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フランボワイヤン・ワールド
世界の終わりの話
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

第一部 世紀末と終末論
歴史観と終末論の種類
終末論の基礎知識

 「終末論」というのは、人間が住んでいるこの「世界の終わり」に関する物語あるいは教理のようなものである。個人の終末である「死」と「魂」の運命についての物語を指すこともある。いずれにしたところで、「終末論」と呼ばれるものは世界の多くの民族の間に存在しており、種類も多い。
 世界の終わりに関する物語だけを見ても、いくつかの種類がある。よく知られているものに、古代のユダヤ教やキリスト教の終末論があるが、ここではこの世界にはただ1つの始まりとただ1つの終わりがあるとされている。人間が生きているこの世が存在するのはその始まりと終わりの間の1回限りのことであり、その間に起こるさまざまな事件などもそれぞれが他とは異なる1回限りのものとされる。これに対して、古代のギリシアやインドでは、この世には始まりも終わりもあるが、それは何度となく繰り返されるものだと考えられていた。この世の始まりから終わりまでの期間は人間の想像を絶するほど長時間にわたるものだが、終わりの後には必ず始まりがあるので、この世が絶対的に終わってしまうということはあり得ないのである。そればかりか、古代ギリシアには、この世で起こる細かな無数の出来事までがそっくりそのまま繰り返されるのだという考え方まであった。
 そんなわけなので、一口に「終末論」といっても、考え方次第でまったく異なる「終末論」が存在することになる。
 考え方次第といったが、それは歴史観といいかえてもいいだろう。
 そこで、ここでは人類の歴史上に存在した各種の「歴史観」と「終末論」を概観しておきたい。

円環的に無限に繰り返される歴史

 歴史観を大きく分けると、ユダヤ・キリスト教的な直線的な時間を持つものと古代ギリシアやインドのように円環的な時間を持つものとがあるといわれる。これら2つを比べると、時間を円環するものと見る意識の方が直線的なものと見る意識よりもより古くからあったし、一般的だったろうといわれている。
 時間を円環的なものと見る意識は、一年の間に太陽が元の位置に戻り、季節が巡り、植物が生育したり枯れたりするという自然現象から獲得されたものらしい。古代の近東の神話では神々の栄枯盛衰も植物と結びついたもので、植物が枯れる冬になると重要な神が死に、春になると再びよみがえるとされている。こうした認識が、世界そのものにも適用され、人間の住むこの世界自体が誕生したり死んだりを繰り返すものとされたのだという。
 古代ギリシアでもこの考え方はかなり有力だったらしく、この世界で起こるすべてが恐ろしく長いスパンの中で繰り返されるという考え方があった。後の時代の人だが、アウグスティヌスもそのような考えを持っており、かつて存在した哲学者プラトンはアテナイのアカデメイアという学園で教えたが、それより以前にも一定の長い間隔を置いて、数限りない時代を通して、まったく同じプラトンとアテナイとアカデメイアとその弟子たちが存在したことがあり、これからも永遠に同じことが繰り返して存在するのだといっている。
 こうした考え方は当然古代ギリシアの歴史家の歴史叙述にも影響を与えているという。古代ギリシアの有名な歴史家にツキディデスがいるが、彼が歴史を叙述したのは、それが未来のために役立つからだといわれている。つまり、歴史は繰り返されるものなので、未来においても過去と同じような出来事が起こるに違いないからである。
 時間が円環的に流れるということについては、インドの思想はさらに明快に断言している。こうした思想はインドでは神話や宗教文献の中で語られている。一例としてヒンズー教の場合を取り上げれば、世界が存在する周期は恐ろしく長い時間(8640億年)を持っているが、この周期の中がさらに短い周期で区切られており(43億2千万年およびその14分の1)、世界の繰り返しがどのようなものであるか詳しく語っている。世界の最も巨大な周期の始まりと終わりに世界の誕生と終末があるのは当然だが、短い周期ごとにも世界の誕生と終末があるので、ここでは世界の誕生と終末の物語もふんだんに繰り返されるのである。

