小説
イオの末裔
〔Kindle版〕
販売開始しました。 |
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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イオの末裔
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《内容》
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第四話 二刀流開眼 |
■『五輪書』に見る二刀流の思想
宮本武蔵の流儀が二刀流であることはよく知られている。
武蔵自身が晩年に書いた『五輪書』を見ても、二刀流が武蔵の剣技を貫いた重要な思想だったことがわかる。
『五輪書』の”地の巻”に、「この一流、二刀と名づくること」と題して、武蔵は次のようなことを書いている。
「自分が二刀流を主張するのは、武士は将卒ともに、腰に二刀を付けているものだからだ。それが武士の道なので、この二つの利をしらしめんために、二刀一流というのである」
また、武蔵はこれに続けて、刀というのは本来片手で使うべきものだという。馬に乗るとき、人ごみで戦うとき、左手に道具を持っているときなど、刀を両手で持つわけにはいかないからだ。自分が二刀流を主張するのも、基本的には刀を片手で使えるようにするためだというのだ。そして、武蔵は次のようにいう。
「もし片手にても打ちころしがたき時は、両手にても打ちとむべし」と。
このように、二刀流を流儀の中心にしたのは武蔵が最初といっていい。それゆえ、武蔵は二刀流の祖といわれるのだ。
とすれば、武蔵がいつどこで二刀流に開眼したか、大いに気になるところだ。
■若くして二刀流の流派を興す
武蔵の二刀流開眼について、ただ一つはっきりしているのは、それが武蔵が23才より以前のことだったということだ。
慶長11年、まだ23才の武蔵が、紀州藩士・落合忠右衛門に円明流の印可状を与えたことが確認されているからだ。
円明流は武蔵が興した二刀流の最初の名で、晩年になって二天一流、二刀一流などと称することになったのである。
23才という年齢は確かに若いようにも思える。だが、武蔵は21才で早くも京都の武芸の名門である吉岡一門を打ち破っている。この戦いで剣豪としての名をあげた武蔵のもとに、多くの弟子が集まってきたとしても少しも不思議はない。
また、武蔵が生きた戦国末から江戸にかけての時代は、日本を代表する流派が生まれ、育とうとする時代だった。剣に生きる武蔵が一流一派を興すのはまったく自然なことといっていいのである。
■鎖鎌に二刀流の原理を見る
では、23才以前のいつどこで、武蔵は二刀流に開眼したのだろう。これについては、鎖鎌の名手・宍戸某と戦ったときとする説がよく知られている。
これは武蔵の伝記的書物『二天記』を根拠にしてる。それによれば、宍戸が鎖鎌を振り出したとき、武蔵は大刀を構えたまま、とっさに小刀を抜いて投げつけ、宍戸の胸を貫いたのだという。
武蔵は二刀流の祖といわれるが、記録に残る勝負で実際に二刀を使った例は少ない。宍戸との対戦はその少ない例のひとつであり、しかも武蔵が二刀を使った最初なのである。
二刀流開眼が23才以前という事実にも合う。宍戸との対戦は、『二天記』によれば武蔵が21才の慶長9年、伊賀国(三重県)でのこととされている。この年、武蔵は吉岡一門を倒しているが、それから間もなく、宍戸と対戦したわけだ。
吉川英治氏の小説『宮本武蔵』でも、宍戸との対戦が二刀流開眼の重要な要素になっている。鎖鎌は鎌と分銅を鎖でつないだ武器で、基本的には分銅の方を振り回すようにして使う。敵の得物にこの鎖を巻き付け、引きつけた上で、鎌を使って敵の首を切るのである。その鎌と分銅の動きに、武蔵が二刀流の原理を見出すというのが、小説『宮本武蔵』の二刀流開眼なのである。
■多人数との戦いから会得する
杉浦国友著『武蔵伝』には、まったく違った二刀流開眼のエピソードが紹介されている。
武蔵が備後(広島県)鞆ノ津にいたときのこと。海辺近くの農民たちが水田に引く水をめぐって村同士の喧嘩を起こした。このとき、武蔵は逗留先の庄屋に頼まれ、木刀を持って警戒に出た。そこに多数の農民たちが武器を持って押し寄せてきた。やむなく武蔵は戦ったが、気がつくと浜辺に落ちていた櫂を拾い、左手に持っていた。そして、左手の櫂で敵の武器を受けとめ、右手の木刀で打つということを繰り返し、ついに大勢の農民を追い払ったのである。
こうして武蔵は左手に持った櫂がいかに有効かを知り、さらに研究を続け、二刀流を創始したというのだ。
残念なことに、この事件がいつのことなのかはわからない。だが、二刀流開眼のきっかけとして、かなり説得力があるといっていいだろう。
■大流派に発展しなかった二刀流
このほかにも、武蔵の二刀流開眼についてはいろいろなことが語られているが、どれも確実な証拠があるわけではない。
確かなことは、それが23才以前の若い頃だったということだけだ。
二刀流を興した武蔵がそれ以降、二刀流を広めようとしたことはわかっている。
しかし、武蔵の二刀流は一刀流や新陰流のような大流派とはならなかった。
二刀を自由に使いこなすのは、一刀を使いこなすよりもはるかに大変なことだからといわれることが多い。武蔵自身は身長180センチを超す立派な体格をしており、膂力もあった。そんな武蔵にしてはじめて可能な流儀だったのだろう。
武蔵と同時代を生きた柳生新陰流の達人・柳生兵庫助利厳は、「武蔵の剣は武蔵ならではのもので、余人が学べるものではない」といっている。
二刀流が大流派とならなかったのは確かに残念なことだ。だが、こういうところに日本一の剣豪・宮本武蔵の凄みと独自性があるといえるのではないだろうか。 |
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