小説
イオの末裔
〔Kindle版〕
販売開始しました。 |
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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イオの末裔
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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第二話 宮本武蔵の誕生 |
■自然に恵まれた武蔵の故郷
武蔵が晩年に著した『五輪書』を見ると、剣豪としての宮本武蔵の戦いがすでに少年時代に始まっていたことがわかる。武蔵は29才までに60回を超す試合をしているが、その最初の戦いがなされたのは武蔵がまだ13才のときなのである。
いったい宮本武蔵はどんな少年だったのだろう?
通説によれば、武蔵は天正12年(1584)、美作国吉野郡讃甘(さぬも)村宮本(岡山県英田(あいだ)郡大原町宮本)に生まれたとされている。宮本姓の由来もここにある。
有名な小説『宮本武蔵』の著者・吉川英治氏は、この宮本村について随筆の中で次のように書いている。「山を縫い、山を繞(めぐ)り、やっと宮本村に着く。……その宮本村付近は、何っ方を向いても山で、平面の耕地は甚だ少い。然し山は峻険でなくそう高くなく、線の和らかい所に、北陸や信州あたりの山国とはちがう平和な明るさがある。」
武蔵が持っているいかにも自然児らしい雰囲気は、まさにこのような環境によって育てられたといえるかもしれない。
■父祖三代にわたる武門の家系
剣豪・武蔵について考える場合、もうひとつ忘れてならないのは、武蔵が父祖三代にわたる武門の家に生まれたということだ。
武蔵の祖父・平田将監は美作国小房城主・新免則重の家老職をつとめ、十手、刀術に秀でた人物だった。父・武仁も新免家の家老職をつとめ、祖父から十手、刀術の技を受け継いでいた。しかも武仁は将軍・足利義昭に招かれて京に上り、武芸の名門・吉岡兼法との試合に勝ち、「日下無双」の号を賜ったほどの腕前だったといわれる。
また、将監も武仁も新免家の娘を妻にしており、武蔵は新免家の血も引いている。この新免家は平安時代の大貴族・藤原氏と戦国武将・赤松氏の血を引く名門である。武蔵が武の道を志す条件は十分にそろっていたといえるだろう。
しかし、武の道にもいろいろある。武蔵は祖父や父と同じように、新免家に仕えてもよかったはずだ。それなのになぜ、武蔵は故郷を捨て、たった一人で剣の道を突き進むことになったのだろうか?
■父・武仁と対立した武蔵
それについて、『丹治峰均筆記』(1727年)という本に面白い逸話がある。
少年時代の武蔵は父の十手術に大いに不満を持ち、しばしば批判がましい意見を述べたという。多分、武蔵は武門の家の者として、父から武芸の指導を受けていたのだろう。が、やがて日本一の剣豪になるほどの天才武蔵はそんな父の武芸の欠点を見抜いたのではないだろうか。
あるとき、武蔵が文句を言い始めると、武仁はかっとして手にしていた小刀を投げつけた。この小刀を武蔵は見事にかわした。これを見た武仁はさらに腹を立て、今度は手裏剣を投げつけたが、武蔵はこれもかわしてしまった。
何ともすさまじい親子関係ではないか。子供の分際で親に逆らう武蔵を生意気だともいえるが、それ以上に父・武仁の異様な性格を物語っているように思える。
もちろん、こんな親子関係が長続きするはずはないので、武蔵はその直後に家出し、二度と故郷の土を踏まなかったという。事実かどうかはわからない。だが、家を捨てて剣の道を選んだ武蔵の中に、父への敵愾心があったとしても、少しも不自然ではないはずだ。
■母を慕った意外な一面
武蔵が父を嫌った背景には、母・率子(よしこ)の存在もあったようだ。
武蔵の実母については、新免家から武仁に嫁いだ於政(おまさ)だという説もある。が、於政の死後に武仁の妻になった率子こそ武蔵の母だともいわれる。
率子は宮本村に近い播州佐用郡平福村の城主・別所林治(しげはる)の娘で、武蔵を産んだ後に武仁と別れ、平福村の田住家の後妻になったという。少年時代の武蔵はこの母のことを慕い、しばしば平福村まで遊びに出かけたというのだ。
豪快な武蔵の生き様から見ると意外な一面と見えるかもしれない。しかし、率子が家を出た理由が、もしも武仁の異様な性格にあるとすれば、少年だった武蔵が必要以上に父と対立した理由もうなづけるのである。
武蔵はこの母を慕う気持ちが強かったようで、家出後には田住家に身を寄せたこともあったようだ。
が、そのうちにもっといい場所を見つけた。平福村にある正蓮院という寺院である。そこに道林坊という住職がおり、武蔵に剣術や絵画の手ほどきをしてくれたのだという。
■有馬喜兵衛との最初の決闘
そうやって、武蔵がどれくらいの年月を過ごしたか、はっきりしたことはわからない。が、13才になったころには武蔵は並外れた体格と膂力の持ち主になっており、かなりの自信も持っていたようだ。それが、武蔵の最初の決闘へとつながるのである。
あるとき、平福村に有馬喜兵衛という兵法者がやってきて、浜辺に仮設の試合場を設け、望む者があれば誰でも相手をするという高札を立てた。と、武蔵はすぐにも「宮本弁之助(武蔵の幼名)、明日相手をいたすべし」と高札に書き込んだのだ。武蔵の面倒を見ていた道林坊は驚き、翌朝武蔵を連れて試合場に出向き、「とにかく、こどものやったことだから」と有馬に向かって頭を下げた。決闘なんてとんでもないというわけだ。
しかし、武蔵は違った。道林坊の横から飛び出すや「いざ、勝負!」と叫び、持ってきた2mほどの棒で有馬に打ちかかった。有馬も応戦した。と、武蔵が棒を投げ捨てて有馬に組み付き、高々と担ぎ上げると地面に叩きつけた。それから武蔵は棒を取り、十四、五回も殴りつけて有馬を殺してしまうのだ。
これが武蔵の最初の勝利だった。乱暴で力任せの、とても剣豪とはいえないような勝利かもしれない。が、このときから、武蔵の新たな旅が始まるのである。
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