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フランボワイヤン・ワールド
世界の終わりの話
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イオの末裔
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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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第一部 世紀末と終末論
世界の紀年法と暦法
紀年法と暦について

 歴史上のある時点を起点(紀元)とし、その年から1年、2年……というように年を単位にして歴史年代を示す方法を紀年法といっている。私たちが「世紀末」という場合は、西暦=キリスト紀元の紀年法を前提にしているわけだが、歴史を振り返ってみれば、西暦以外にも世界には数多くの紀年法が存在した。いま現在でも、イスラム教の世界では、ヒジュラ紀元という紀年法が用いられている。これは、イスラム教の教祖ムハンマドがメッカからメディナに逃れた年(A.D.622年7月15日)を紀元にしたもので、当然西暦とは異なっている。西暦では最初の千年紀の終わりは10世紀の終わりにやってきたわけだが、イスラム世界の紀年法では紀元1000年は西暦1591年10月18日に始まっている。(i)近いところでは、ヒジュラ紀の1400年が西暦1979年11月21日に訪れており、この直前にイスラム原理主義の一部の人々がメッカの聖なるモスクを占拠するという世紀末的な事件を起こしている。
 こんなわけなので、たとえ世紀末という現象が存在するとしても、それが紀年法や暦の影響下にあることは確かだ。
 そこで、ここでは西暦という紀年法がいつ始まったか、西暦以外にどのような紀年法があったか、また紀年法と大いに関係のある暦法についてまとめてみた。

西洋の紀年法

 紀年法は人類の歴史がある程度成熟した後に誕生したもので、当然のことだが人類が最初から持っていたものではない。そもそも古代の人間の生活にとって現在が紀元何年であるかといったことは、それほど重要なことではなかったらしい。それよりは現在が何月であるかということの方がはるかに重要である。このことは一年の決まった時期に種をまき、収穫しなければならない農耕との関係を見ても明らかだろう。
 古代のエジプト、バビロニア、アッシリアなどに紀年法らしきものが登場するようになっても、初期の段階の紀年法は100年というような長い期間を表すのに適していなかった。このような紀年法では、年代は特定の高官がその地位について何年とか、誰々王の治世何年とか表現されたので、王や高官の一覧表がなければ正しい年代を知ることができなかったという。
 それでも、紀元前747年に「ナボナッサル紀元」が登場し、現在ではこれが世界最古の紀年法だといわれている。
 この後、数多くの紀年法が歴史の表面に登場しては消えたが、西洋で使用されたものはだいたい次の通りである。

●ナボナッサル紀元(新バビロニア)
 新バビロニアの祖ナボナッサルに始まるといわれる紀年法。世界最古の紀年法とされるもので、ナボナッサルが即位した前747年を起点とし、ナボナッサル以降何年というように年を数えた。バビロニア、ペルシアの諸王、アレクサンダーと彼の後継者たち、アウグストゥスと彼の後継者たちの時代に用いられたといわれる。紀元2世紀の天文学者プトレマイオスが観測の日付や各種の表を作るのに用いた。

●トロヤ紀元(ギリシア)
 古代ギリシア人にとって記念すべき大事件だったトロヤ陥落の年を起点として年数を数えた紀年法。ただし、トロヤ戦争の年代は確定できず、あくまで伝承に基づいて起点となる年を算定したため、年代に種々の説が登場してしまい、普及しなかったという。比較的尊重された説によると、トロヤ陥落は前1183年とされたという。

●オリンピアード(オリンピア紀元)(ギリシア)
 古代ギリシアにおいて4年に1回開催されたオリンピックの周期を応用した紀年法。第一回オリンピックが開催された前776年を起点とし、4年を周期として1オリンピアードと数える。通常の1年は4分の1オリンピアードとなる。たとえば、西暦1年は第195回オリンピックが開催された都市なので、Ol.195,1のように記される。次の年はOl.195,2となる。西暦393年に最後のオリンピックが行われたので、以降は使われなくなったという。

●セレウコス紀元
 アレクサンダー大王の武将セレウコス1世ニカトルが王朝を創始した紀元前312年を起点とした紀年法。当初はアレクサンダー4世の没年(前311年)を起点とするものもあったが、最終的に前312年が起点とされるようになったという。セレウコス紀元はシリアを中心に広く普及し、イスラム教の登場後も使用された。今日でも宗教上の行事などの関係でシリア教会などがこれを用いている。

