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フランボワイヤン・ワールド
水滸伝の豪傑たち
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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イオの末裔
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イオの末裔
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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。


殿帥府太尉
でんすいふたいい
高俅
こうきゅう
権力を私物化した水滸伝きっての悪役
 高俅は『水滸伝』の中で、最初から最後まで、悪役として活躍する政府の高官である。朝廷には高俅のほかに蔡京、童貫、楊戩という悪臣がおり、しばしば一緒に悪事を働くが、悪臣として最も目立つのが高俅である。
 高俅は、もともとは東京に住むごろつきだった。蹴毬(けまり)がうまいというので趣味人だった徽宗皇帝に気に入られ、あっというまに 殿帥府太尉という大官に出世し、それから好き勝手な振る舞いをするようになった。史進に武芸を教えた王進が東京から逃げ出さなければならなくなったのも高俅のせいだし、林冲を犯罪者に仕立てて滄州に流刑にしたのも高俅だった。梁山泊の好漢たちが朝廷に帰順してからも、高俅は他の悪臣たちと手を結び、好漢たちにとって不利になるようなことばかり画策した。方臘討伐戦後に宋江と盧俊義が毒殺された事件でも、高俅は中心的な働きをした。つまり、『水滸伝』の全編に渡って悪事を働き続けたわけで、悪役ではあるが、物語に不可欠の人物なのである。
高俅の物語
◆ごろつきから殿帥府太尉へスピード出世する

