その後の活躍
◆徹頭徹尾梁山泊と敵対した高俅 |
政和2年 |
着任式で王進を叱責する(第2回)。
殿帥府太尉となった高俅はすぐにも殿帥府に着任し、所属の役人たちみながお目通りするために参上した。高俅はその一人ひとりと会って点検したが、中にひとりだけ来ていない者がいた。禁軍の教頭(武芸師範)の王進という者だった。王進は病気で半月ほど前から病気届けを出していたが、高俅は大いに怒り、「すぐにも引き捕らえてこい」と配下の者に命じた。実は高俅はごろつきだった時代に武芸師範の王昇という者にこっぴどく痛めつけられたことがあったが、王進は王昇の息子だったので、復讐してやろうと思っていたのである。しばらくして、王進が病気を押して参上すると高俅は「きさまのおやじは槍棒使いの薬売りじゃないか。おまえなんかに武芸がわかるか。しかも、仮病を使って目通り検分に出てこないとはどういうわけだ」と怒鳴りつけた。さらに高俅は側にいた者に「こいつをぶちのめせ」と命じた。配下の役人たちが「今日はおめでたい日ですから」といって止めたので、高俅もこの日は王進に罰を与えるのをあきらめたが、「明日は必ず、始末をつけてやるぞ」と脅した。こうして、高俅ににらまれた王進は、このままでは命も危ないと思い、その日のうちに老母と二人で東京から逃げ出したのである。 |
政和4年 |
夏、帯刀禁止の部屋に刀を持って入ったという理由で、林冲を逮捕し、滄州への流罪にする(第8回)。
冬、東京に仕官を求めてやってきた楊志の申し出を却下する(第12回)。 |
政和8年 |
秋、梁山泊討伐軍の指揮官に呼延灼を推薦する(第223回)。 |
宣和3年 |
4月、梁山泊招安を求める第一回目の勅使が派遣される(第75回)。高俅は招安に反対だったので、自分の配下の李虞候と蔡京配下の張幹辨を勅使の供に付け、招安が成功しないように画策する。
招安が失敗に終わると、蔡京、童貫、楊戩と謀議し、童貫率いる梁山泊討伐軍を派遣するように皇帝に進言する(第75回)。
童貫率いる朝廷軍の敗北を隠す。梁山泊を攻めた朝廷軍は梁山泊軍に敗北するが、高俅は蔡京、童貫らと話し合い、炎暑のために戦うことができず引き上げてきたと皇帝に報告した。
秋、高俅が朝廷軍を率い、梁山泊討伐に向かう(第78回)。
10月ころ、梁山泊招安を求める二度目の使者が派遣されるが、高俅が詔書を書き換える(第79回)。
高俅率いる朝廷軍は梁山泊軍と戦ったが、最初の二度の戦いで続けざまに敗れ、済州城に退却した。ちょうどこのころ、朝廷から梁山泊の招安を求める二度目の勅使が派遣され、済州城を訪れた。勅使と会った高俅は、梁山泊の招安が決まったことを知ると大いに困った。二度の戦いに敗れた上に梁山泊が招安されたとなれば、自分の面目は丸潰れだからだ。すると、済州府の役所にいた悪賢い役人が訪ねてきて、「なにも心配することはございません。招安の詔書にはちゃんと抜け道が用意されています」と高俅に助言した。招安の詔書には「宋江、盧俊義など大小の人々の犯した罪を除し、並びに赦免する」と書かれていたが、これを梁山泊の頭領たちの前で読み上げるときに、「宋江を徐し、盧俊義など大小の人々の犯した罪を徐し、並びに赦免する」と言い換えればいいというのである。そうすれば、宋江の罪は許されないわけだから、梁山泊が朝廷に帰順した後に宋江を処刑することができ、梁山泊をばらばらにすることができるとその役人はいった。これを聞いた高俅は大いに喜び、そうすることを勅使に命じた。勅使に同伴してきた参謀長はそのような不誠実なやり方に反対したが、高俅は聞き入れなかった。間もなく、梁山泊入りした勅使は、梁山泊の頭領たちの前で高俅が命じたとおりに証書を読み上げた。しかし、梁山泊の呉用と花栄は勅使が「宋江を徐し」と呼んだ部分を聞き逃さなかった。このため、勅使は腹を立てた花栄の矢で射殺され、梁山泊を招安しようという二度目の試みは失敗に終わった。
11月、高俅が大小の海鰍船数百隻で梁山泊を攻める(第80回)。この戦いでも高俅軍は破れ、高俅は梁山泊に生け捕られた。
冬、梁山泊に生け捕られた高俅は、「梁山泊が朝廷に帰順できるように皇帝に奏上する」と宋江に約束し、蕭譲と楽和を伴って東京に戻った(第80回)。しかし、高俅は宋江との約束を守らず、蕭譲と楽和を屋敷に軟禁した。 |
宣和4年 |
3月、梁山泊が朝廷に帰順する。正月に燕青が皇帝に直訴したことから三度目の招安の勅使が派遣され、梁山泊が朝廷に帰順すると、高俅は蔡京、童貫、楊戩と謀議し、梁山泊の頭領たちを東京城内に誘い込み、皆殺しにすべきだと皇帝に奏上した。しかし、このとき大臣のひとりが、このころ遼国が宋国の領土を脅かしていることを取り上げ、梁山泊軍団を宋軍として遼国討伐に向かわせるのがいいと提案したことから、梁山泊軍が遼国戦争に出征することになった(第83回)。
