ向かった(第112回)。

常州攻略後、宣州にいた盧俊義からの報告が戴宗によって届けられると、杭州にて合流するようにという宋江の命令を裴宣が軍令書の形に整え、戴宗に宣州まで運ばせた(第113回)。

方臘討伐戦に勝利し、東京に凱旋する。裴宣は朝廷から官爵を与えられたが、楊林と相談してこれを辞し、昔馴染んだ飲馬川に帰り、のどかな暮らしをおくった(第120回)。
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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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