 高俅は東京に住む道楽者の若者だった。槍棒や相撲曲芸、詩文にも通じた趣味人で、とくに蹴毬の腕前は見事だった。それで、高俅は姓が高だったので「高毬」と呼ばれるようになった。後に出世してから「高俅」と改めたのである。このころ、高俅はまともに働きもせず、金持ちの機嫌をとって暮らしていたが、あるときひとりの金持ちから役所に訴えられてしまった。その金持ちの息子をそそのかして悪い道に誘い込み、毎日遊び回ったためだった。役所の判決が下ると、高俅は棒打ち二十回の刑を受け、東京を追放になった。高俅は仕方なく臨淮州へ行き、そこで賭場を開いていた遊び人・柳大郎の世話になった。
 それから3年して、哲宗皇帝が天下に大赦の詔を下した。このおかげで高俅の罪も許され、東京に戻ることが可能になった。すると、柳大郎が高俅のために、自分の親戚で、東京で生薬屋をしている金持ちの董将士を紹介してくれた。高俅は大いに喜び、柳大郎が書いてくれた紹介状を持って董将士を訪ねた。しかし、紹介状を読んだ柳大郎は、高俅が遊び人で、追放になった前歴があることを知ると、こんな奴は家にはおいておけないと考えた。柳大郎は十日間ほど高俅を大いにもてなしたあと、その方が将来のためになるといって、高俅を文豪の小蘇学士のところに紹介した。ところが、この小蘇学士も柳大郎と同じように考え、高俅を皇帝の女婿で、王大将と呼ばれている王晋卿(おうしんけい)という役人のところに紹介した。この王大将は趣味人で、粋な遊び人が好きだったので、高俅のことを大いに気に入った。こうして、高俅は王大将の近侍として働くことになった。
 ある日、王大将の誕生祝いがあり、その屋敷に王大将の妻の弟に当たる端王(たんおう)が招かれた。端王は神宗皇帝の第十一子で、哲宗皇帝の弟でもあった。屋敷に来た端王は王大将とともに書院に立ち寄ったときに、偶然にも机の上にあった美しい獅子の文鎮に目を止め、「見事だ」とつぶやいた。王大将は「同じ職人の作った竜の筆架もありますが、いま手元にありません。さっそく取ってきて、明日にも二品一緒に献上に上がりましょう」と申し出た。
 この翌日、端王のところへ二品を持っていく役目を命じられたのが高俅だった。端王の御所に着いた高俅は「王晋卿さまのお邸から御献上の品をお届けに上がりました」と下役人に告げた。下役人は「殿下はいまお庭で側仕えの者たちと蹴毬をしています」といい、高俅を庭先まで案内した。このとき、端王はいままさに四、五人の者を相手に蹴毬をしている最中だったので、高俅は邪魔をしてはいけないと思い、少し離れたところに立っていた。すると、端王の受け損なった毬がころころと高俅の前まで転がってきた。この毬を高俅がまったくとっさの思いつきから、かなり高級な技を使って端王の方へと蹴り返したところ、これを見た端王が大いに喜んだ。「そちは何者か」と端王はいった。高俅は礼をして、王晋卿の屋敷から献上品を届けに来たことを告げ、書状と献上品を端王に渡した。ところが、端王は品物などもはや興味はないというように側仕えの者に渡してしまい、高俅に向かって、「そちは蹴毬ができるようだが、名は何という」と尋ねた。高俅が名乗ると、「では、庭に出て蹴ってみよ」という。高俅は、自分などは身分の低い者だから殿下のお相手はできないと遠慮したが、端王はきかなかった。仕方なく、高俅は庭に出て、日頃練習した蹴毬の技を披露したが、これがあまりに見事だったので端王は高俅を気に入り、その日は御所に引き止めた。翌日になると端王は王晋卿を御所に呼び出し、高俅を近侍として使いたいと申し込んだ。こうして、高俅は端王の近侍となった。
 高俅は、それからはいつも端王の側にいて離れることがなかったが、二ヶ月とたたぬうちに哲宗皇帝が崩御した。皇帝は皇太子を立てていなかったので、好漢たちが話し合い、端王が皇帝となることに決まった。その呼び名は徽宗といった。
 徽宗皇帝の時代になるや、高俅はあっというまに出世した。徽宗皇帝は高俅を気に入っていたのでできるだけ早く出世させたいと思い、半年もたたぬうちに高俅は殿帥府太尉の地位に昇った(第2回)。そして、それからというもの、高俅はその地位を利用し、好き勝手に振る舞うようになるのである。
その後の活躍
◆徹頭徹尾梁山泊と敵対した高俅
政和2年 着任式で王進を叱責する(第2回)。
 殿帥府太尉となった高俅はすぐにも殿帥府に着任し、所属の役人たちみながお目通りするために参上した。高俅はその一人ひとりと会って点検したが、中にひとりだけ来ていない者がいた。禁軍の教頭(武芸師範)の王進という者だった。王進は病気で半月ほど前から病気届けを出していたが、高俅は大いに怒り、「すぐにも引き捕らえてこい」と配下の者に命じた。実は高俅はごろつきだった時代に武芸師範の王昇という者にこっぴどく痛めつけられたことがあったが、王進は王昇の息子だったので、復讐してやろうと思っていたのである。しばらくして、王進が病気を押して参上すると高俅は「きさまのおやじは槍棒使いの薬売りじゃないか。おまえなんかに武芸がわかるか。しかも、仮病を使って目通り検分に出てこないとはどういうわけだ」と怒鳴りつけた。さらに高俅は側にいた者に「こいつをぶちのめせ」と命じた。配下の役人たちが「今日はおめでたい日ですから」といって止めたので、高俅もこの日は王進に罰を与えるのをあきらめたが、「明日は必ず、始末をつけてやるぞ」と脅した。こうして、高俅ににらまれた王進は、このままでは命も危ないと思い、その日のうちに老母と二人で東京から逃げ出したのである。
政和4年 夏、帯刀禁止の部屋に刀を持って入ったという理由で、林冲を逮捕し、滄州への流罪にする(第8回)。

冬、東京に仕官を求めてやってきた楊志の申し出を却下する(第12回)。
政和8年 秋、梁山泊討伐軍の指揮官に呼延灼を推薦する(第223回)。
宣和3年 4月、梁山泊招安を求める第一回目の勅使が派遣される(第75回)。高俅は招安に反対だったので、自分の配下の李虞候と蔡京配下の張幹辨を勅使の供に付け、招安が成功しないように画策する。

招安が失敗に終わると、蔡京、童貫、楊戩と謀議し、童貫率いる梁山泊討伐軍を派遣するように皇帝に進言する(第75回)。

童貫率いる朝廷軍の敗北を隠す。梁山泊を攻めた朝廷軍は梁山泊軍に敗北するが、高俅は蔡京、童貫らと話し合い、炎暑のために戦うことができず引き上げてきたと皇帝に報告した。

