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宮本武蔵全十一話
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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第六話 宮本武蔵の謎
■謎の多い武蔵の生涯

 日本一人気の高い剣豪だけに、古くから膨大な量の文章が宮本武蔵について書かれてきた。もはや武蔵についてわからないことは何もないのではないかと思えるほどだ。
 しかし、事実はそうではない。
 宮本武蔵の生涯にはいまなお解き明かされていない謎が多いのだ。
 確かに、武蔵について書かれた文章は膨大である。だが、その中にはけっして両立しないような記述もあり、何が真実なのかわからない場合も多いからだ。
 有名な小説『宮本武蔵』の著者・吉川英治氏も『随筆宮本武蔵』の中で次のようにいっている。
「――私は、前にも、幾度か云っている。史実として、正確に信じてよい範囲の「宮本武蔵なる人の正伝」といったら、それはごく微量な文字しか遺っていないということを――である。それは、むかしの漢文体にでもしたら、僅々百行にも足りないもので尽きるであろう」と。
 このことは、現在でも変わりがない。
 では、宮本武蔵のどんな部分がいまなお謎とされているのだろう。

■出生地は美作国か播磨国か?

 武蔵の謎の中でも最も有名といえるのは、その出生地が美作国と播磨国という2つの土地にあることだ。
 通説では、武蔵は美作国吉野郡讃甘村宮本(岡山県英田郡大原町宮本)の生まれとされている。
 武蔵自身は『五輪書』の中で、「生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信」と書いている。にもかかわらず、美作説が通説となっているのはなぜだろう。
 大きな理由は、讃甘村宮本は武蔵の父・武仁の住んでいた場所で、この土地に武蔵や武仁にまつわる伝承が数多く残されていることだ。
 また、この地は播磨国に近く、武仁の支配地も美作国と播磨国にまたがるように存在していた。このため、自分の出生地が美作国か播磨国かということに、武蔵自身がこだわっていなかったろうと考えられるからだ。
 とはいえ、武蔵自身が「生国播磨」といっている以上、播磨説にも根強い支持があるのは当然だ。
 ただし、播磨説といっても一つではなく、播磨国印南郡河南庄米田村(兵庫県高砂市米田町)、播磨国佐用(兵庫県佐用郡佐用町平福)など諸説あり、それぞれに理由がある。米田村説の場合、武蔵の養子・伊織の家系に伝わる「宮本家由緒書」などを根拠とし、平福説では武蔵の実母の生家に残された「田住家系譜」などを根拠にしている。
 こんなわけで、たとえ美作説が通説だとしても、播磨説を無視するわけにはいかないのである。

■宮本武蔵玄信と宮本武蔵政名

 出生地が複数あるのと同じように、宮本武蔵は複数いたのではないかという説もある。
 しばしば取り上げられるのは、武道史研究家・綿谷雪氏の「二人武蔵」説だ。
 それによると、現在は1人と考えられている武蔵は実は2人の人物が混同されたものだという。武蔵玄信と武蔵政名の2人である。
 本来の武蔵は玄信の方で、播磨国の田原家に生まれた。田原家は新免家と同じく戦国時代の名家・赤松氏の流れを汲んでおり、この縁で武蔵は幼いときに美作国の新免家の養子となったのだという。
 これに対し、政名は玄信の叔父・岡本満貞の孫にあたる。当初、小四郎政名を名乗り、後に宮本武蔵義貞を名乗った。この政名は玄信から円明流を学び、玄信と同様に各地を旅し、円明流を広める働きをした。また、政名自身にも玄信と混同されるような言動があっただろうと綿谷氏は推測している。
 こんなわけで、古い時代から武蔵玄信と武蔵政名が混同され、同一人物として語られたというのだ。
 しかし、これでは武蔵の謎がさらに深まってしまうような気がするが、どうだろうか。

■遊女・雲井とのラブロマンス

 武蔵の謎の中にはそのイメージとはまったく似つかわしくないものもある。
 武蔵が一時期吉原の局女郎・雲井という女のもとに通っていたというのだ。
 『異本洞房語園』(享保5年/1720年刊)という本に、およそ次のようなことが書かれている。
 寛永14年(1637年)に島原の乱が起こったときも武蔵は雲井のもとにおり、その遊女屋から出陣した。このとき、武蔵は浅黄の緞子の裁付袴、雲井が整えてくれた紅鹿子の小袖を裏に付けた黒繻子の陣羽織という恰好だった。まわりには武蔵の出立を見物しようという遊女らが集まっていたが、武蔵はそのそれぞれに餞別の言葉を与え、馬に乗って出陣したという。
 確かに、簡単に信じられる話ではない。
 通説では武蔵は生涯女人を近づけなかったとされている。また、当時武蔵は54才で、養子・伊織が重臣となっていた小笠原藩に寄寓していたはずだからだ。
 しかし、武蔵にもこんなラブロマンスがあったと考えるのは、武蔵のファンにとっても楽しいことなのに違いない。

■正反対に分かれる武蔵の評価

 武蔵に関する謎はこのほかにも数が多い。ここで、困るのはあまりに謎が多いため、武蔵に対する評価も分かれてしまうということだ。
 一般的には、武蔵は日本一の剣豪であり、生涯をかけて剣の道を極めた求道者と理解されている。
 だが、このような考えに反対する意見もある。ずいぶんと昔のことだが、昭和7年、直木賞にその名を残す直木三十五氏が菊池寛との論争の中で、武蔵を散々にけなしたことがある。
「武蔵は生涯に60回以上の勝負をして一度も負けなかったというが、それは当時江戸にいた超一流の剣豪と戦わなかったからだ。また、自分から生涯の勝負で一度も負けなかったなどと自慢するのは、品性が劣っているからだ」というのが直木氏の武蔵批判の核心である。
 もちろん、日本人の多くにとって、武蔵は今後も日本一の剣豪であり続けるだろう。だが、そうであればなおさら、このような批判があることを記憶しておいてもいいだろう。
宮本武蔵全十一話目次
第一話 巌流島の決闘
第二話 宮本武蔵の誕生
第三話 吉岡一門との決闘
第四話 二刀流開眼
第五話 巌流島以降の武蔵
第六話 宮本武蔵の謎
第七話 諸芸に通じた武蔵
第八話 『五輪書』「地の巻」
第九話 『五輪書』「水の巻」
第十話 『五輪書』「火の巻」
第十一話 『五輪書』「風の巻」「空の巻」
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