小説
イオの末裔
〔Kindle版〕
販売開始しました。 |
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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イオの末裔
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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第一話 巌流島の決闘 |
■世にも有名な名勝負
古来、宮本武蔵といえば、何はなくとも巌流島の決闘が取り上げられる。
武蔵の死後百年ほどして書かれた『二天記』という武蔵伝の中でも、この決闘が大きく取り上げられており、古くから人々の注目を集めていたことがわかる。
『二天記』ではないが、こんな逸話が残されている。晩年の武蔵が熊本細川藩の食客となっていたころのことだ。ある席で清水伯耆という武士が武蔵に向かってこんなことをいった。
「有名な巌流島の戦いでは、小次郎の太刀が先に武蔵さんを打ったという噂があるが、本当ですか?」
これを聞いた武蔵の反応が面白い。武蔵はかっとして相手の目の前に頭を突き出し、総髪をかき分け、
「もしそうだとすれば、小次郎の刀の跡がわたしの頭に残っているはず。どこにそんなものがありますか」
と、詰め寄ったという。
事実かどうかはわからない。が、『二天記』を見れば、武蔵が怒るのも無理はないと思える。この決闘で完全な勝利を得るために、武蔵がいかに必死であったか、そこに詳しく語られているからだ。
■用意周到だった武蔵の作戦
『二天記』によれば、巌流島の決闘は武蔵が29才だった慶長17年(1612年)4月13日午前7時に行われる予定だった。場所は小倉と下関の間にある船島という小島である。決闘相手は当時小倉を領していた細川藩の剣術師範・佐々木小次郎。したがって、この決闘は細川藩公認のもので、普通なら遅参するなど考えられないことである。
だが、武蔵は違った。
戦いの前夜、下関の回船問屋に宿泊した武蔵は、当日の午前七時頃になってやっと起き出し、飯を食い、それから櫂を削って大きな木刀を作り始める。この木刀のが、一説によると長さ4尺6寸(約140cm)もあるものだった。
この間に、小倉から二度も飛脚が来て、早く小島に渡るようにと催促したが、武蔵は落ち着いたものである。武蔵はゆっくりと回船問屋の小舟に乗り込むと、船中でこよりをつくって襷に懸け、綿入れをかぶって横になった。
このすべてが武蔵の作戦だった。武蔵の行動にはとても決戦の直前とは思えない静けさがあるが、その背後で、武蔵はすでに戦っていたのである。
■西国一の剣豪・佐々木小次郎
武蔵がここまでしたのは、決闘相手の佐々木小次郎を剣豪として高く評価していたからともいえる。
『二天記』によれば、小次郎は幼少の頃から中条流の剣豪・富田勢源の弟子となり、勢源の打太刀をつとめたほどの腕前だった。
勢源といえば小太刀の名手だった。その打太刀は自然と長い刀を使うことになり、小次郎は刃渡り3尺を超える長大刀の扱いに精通したのだという。
その後、小次郎は自らの流派を巌流と呼び、諸国をめぐって高名の武芸者と対戦するが、ついに一度も負けなかった。この実力を小倉藩主・細川忠興に認められ、その地で武芸を教えることになったのである。年齢は18才とされているが、これには異説が多い。剣術師範をつとめる以上はそれ相当の年齢であるはずだから、やはり武蔵と同じくらいではなかっただろうか。
いずれにしても、武蔵は小次郎についてかなり詳しく知っていたに違いない。そうでなければ、小次郎の刀よりも長い木刀を用意するなどできるはずもないからだ。
■長大刀が繰り出す秘剣・燕返し
そんな武蔵に対して、小次郎の方は真正直でありすぎたかもしれない。
「遅れるとは何事か」3時間も遅れて武蔵がやって来たとき、小次郎は叫んだ。武蔵の方は落ち着いたもので、小次郎が進み出て大刀を抜き、鞘を投げ捨てるのを見るや、「小次郎敗れたり。勝つ者がなぜ鞘を捨てるのか」といった。
この言葉に小次郎はさらにいきり立ってしまうのだ。
とはいえ、それは剣豪同士の決闘にふさわしいものだった。
一般に小次郎は「燕返し」という秘剣を使ったといわれている。本来は「一心一刀」または「虎切」と呼ばれるもので、「敵の眼前で大太刀を平地まで打ち下ろし、同時にかがみ込み、大太刀をかつぎ上げるようにして敵を斬る」という技である。
この大技を小次郎は武蔵に対して使っているように見えるのだ。残念なのは、このとき武蔵が飛び上がっていたことだ。このため、小次郎の剣は武蔵の鉢巻きと袷の裾を斬っただけに終わり、武蔵の木刀が小次郎の頭を打ち砕いたのである。
■剣に生きた宮本武蔵の魅力
こうして、巌流島の決闘は一瞬にして武蔵の勝利に終わった。だが、これを一瞬の勝利と呼ぶべきかどうか。
例えば、武蔵は小次郎に勝つために4尺6寸の木刀を用意したうえ、3時間も遅れて決闘の場所に臨んでいる。これを見ただけでも、2人の勝負が一瞬だったとは思えないのだ。
武蔵自身が晩年に書いた『五輪書』によれば、武蔵は29才頃までに60回以上の勝負をし、そのすべてに勝ったとされている。つまり、武蔵が29才のときの巌流島の戦いは、戦い続けた武蔵の総決算でもある。
小次郎にとっても同じだったろう。
とすれば、勝負にかける意志において、剣にかける厳しさにおいて、武蔵は小次郎に勝ったのではないだろうか?
もちろん、意志や厳しさを実際に量ってみることはできない。が、武蔵のことを知れば知るほど、そうなのではないかと思えてくる。そう思わせるところに宮本武蔵の魅力があるといってもいいのである。 |
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