●ローマ建国紀元(ローマ)
 ローマ建国の年代を起点として年数を数える紀年法。ローマがいつ建国されたかについては当時から種々の説があったが、最終的には前753年という説が採用されたという。ただし、ローマでは、カエサルがガリア戦記の中で用いているように、誰々がコンスルであった年あるいは誰々がコンスルになって何年というように、コンスルの名による紀年法も用いられた。また、一時期ではあるが、前510年を紀元とする「共和制成立紀元」も用いられた。

●アレクサンドリア紀元(エジプト)
 アウグストゥスがアントニウスとクレオパトラを破ってアレクサンドリアを征服した西暦紀元前30年を起点とする紀年法。エジプトを中心に広く用いられた。

●ディオクレティアヌス紀元(ローマ)
 ローマ帝国のディオクレティアヌス帝が定めた紀年法。彼自身が即位した西暦284年を起点としている。この紀年法は最初エジプトを中心に用いられたが、ローマでも用いられた。ディオクレティアヌス帝は自らを神と称して崇拝することを強制するような人物で、キリスト教の弾圧者として有名だが、キリスト教が故郷となったローマでも用いられ、「殉教紀元」とも呼ばれた。西暦が採用されるまで用いられた。

●天地創造紀元(ユダヤ教徒やキリスト教徒)
 聖書を元にして天地創造の年代を算定し、その時点を起点として作られた紀年法。あくまで聖書を元にした机上の計算で天地創造の年代を算定しているので、天地創造の年代には種々の説がある。西暦7世紀頃に現れた「コンスタンチノープルの天地創造紀元」は、紀元前5509年を天地が創造された年としたもので、1700年までロシアで採用されていた。「ユダヤの天地創造紀元」は前3761年を天地創造の年代とした。この紀年法は西暦4世紀に作られたといわれているが、現在でもユダヤ人の間では使用されている。

●西暦=キリスト紀元(ヨーロッパ)
 現在の世界で最も一般的に用いられている紀年法である。キリストの誕生した年を第1年としている。ただし、現在の研究ではキリストが誕生したのは西暦1年よりも4年~7年くらい古い時代だといわれている。西暦525年にローマの神学者ディオニシウス・エクシグウスによって提案された。これ以前にはローマ帝国のディオクレティアヌス紀元が使われていたが、ディオクレティアヌス帝はキリスト教の迫害者でもあった。そこで、ディオニシウスはディオクレティアヌス紀元を“悪魔の紀元”と呼び、キリスト紀元を提案した。そして、ディオクレティアヌス紀元248年をキリスト紀元532年として、この年の復活祭表に初めて用いたのだという。以降、キリスト教会ではキリスト紀元を用いるようになったが、ヨーロッパに普及するようになったのは10世紀頃からだといわれている。ところで、キリスト紀元が採用された当時は暦としてはユリウス暦が使われていたが、現在私たちが使っている暦はグレゴリオ暦である。この転換を決断したのはグレゴリウス13世で、暦の転換に際して1582年10月4日の次の日が10月15日とされた。このため、西暦の歴史にはその間の日付が存在していない。日本では明治時代から神武紀元が採用されていたが、国際化の進展で西暦も使われるようになり、第二次大戦後からは本格的に使用されている。

●ヒジュラ紀元(イスラム教世界)
 イスラム教徒が用いている紀年法。イスラム教徒の始祖であるムハンマド(西暦570年頃~632年)は当初はアラビアのメッカで預言者としての活動を始めたが、支配階級の人々の迫害に合った。このため、ムハンマドは西暦616年にメディナへと逃亡したが、この新しい地を活動拠点とすることで、イスラム教は巨大な勢力へと発展することになった。そこで、この年を記念して、イスラム暦によるこの年の第1月第1日から年を数えることにしたのがヒジュラ紀元である。その日は西暦622年7月16日金曜日(ユリウス暦による)にあたる。イスラム教第2代カリフであるウマルの時代に設定された。ヒジュラとは一般に「聖遷」と訳される言葉で、イスラム教の中心地がメッカからメディナに移ったことを意味している。ヒジュラ紀元は太陰暦であるイスラム暦に基づいており、同じ1年でも太陽暦の1年よりも短いという特徴がある。このため、ヒジュラ紀元と西暦を比べると、年数を経るごとに紀元年数に開きが出てくることになる。

東洋の紀年法

 東洋において独自の紀年法を開発したのは中国とインドである。中国では殷の時代から皇帝の即位年数で年を数える方法が用いられ、漢の武帝の時代からは年号(元号)が用いられるようになった。この方法は中華民国が成立する(1912年)まで用いられた。同時に干支を用いた紀年法も行われたが、元号や干支は中国の影響を受けた日本の紀年法にも用いられた。インドでは古来数多くの紀元が作られ、その数は20を超えるといわれている。