秋、高俅が朝廷軍を率い、梁山泊討伐に向かう(第78回)。

10月ころ、梁山泊招安を求める二度目の使者が派遣されるが、高俅が詔書を書き換える(第79回)。
 高俅率いる朝廷軍は梁山泊軍と戦ったが、最初の二度の戦いで続けざまに敗れ、済州城に退却した。ちょうどこのころ、朝廷から梁山泊の招安を求める二度目の勅使が派遣され、済州城を訪れた。勅使と会った高俅は、梁山泊の招安が決まったことを知ると大いに困った。二度の戦いに敗れた上に梁山泊が招安されたとなれば、自分の面目は丸潰れだからだ。すると、済州府の役所にいた悪賢い役人が訪ねてきて、「なにも心配することはございません。招安の詔書にはちゃんと抜け道が用意されています」と高俅に助言した。招安の詔書には「宋江、盧俊義など大小の人々の犯した罪を除し、並びに赦免する」と書かれていたが、これを梁山泊の頭領たちの前で読み上げるときに、「宋江を徐し、盧俊義など大小の人々の犯した罪を徐し、並びに赦免する」と言い換えればいいというのである。そうすれば、宋江の罪は許されないわけだから、梁山泊が朝廷に帰順した後に宋江を処刑することができ、梁山泊をばらばらにすることができるとその役人はいった。これを聞いた高俅は大いに喜び、そうすることを勅使に命じた。勅使に同伴してきた参謀長はそのような不誠実なやり方に反対したが、高俅は聞き入れなかった。間もなく、梁山泊入りした勅使は、梁山泊の頭領たちの前で高俅が命じたとおりに証書を読み上げた。しかし、梁山泊の呉用と花栄は勅使が「宋江を徐し」と呼んだ部分を聞き逃さなかった。このため、勅使は腹を立てた花栄の矢で射殺され、梁山泊を招安しようという二度目の試みは失敗に終わった。

11月、高俅が大小の海鰍船数百隻で梁山泊を攻める(第80回)。この戦いでも高俅軍は破れ、高俅は梁山泊に生け捕られた。

冬、梁山泊に生け捕られた高俅は、「梁山泊が朝廷に帰順できるように皇帝に奏上する」と宋江に約束し、蕭譲と楽和を伴って東京に戻った(第80回)。しかし、高俅は宋江との約束を守らず、蕭譲と楽和を屋敷に軟禁した。
宣和4年 3月、梁山泊が朝廷に帰順する。正月に燕青が皇帝に直訴したことから三度目の招安の勅使が派遣され、梁山泊が朝廷に帰順すると、高俅は蔡京、童貫、楊戩と謀議し、梁山泊の頭領たちを東京城内に誘い込み、皆殺しにすべきだと皇帝に奏上した。しかし、このとき大臣のひとりが、このころ遼国が宋国の領土を脅かしていることを取り上げ、梁山泊軍団を宋軍として遼国討伐に向かわせるのがいいと提案したことから、梁山泊軍が遼国戦争に出征することになった(第83回)。

4月、遼国戦争始まる。

冬、遼国と講和を結ぶ。(第89回)
 昌平県境での戦いで宋軍に敗れた遼国は急遽宋軍に使者を派遣し、講和を申し出た。重要な申し出だったので、宋軍では東京にいる皇帝の採決を仰ぐことに決めた。これを知った遼国ではすぐにも東京に使者を派遣し、高俅、蔡京、童貫、楊戩に賄賂を贈り、講和がうまくいくように画策した。賄賂を受け取った高俅たちは、自分の利益しか考えていなかったので、講和をめぐる会議の席上、それが最も良い方法だと皇帝に進言した。こうして、遼国から宋国に対して毎年貢ぎ物を贈るという条件で講和が結ばれた。完全な勝利を目前にしていた宋江は、この決定に大いに落胆した。

田虎討伐戦始まる。
(宣和5年) 田虎討伐戦で、宋軍は数々の戦場で次々と勝利を治めたが、高俅は蔡京、童貫らとともに、「宋軍は戦争に敗れて国を辱めているので、宋江に罪を加えるべきだ」と皇帝に進言した。ちょうどこのころ、戴宗が宋軍が数多くの戦場で勝利し、すでに昭徳城に入っていることを東京に報告したので、高俅らの計画は失敗した。