時代がどんどんと悪くなっていく歴史

 時間が円環的に流れるという考え方がある一方で、古い時代には歴史を通じて時代はどんどんと悪くなるという考え方が広く認められていた。
 有名な例としては、紀元前8世紀頃のギリシアの詩人ヘシオドスが『仕事と日』という詩編の中で述べているものがある。この考えによればギリシアの神々は長い年月の間に5種類の人間の種族を作り出したのだという。最初に作られたのは黄金の種族である。この種族はその名からも想像できるように一番幸福な種族で、苦悩もなければ肉体が衰えることもなく、死ぬことはあるがそれは眠るようなものだったという。その時代はこの世もすばらしい時代であり、大地は豊沃で、人が手を貸さなくても豊かな実りがあったという。この種族が地上から消えた後、神々は銀の種族を作った。銀といえばそれなりに立派そうだが、この種族はもはや前の種族とは似ても似つかぬものだった。彼らは無分別で暴力的で神を崇めなかった。神々は怒り、この種族を地上から消し去ったのである。次いで、青銅の種族が現れた。彼らは前の種族からさらに堕落した種族で、やたらと腕力が強いが心は冷酷で、戦争ばかり繰り返したために、お互いに殺し合って絶滅してしまった。第4の種族は、どういうわけか前の種族よりもはるかに立派で、英雄の種族といわれる。しかし、この種族も激しい戦争で滅びてしまうのである。そして、ヘシオドスの生きていた現在、この世に生きているのは第五番目の鉄の種族だった。この種族については、ヘシオドスは一緒に生きたくないとさえいう。この種族は労役と苦悩にさいなまれるうえ、人間同士で心が通い合うこともなく、親子兄弟のような親しい間でさえ争いが絶えないのである。
 時代がどんどん悪くなるというこの種の考えは、それ自体として人類の終末の思想を持っているが、もっと大きな円環する時間の中に組み込まれていることもある。インドのヒンズー教は、先に見たように円環的な時間を基本にしているが、その円環の一部であるユガというサイクルの中に4つの時代があり、時代ごとに世界が悪化していくと考えられている。
 このような考え方に比べれば、時代はどんどんよくなっていくという考え方は、はるか後代に属するものなのである。

ただ1つの始まりと終わりがある直線的歴史

 どちらかといえば時間は円環するという考え方が一般的であったときに、古代ユダヤでは歴史に対するまったく異なる考え方が起こっていた。ただ一つの神がこの世を創造し、ユダヤの民を繁栄に導くと考えていた古代ユダヤ人たちにとっては、歴史は単なる繰り返しではなく、神の意志を実現するためのものであり、明確な目標を持つものだった。したがって、そこでは歴史は統一あるものと理解されたのである。ただ、旧約聖書の時代には、神の約束がどのような形で実現するかという問題に答えは与えられていなかったといわれる。この問題に答えを与えたのは、紀元前2世紀頃に起こった終末論だった。この時代のユダヤ教に起こった終末論はやがてキリスト教に受け継がれるが、この終末論の登場によって、この世はただ1つの始まりと終わりを持つ直線的な時間によって構成されることになったのである。そして、基本的にはこの考え方が後のヨーロッパに受け継がれ、近代以降には世界にまで広まっていったわけである。
 しかし、歴史観という観点でいえば、ユダヤ・キリスト教的な終末論が登場しただけで直線的な歴史観が完成したとすることはできないといわれている。というのは、この終末論においては、終末後に彼岸において実現される神の国こそ重要だとされているので、その考えに従えば、人間が生きているこの世は来世のための準備であって、まったくどうでもいいことになってしまうからである。そこで、直線的な歴史観が完成するためには、終末が長期間にわたって延期される必要があった。現実的にこの世の終末が訪れなかったという事実やキリスト教会の安定が、終末の延期という考えに一役買ったといわれている。時代とともに安定したキリスト教会にしてみれば、明日にも世界が終わるなどという考えは、まったく認めがたいものだったからである。
 このようにして、ユダヤ・キリスト教の終末論に始まる直線的な時間の意識が、人間の住むこの世の歴史観として確立したわけである。