●黄帝紀元
 神話上の帝王である黄帝の治世年数によって年を数える紀年法。西暦1911年に革命政府が樹立されたときに、この年が黄帝紀元4609年とされた。1912年に中華民国が成立してからは西暦(中国では公暦という)が一般化している。

●干支紀年法
 古代中国で考案された十干十二支の組み合わせによる紀年法。60年で同じ干支が繰り返すため、干支名だけではそれが何度目の干支なのかわからないという不便はあるが、元号などの紀年法と組み合わせることで、中国だけでなく日本でも用いられた。甲子(かっし)(きのえね)の年に始まる干支紀年法では、60年ごとに再び甲子の年がやってくるので、甲子の年にはこの世が改まるという革命思想も生まれた。陰陽五行の占いの一種である讖緯(しんい)説では、革命は60年ごとに辛酉(しんゆう)(かのととり)の年に起こるとされたが、干支が21回巡る1260年を周期として大革命が起こり、古い世界は滅びて新しい世が訪れるといわれた。この考え方は、中国史上の革命的な大事件に影響を与えたが、日本においても神武紀元を設定する際の根拠になったといわれている。

●仏滅紀元
 スリランカやタイなど東南アジアの仏教国で用いられている紀年法。仏陀が没した年から年数を数える。仏陀寂滅の年には種々の説があるが、ふつうは西暦紀元前544年とされている。中国や日本で流行した末法思想では、仏陀寂滅後1500年あるいは2000年で、この世が大いに乱れる末法の世が訪れるとされたが、末法の世がいつ訪れるかは、仏陀寂滅の年をいつと考えるかで異なってくる。日本では仏陀寂滅の年は紀元前949年と信じられており、1500年後にあたる6世紀の欽明天皇の時代、2000年後に当たる11世紀中葉には、この世が末法の世に入ったとされて大いに恐れられた。

●神武紀元
 神話上の天皇である神武天皇が即位した年から年数を数える日本の紀年法。日本では古くは暦法として太陰暦が用いられていたが、1872年(明治5年)から太陽暦が採用されるようになった。同じ年に日本の紀年法として正式に神武紀元が採用された。神武天皇が即位した年代については、古くからの伝え通り紀元前660年とされた。この年代が決定されたことについては、中国の讖緯説に基づいているといわれる。讖緯説では辛酉の年に革命が起こるとしており、とくに十干十二支が21順する1260年ごとに大革命が起こるとされた。そこで、神武天皇即位の年代を決めるときには、推古天皇9年の辛酉の年(西暦601年)を基準とし、そこから1260年さかのぼって、紀元前660年の辛酉の年が採用されたのだという。

いろいろな暦法

 終末予言などの文言にはしばしばある特定のときから何年後とか、何年何月何日といった日付が登場するが、たとえそれが真実だとしても、それが正確にいつをさしているかを考えようとする場合、紀年法だけでなく、暦法も重要な要素になってくる。
 暦法には大きく分けて太陰暦と太陽暦があるが、どちらを採用するかで1年の長さは異なってくる。
 太陰暦は月の動きを基本にしたもので、新月から新月までを1カ月と考える。すると1ヶ月は約29.5日になるので、12カ月で約354日となる。
 太陽暦は太陽の動きを基本にしたもので、1年は約365日である。
 これだけ見ても、太陰暦か太陽暦かで1年の長さが異なってしまうのは明らかだが、同じ太陰暦であっても現実に作られた暦の種類によって1年の長さは微妙に違ってくる。
 歴史上登場した暦法としては次のものが有名である。

●ロムルス暦
 古代ローマで作成された暦。伝説では、ローマ建国の祖であるロムルスが作成したといわれている。月の動きを基本にした太陰暦だが、1カ月が約30日で10カ月、1年が304日しかないという特徴がある。古代のローマでは寒さの厳しい冬の間はほとんどの活動が停止したので、この期間に当たる60日間は暦の上でも無視されてしまったのだという。しかし、このような暦では春の始まりがいつなのかもわからないため、もっと便利なヌマ暦が考案されたといわれている。

