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  フランボワイヤン・ワールド
宮本武蔵全十一話
フランボワイヤン・ワールド・トップ宮本武蔵全十一話目次
 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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第五話 巌流島以降の武蔵
■戦いから離れた後半生

 宮本武蔵の人生は驚くほど対照的な前半生と後半生に2分することができる。
 慶長17年(1612年)、29才の武蔵が巌流島で戦った佐々木小次郎との決闘がその区切りになる。
 それまで、武蔵はただひたすら戦っていた。武蔵自身が晩年に書いた『五輪書』では、武蔵は29才までに60回以上の勝負をしたとされている。もちろん、その多くが命がけの勝負である。
 そんな武蔵が、巌流島の決闘以降は命がけの勝負をやめてしまうのだ。
 戦わない武蔵に興味はないという人もいるかもしれない。しかし、武蔵は29才で小次郎と戦ってから、62才まで生き続けている。
 これほど長い後半生を無視して、武蔵を理解したとはいえないだろう。

■人生の転機となった大坂の陣

 武蔵の後半生を考える場合、慶長19年(1614)と翌元和元年に起こった大坂冬の陣及び夏の陣への参戦を見逃すことはできない。
 この戦いに武蔵は東軍の一員として参戦し、かなり大物の武将たちと知り合いになったと思われるからだ。
 武蔵が参戦したのは、もちろん仕官(就職)の口を見つけるためである。
 どこかの有力大名に認められ、その配下として仕官するというのは、武蔵にとって少年時代からの夢だったといっていい。武蔵がその前半生において数多くの勝負に命をかけたのも、結局はその夢を叶えるためだった。
 だが、佐々木小次郎に勝って剣豪の地位を不動にしても、武蔵はその夢を叶えることはできなかった。
 そんなとき、豊臣方と徳川方の最終決戦となる大坂の陣が勃発したのだ。今度こそという思いを込めて、武蔵が参戦したとしても少しも不思議はない。
 残念ながら、武蔵は大坂の陣でも大した戦功は立てられず、仕官することもできなかった。
 その代わりというのも奇妙だが、数人の武将と知り合いになり、それ以降、まるで友人のようなつき合いをすることになるのである。

■武蔵が昵懇(じっこん)となった大名たち

 大坂の陣で武蔵が知り合った武将が誰なのか、確実なことがいえるわけではない。だが、それ以降の関係から考えて、小笠原忠真、本多忠政・忠刻親子らがいたと想像できる。
 武蔵は大坂の陣に参戦するにあたって、徳川家康の生母・於大の方の実家にあたる福山藩主・水野勝成の麾下に属したという記録がある。この水野氏の紹介で、多くの武将と知り合えたのだろう。
 剣豪としての武蔵はすでに立派な有名人だったから、多くの武将たちが武蔵と知り合いになるのを喜んだのである。
 このつき合いが、大坂の陣後も長く続くことになる。
 大坂の陣後の元和3年(1617年)、小笠原氏、本多氏は格上げされ、それぞれ播州明石10万石、姫路15万石に移封される。このころ、武蔵は小笠原家の客分として、一時期明石に滞在しているが、それというのも小笠原氏と昵懇の関係にあったからに他ならない。
 武蔵の後半生には不明な部分が多いが、多少なりとも記録が残っているのは、こうした大名たちとのつき合いがあったからといっていい。

■家老にまで出世した養子・伊織

 武蔵は生涯に2人の少年を養子にしているが、これらの養子も、本多家、小笠原家と関係を持つことになる。
 最初の養子は造酒之助(みきのすけ)といい、やがて本多家に出仕し、700石を賜るまでに出世している。しかし、寛永3年(1626)、本多忠刻が31才で死去したとき、その後を追って殉死してしまう。
 次の養子は伊織といい、寛永3年15才で明石城主・小笠原忠真の近習として出仕し、驚くほどのスピードで出世した。
 小笠原家は寛永9年には豊前国小倉15万石に転封されるが、このとき伊織は2500石を賜るのである。
 武蔵のような剣豪が養子を迎えるとはいかにも奇妙だが、小笠原家の伊織が出世したことは、その後の武蔵の生涯にも影響を与えた。
 明石を離れて後の武蔵の足跡はそのほとんどが謎に包まれている。そんな武蔵がやがて51才になったとき、伊織のいる小倉の小笠原家に寄寓し、そこで7年間を過ごすことになるからだ。
 この期間、武蔵は小笠原家で格別の扱いを受けたようだ。藩主・忠真と昵懇の間柄である上に、養子の伊織が重臣となっていたのだから、それも当然だった。伊織は後に家老職にまで進み、4500石を得るまでになるのである。

■意外性に満ちた武蔵の人生

 このように武蔵の後半生を簡単に振り返っただけで、ただたんに強いだけの剣豪とは違う武蔵の姿が浮かんでくる。
 武蔵が2人の養子を得たとか、多くの大名と昵懇だったとか、意外に感じる人が多いだろう。
 剣豪・武蔵について語ろうとすると、どうしても強さばかりが強調されてしまう。だが、武蔵は決して単に強いというだけでは語り尽くせない剣豪なのだ。
 武蔵が多くの武将たちとつき合えたのも、武蔵が剣豪だっただけでなく、相当な教養人として振る舞うことができたからだった。
「一芸は万能に通ず」と武蔵自身がいっているように、武蔵は絵画や書、木彫などの諸芸にも通じていた。
 武蔵の実像に迫るには、こうした意外とも思える事実をひとつひとつ追っていく必要があるのだ。
宮本武蔵全十一話目次
第一話 巌流島の決闘
第二話 宮本武蔵の誕生
第三話 吉岡一門との決闘
第四話 二刀流開眼
第五話 巌流島以降の武蔵
第六話 宮本武蔵の謎
第七話 諸芸に通じた武蔵
第八話 『五輪書』「地の巻」
第九話 『五輪書』「水の巻」
第十話 『五輪書』「火の巻」
第十一話 『五輪書』「風の巻」「空の巻」

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