王慶討伐戦始まる(第101回)。宋軍が田虎討伐戦に勝利すると、皇帝は宋軍の将軍たちに官爵を授けようとした。しかし、このころ王慶を頭領とする反乱軍が淮西を荒し回っていたので、高俅、蔡京、童貫、楊戩は謀議して、いまはまだ官爵を授ける時期ではないと皇帝に進言し、宋軍が東京に凱旋せずに、田虎の地から直接王慶討伐戦に向かうように画策した。

王慶討伐戦に勝利し、宋軍が東京に凱旋する。皇帝は宋軍の将軍たちに高い官爵を与えて労に報いようとしたが、蔡京と童貫が話し合い、梁山泊の頭領たちに高い官爵が与えられないように画策した。このため、頭領たちは官爵を得ないまま、方臘討伐戦に出征することになった。
宣和5年 方臘討伐戦始まる。

方臘討伐戦に勝利し、宋軍が東京に凱旋する。
宣和6年 夏、宋江と盧俊義を毒殺する(第120回)。
 方臘討伐戦に勝利し、宋軍が東京に凱旋すると、宋江、盧俊義らの将たちに官爵が与えられ、多くの者たちが朝廷の役人となってそれぞれの任地に赴いた。この状況を見て不安になった高俅は「宋江や盧俊義はわれわれの敵だ。こんな盗賊上がりに住民を支配させているようでは、われわれ役人が世間の笑い者になる」と童貫に相談を持ちかけた。すると童貫は賛成し、「わたしに考えがある。まず盧俊義を片づけることにしよう。この男は武勇に優れた豪傑なので、最初に宋江を片づけたのでは、必ず反乱を起こすだろう」といった。「で、いい考えとは?」と高俅が問うと童貫は、「盧俊義のいる廬州の兵を何人か仲間に引き入れ、盧俊義が謀反を企んでいると訴えさせるのだ。そうすると盧俊義は査問のために東京に呼び出され、皇帝陛下は盧俊義をもてなすために饗宴を開くだろう。このとき、盧俊義の食事に水銀を混ぜるのだ。そうすれば盧俊義は廃人になり、反乱は起こせなくなる。それから、今度は勅使を派遣し、皇帝からの贈り物と称して宋江に御酒を飲ませるのだ。この酒の中にゆっくりと効き目を現す毒薬を入れておけば、宋江も半月後には死ぬことになろう」といった。高俅は喜び、二人はすぐに作戦にとりかかった。
 しばらくして、盧俊義が反乱を起こそうとしているという訴えが東京に届いた。このとき、高俅と童貫は蔡京と楊戩も仲間に引き入れ、計略を練った上で皇帝に奏上した。御前会議の席で訴えを聞いた皇帝はそんなことは信じられないという意見を述べた。しかし、四人の悪臣たちはとにかく盧俊義を東京に呼びだし、皇帝が直々にもてなして話をした方がいいと主張した。こうして、盧俊義は東京に呼び出された。皇帝は盧俊義が謀反を起こそうとしているなどとは信じていなかったので、盧俊義を温かくもてなし、仕事に励むようにと伝えたが、このとき盧俊義のために用意された食事に高俅らが密かに水銀を混ぜていた。このため、皇帝との面会が終わった盧俊義は廬州へ帰る舟の中で突然身体の自由が利かなくなり、船から落ちて死ぬことになった。
 「盧俊義死す」の報が朝廷にもたらされると、高俅らは今度は宋江暗殺に乗り出した。高俅、蔡京、童貫、楊戩の4人は、盧俊義の訃報を皇帝に伝えたついでに、「盧俊義が死んだとなれば、宋江が疑いを持ち、なにかよからぬ事を起こすかもしれません。ここは先手を打って、楚州にいる宋江に勅使を送り、恩賜の酒を下賜され、宋江の気持ちを落ち着かせるよう配慮したらいかがでしょう」と提案した。皇帝はどうすればよいか決しかねたが、最後には4人の悪臣たちの意見に従った。こうして、宋江もまた高俅らの陰謀のために死ぬことになったのである。
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イオの末裔
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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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