●ヌマ暦
 ロムルス暦に続いて、紀元前8世紀の終わりにローマで考案された暦。1カ月が30日前後の太陰太陽暦(ii)で、1年は12カ月、355日ある。当然、実際の太陽の動きと比べると1年の長さに誤差が生じるが、それは10日以上にもなるものだった。そこで、ヌマ暦では2年に一度、一年の終わりに閏月を設けるという処置がとられた。この閏月は交互に21日のときと22日のときがあり、これによって1年の平均の日数が現在の太陽暦に近いものとされたのである。しかし、古代ローマの為政者たちは、自分勝手に閏月を設けたり省いたりしたため、やがて季節と暦が合わなくなったという。

●ユリウス暦
 前46年にローマのユリウス・カエサルによって定められた太陽暦による暦。通常の1年は365日とし、4年に一度だけ1年366の閏年が設けられている。これによって、1年の平均的な長さが365.25日となった。このときまで使われていたヌマ暦では、実際の季節と3カ月ものずれが生じており、カエサルはユリウス暦を採用する際にこのずれを調節したが、このために紀元前46年は1年が445日という異常な年になった。

●グレゴリオ暦
 現在、世界の多くの国で使われている太陽暦による暦。16世紀のローマ法王グレゴリウス13世によって採用された。これまで使用されていたユリウス暦は太陽の動きに近いものだったが、128年間に約1日のずれが生じるものだった。これが積もり積もって16世紀には約10日のずれとなり、暦の上の春分と実際の春分が一致しなくなった。これは当時としてはキリスト教会の権威に似関わる問題だった。これを修正するために、1582年10月4日の翌日が10月15日とされ、以降はグレゴリウス暦が採用されたのである。グレゴリウス暦では、閏年の決め方に特徴があり、西暦が4で割り切れる年は閏年だが、100で割り切れても、400で割り切れないときは平年とされた。また、閏年は2月28日の翌日が2月29日とされた。これによって、一年の長さが実際の太陽の動きに極めて近いものとなったのである。しかし、グレゴリオ暦も一気に世界樹に広まったわけではなかった。ローマ法王と同じカトリック国にはすぐに広まったが、プロテスタントの国々に広まったのは18世紀後半になってからだった。中国では中華民国の成立時点(1912年)で採用され、日本では明治33年(1900年)に採用された。

●イスラム暦
 イスラム教の世界で採用されている太陰暦による暦。1年が354日で、30年に11回だけ1年が355日になる閏年が設けられている。イスラム世界で用いられているヒジュラ紀元年はこの暦に従っているため、グレゴリオ暦に基づく西暦よりも11日早く次の年が来ることになる。このために、ヒジュラ紀元年と西暦年は年を経るごとに差が開くことになるのである。

(i) 西側世界では暦として太陽暦であるグレゴリオ暦が使われているが、イスラム世界では太陰暦であるイスラム暦が使われているので(イランはイラン暦)、一月の長さが西側世界と異なっている。このため、1年の長さも西側世界とイスラム世界では異なることになり、1000年の長さも異なっている。イスラム紀元が西暦624にも関わらず、ヒジュラ紀における1000年後が西暦1592年になるのはこのためである。詳しくは暦の説明を参照。

(ii) 月の動きを基本にした太陰暦だが、1年の長さを太陽の動きに合わせるために日数を調節した暦。 
世界の終わりの話目次
第1部 世紀末と終末論
世紀末と終末論の基礎知識
歴史観と終末論の種類
世界の紀年法と暦法

第2部 神話・終末文書に描かれた終末
第1章 円環的な歴史の中の終末
概説
洪水神話
北欧神話の終末(ラグナレク)
ヒンズー教の終末(永劫回帰)

第2章 直線的歴史と終末
概説/ユダヤ・キリスト教の終末文書
ダニエル書の描く終末
ヨハネの黙示録の描く終末
死海文書が描く終末
エチオピア語エノク書に描かれた終末
シリア語バルク書が描く終末
シビュラの託宣が描く終末
エズラ記(ラテン語)に描かれた終末
マラキ書が描く終末
コーランに描かれた終末

第3章 異教の終末文書
概説
ゾロアスター教の終末
仏教と末法思想の終末
マヤ・アステカ神話の終末
グノーシス主義が描く終末
パウロの黙示録に描かれた終末

第4章 千年王国思想
概説
『神の国』の千年王国
フィオーレのヨアキムが語る千年王国
カンパネッラの語る『太陽の都』

第三部 19世紀の世紀末と終末観

近代にも生きている終末思想
進化の果てに訪れる絶望的世界―H.G.ウエルズ『タイム・マシン』―1895
世紀末の人工ユートピアを求めて―J.K.ユイスマンス『さかしま』―1884
あとがき―未来が終末を迎えた 

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