4月、遼国戦争始まる。
冬、遼国と講和を結ぶ。(第89回)
昌平県境での戦いで宋軍に敗れた遼国は急遽宋軍に使者を派遣し、講和を申し出た。重要な申し出だったので、宋軍では東京にいる皇帝の採決を仰ぐことに決めた。これを知った遼国ではすぐにも東京に使者を派遣し、高俅、蔡京、童貫、楊戩に賄賂を贈り、講和がうまくいくように画策した。賄賂を受け取った高俅たちは、自分の利益しか考えていなかったので、講和をめぐる会議の席上、それが最も良い方法だと皇帝に進言した。こうして、遼国から宋国に対して毎年貢ぎ物を贈るという条件で講和が結ばれた。完全な勝利を目前にしていた宋江は、この決定に大いに落胆した。
田虎討伐戦始まる。 |
(宣和5年) |
田虎討伐戦で、宋軍は数々の戦場で次々と勝利を治めたが、高俅は蔡京、童貫らとともに、「宋軍は戦争に敗れて国を辱めているので、宋江に罪を加えるべきだ」と皇帝に進言した。ちょうどこのころ、戴宗が宋軍が数多くの戦場で勝利し、すでに昭徳城に入っていることを東京に報告したので、高俅らの計画は失敗した。
王慶討伐戦始まる(第101回)。宋軍が田虎討伐戦に勝利すると、皇帝は宋軍の将軍たちに官爵を授けようとした。しかし、このころ王慶を頭領とする反乱軍が淮西を荒し回っていたので、高俅、蔡京、童貫、楊戩は謀議して、いまはまだ官爵を授ける時期ではないと皇帝に進言し、宋軍が東京に凱旋せずに、田虎の地から直接王慶討伐戦に向かうように画策した。
王慶討伐戦に勝利し、宋軍が東京に凱旋する。皇帝は宋軍の将軍たちに高い官爵を与えて労に報いようとしたが、蔡京と童貫が話し合い、梁山泊の頭領たちに高い官爵が与えられないように画策した。このため、頭領たちは官爵を得ないまま、方臘討伐戦に出征することになった。 |
宣和5年 |
方臘討伐戦始まる。
方臘討伐戦に勝利し、宋軍が東京に凱旋する。 |
宣和6年 |
夏、宋江と盧俊義を毒殺する(第120回)。
方臘討伐戦に勝利し、宋軍が東京に凱旋すると、宋江、盧俊義らの将たちに官爵が与えられ、多くの者たちが朝廷の役人となってそれぞれの任地に赴いた。この状況を見て不安になった高俅は「宋江や盧俊義はわれわれの敵だ。こんな盗賊上がりに住民を支配させているようでは、われわれ役人が世間の笑い者になる」と童貫に相談を持ちかけた。すると童貫は賛成し、「わたしに考えがある。まず盧俊義を片づけることにしよう。この男は武勇に優れた豪傑なので、最初に宋江を片づけたのでは、必ず反乱を起こすだろう」といった。「で、いい考えとは?」と高俅が問うと童貫は、「盧俊義のいる廬州の兵を何人か仲間に引き入れ、盧俊義が謀反を企んでいると訴えさせるのだ。そうすると盧俊義は査問のために東京に呼び出され、皇帝陛下は盧俊義をもてなすために饗宴を開くだろう。このとき、盧俊義の食事に水銀を混ぜるのだ。そうすれば盧俊義は廃人になり、反乱は起こせなくなる。それから、今度は勅使を派遣し、皇帝からの贈り物と称して宋江に御酒を飲ませるのだ。この酒の中にゆっくりと効き目を現す毒薬を入れておけば、宋江も半月後には死ぬことになろう」といった。高俅は喜び、二人はすぐに作戦にとりかかった。
しばらくして、盧俊義が反乱を起こそうとしているという訴えが東京に届いた。このとき、高俅と童貫は蔡京と楊戩も仲間に引き入れ、計略を練った上で皇帝に奏上した。御前会議の席で訴えを聞いた皇帝はそんなことは信じられないという意見を述べた。しかし、四人の悪臣たちはとにかく盧俊義を東京に呼びだし、皇帝が直々にもてなして話をした方がいいと主張した。こうして、盧俊義は東京に呼び出された。皇帝は盧俊義が謀反を起こそうとしているなどとは信じていなかったので、盧俊義を温かくもてなし、仕事に励むようにと伝えたが、このとき盧俊義のために用意された食事に高俅らが密かに水銀を混ぜていた。このため、皇帝との面会が終わった盧俊義は廬州へ帰る舟の中で突然身体の自由が利かなくなり、船から落ちて死ぬことになった。
「盧俊義死す」の報が朝廷にもたらされると、高俅らは今度は宋江暗殺に乗り出した。高俅、蔡京、童貫、楊戩の4人は、盧俊義の訃報を皇帝に伝えたついでに、「盧俊義が死んだとなれば、宋江が疑いを持ち、なにかよからぬ事を起こすかもしれません。ここは先手を打って、楚州にいる宋江に勅使を送り、恩賜の酒を下賜され、宋江の気持ちを落ち着かせるよう配慮したらいかがでしょう」と提案した。皇帝はどうすればよいか決しかねたが、最後には4人の悪臣たちの意見に従った。こうして、宋江もまた高俅らの陰謀のために死ぬことになったのである。 |