時代がどんどんとよくなっていく歴史

 現代人の中にも、この世はどんどんとよくなって、やがて福祉に満ちた社会が実現されると考えている人々が少なくないかも知れない。歴史に対するこのような考え方は、数多くの歴史観の中でも最も新しい部類に属するものである。普通、このような考え方は18世紀のヨーロッパで誕生したといわれている。
 18世紀のヨーロッパは啓蒙主義の時代である。啓蒙主義者たちは神の摂理ではなく人間の知性を信じており、人間は知識を増進させることで、限りなく進歩する生き物だと考えた。この考え方が基本となって、それ以降の世界で主流となった歴史観が作られた。つまり、人間は理性的な生き物で、その理性によって進歩し、最終的には福祉に満ちた社会が建設されるというものである。人間の理性が疑われるような場合でも、歴史の理性といったものは信じられてきた。このような考え方は、神が排除されているという点で、はっきりとキリスト教や終末論とは区別されているように見える。また、人類が将来に向かって進歩するという考え方は、確かに古い社会には見られなかった新しいものだといえる。
 しかし、現在ではこのような啓蒙主義的考えでさえ、キリスト教的あるいは終末論的枠組みの中にあると考えられている。というのは、新しい歴史観の中で信じられている「理性」は「神の摂理」と、「福祉に満ちた社会」は「終末論的な世界の完成」と同じものだし、歴史全体が統一あるものとする考えが相変わらずその背後にあるからである。キリスト教の神の代わりに人間が中心になったということから、このような考え方は一般にキリスト教あるいは終末論の「世俗化」と呼ばれている。
 このことからも、終末論が現代人にとって意外と身近なものだということがわかるだろう。

世紀末が存在する歴史観

 18世紀ヨーロッパの啓蒙主義者たちに始まった歴史観は19世紀のヨーロッパでは完全に主流のものとなった。爆発的な科学の進歩は人類の進歩を背後から確実に支えるように見えた。19世紀が全般的に科学主義、楽天主義の時代と呼ばれるのはこのためである。
 とはいえ、19世紀も終わりになると、進歩に対する疑いが起こってきたといわれている。歴史に対するペシミズムは何もその時代に始まったわけではないが、1900年前後の時代にある高まりを見せたことは確かだった。
 ヨーロッパにおいて「世紀末」という言葉が流行したのはこのような時代だった。ここで、世紀末と歴史観の関係を見ておくと、世紀末という考え方の中では、円環的な歴史観が復権しているのではないかと思える。直線的な歴史観に支配されていた時代に、突如として円環的な歴史観が復権するというのは少し奇妙に見えるが、これまでの議論を少しだけ詳細にするだけで、このことは解決できるだろう。
 これまで、ヨーロッパ近代の歴史観をまったく直線的なものと述べてきたが、実はその直線の中にはある種の円環が含まれていたのである。ここでいう円環とは、もちろん完全な円を成すたった1つの円環のことではない。それは円環が縦に積み重なった構造、あるいは螺旋状といえる構造を持っている。1つの時代は1つの円環に当たっており、その円環が終わった時点で次の円環へと飛び移るわけだ。この種の考え方は、18世紀初期の思想家ジャムバスティタ・ヴィーコの中にすでに見られるものだった。その考えによれば、1つの円環は野蛮の時代、英雄の時代、古典の時代という3時代に分けられ、円環を一周して時代が衰退し、野蛮の時代に戻ったところで歴史が新しい円環に移行するのである。
 19世紀ヨーロッパの歴史観には、啓蒙主義だけでなく、それとは対立関係にあるロマン主義の影響もあるといわれている。啓蒙主義が理性を重んじ、その結果として中世を暗黒の時代として否定してしまうのに対し、ロマン主義は非合理的な感情(とくに美的感情)を重んじることで、中世にもそのような感情があることを認め、中世を評価したといわれている。この考え方からは、それぞれの時代にはその時代固有の精神があり、それは普遍的な理性などでは評価できないという考え方が生まれる。19世紀の世紀末がとくに大きな高まりを見せた背景にも、このような歴史に対する考え方があるといわれる。人々が自分たちの時代の精神を求めた結果、その時代を没落の時代と考え、世紀末という言葉で呼んだというのである。
 が、歴史が円環すると考えても、この考えとはとくに矛盾しないことは確かだ。19世紀の世紀末が、世界の終わりというよりは、1つの時代が終わり新しい時代が始まる歴史の転換点として意識されていたということからも、世紀末という現象の背景に、円環的な歴史観の存在が想像できるのである。
 私たちが生きている20世紀はとりわけ19世紀の世紀末的なものを受け継いでいるように見える。いまや科学の進歩が無条件に人間の幸福につながると考えるものはそれほど多くはないだろうし、2度の世界大戦は人間の理性への信仰を疑わせるに十分なものである。歴史観ということについても、確実に円環的な歴史観を見直す動きがある。

終末論の種類

 さて、ここまで世界の歴史観について述べてきたが、本書で取り上げている数々の終末論も、このような歴史観と無関係ではあり得ないものである。そこで、この世に存在した主要な終末論と歴史観との関係を表にまとめてみた。本書の構成とも関係があるので、参考までに見ておいてほしい。

[歴史観と終末論の種類・表]
宇宙論的終末 個人的終末
円環的 洪水神話
北欧神話 (北欧神話)
ヒンズー教 (ヒンズー教)
仏教 (仏教)
マヤ・アステカ神話
直線的 ダニエル書 パウロの黙示録
ヨハネの黙示録 (ペテロの黙示録)
死海文書
エノク書 エノク書
バルク書
シュビラの託宣
エズラ記 エズラ書
コーラン
マラキ書
仏教の末法思想
ゾロアスター教 ゾロアスター教
非歴史的 グノーシス主義 (グノーシス主義)
注:終末論や終末文書はこのほかにも多数存在するが、ここでは本書と関係の深いものを取り上げている。宇宙論的と個人的の両方に含まれているのは、両方の要素をそれぞれ強く持っていることを示している。ただし、()で囲まれているものは本書ではとくに紹介していない。
世界の終わりの話目次
第1部 世紀末と終末論
世紀末と終末論の基礎知識
歴史観と終末論の種類
世界の紀年法と暦法

第2部 神話・終末文書に描かれた終末
第1章 円環的な歴史の中の終末
概説
洪水神話
北欧神話の終末(ラグナレク)
ヒンズー教の終末(永劫回帰)

第2章 直線的歴史と終末
概説/ユダヤ・キリスト教の終末文書
ダニエル書の描く終末
ヨハネの黙示録の描く終末
死海文書が描く終末
エチオピア語エノク書に描かれた終末
シリア語バルク書が描く終末
シビュラの託宣が描く終末
エズラ記(ラテン語)に描かれた終末
マラキ書が描く終末
コーランに描かれた終末

第3章 異教の終末文書
概説
ゾロアスター教の終末
仏教と末法思想の終末
マヤ・アステカ神話の終末
グノーシス主義が描く終末
パウロの黙示録に描かれた終末

第4章 千年王国思想
概説
『神の国』の千年王国
フィオーレのヨアキムが語る千年王国
カンパネッラの語る『太陽の都』

第三部 19世紀の世紀末と終末観

近代にも生きている終末思想
進化の果てに訪れる絶望的世界―H.G.ウエルズ『タイム・マシン』―1895
世紀末の人工ユートピアを求めて―J.K.ユイスマンス『さかしま』―1884
あとがき―未来が終末を迎えた 

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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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