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フランボワイヤン・ワールド
世界の終わりの話
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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第三部 19世紀の世紀末と終末観
世紀末の人工ユートピアを求めて
J.K.ユイスマンス『さかしま』1884

■J.K.ユイスマンス『さかしま』の基礎知識

 J.K.ユイスマンスの『さかしま』は19世紀世紀末文学を代表する作品である。世紀末文学はこのほかにも数多いが、『さかしま』はいわば世代の書であって、この作品の登場によって初めて、世紀末文学はその規範ともいえる表現を獲得したといわれている。
 この表現とは、美と珍奇を重んじるデカダンスの表現である。
 デカダンスという言葉は、もちろんユイスマンス以前にも存在していた。『さかしま』にもデカダンスという言葉は何度も登場する。が、『さかしま』の登場によって初めて、デカダンスが1つの文学運動のようなものになったのである。これ以降、数多くの作品がこの流れに登場することになる。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』などもその1つである。
 ところで、読者の中には、どうしてここで『さかしま』が取り上げられるのかと不思議に思われた方もいるかも知れない。いま述べたように、『さかしま』は通常の文学作品であって、とくに終末の到来について語っているわけではないからである。が、直接に終末の到来を語っていなくても、1つの作品が終末観に満ちているということはあり得ることだ。
 実際、ヨーロッパの世紀末の作品には、漠然とした終末観に彩られているものが多い。フランスの詩人ヴェルレーヌには「倦怠」という詩があって、その中には、「私はデカダンスの終末の王国」という有名な詩句がある。ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』には第15章に次のような会話が現れる。『「この節じゃ妻帯者はみんな独身者みたいに暮らしてますし、独身者はみんな妻帯者みたいな暮らしをしてますもの。」「ファン・ド・シエクル(世紀末)」とヘンリー卿がつぶやいた。「ファン・ド・グローブ(世も末)」と女主人は答えた。「世も末ならいいのだが」と溜息まじりに、ドリアンはいった。「人生とは大いなる失望である」』 (O・ワイルド全集/西村孝次訳/青土社「ドリアン・グレイの絵姿」より引用。)
 同様に、『さかしま』も漠然とした終末観に彩られた作品といえる。
 ここで世紀末の代表作である『さかしま』という作品を紹介するのはこのような理由によるが、私たちのこの本は文学批評を行う場所ではないので、あくまでも終末という観点からこれを取り上げてみたいと思う。

■個人的な人工楽園での生活

 終末という観点から『さかしま』を見た場合、主人公であるフロルッサス・デ・ゼッサント氏が、個人的な人工楽園を造ろうとした点が大いに注目されるだろう。
 人工楽園とは、一種のユートピアということができる。私たちのこの本でも、ユートピア論の一種であるカンパネッラの『太陽の都』を紹介しているが、それを見てもわかるように、ユートピアの多くは、現代の俗悪な社会から切り離された、どこかわからないような島にあるという特徴がある。このことは、ユートピア論の起源といえるトマス・モアの『ユートピア』から、変わらない特徴である。
 デ・ゼッサント氏の人工楽園は、残念ながらどこかわからないような島にあるわけではないが、現代社会から切り離されているという点では共通している。
 この人物は、貴族の出身ではあるが、見るからに神経質で、虚弱であって、産業社会として大発展を遂げた19世紀の俗世間とは相いれないところがあった。このため、時とともに、「この世から遠く逃れ去りたい、どこかの隠遁所にかくれ住みたい、そして病人が街路に藁を敷きつめたいと願うように、頑強な人生の喧噪をすべて消してしまいたい、そんな彼の空想が、ふたたび強固になり出した」 。(『さかしま』澁澤龍彦訳/光風社出版)その結果、それまで住んでいた邸宅を売り払い、大都会パリから離れた小さな村の高台に隠遁所としては打ってつけの屋敷を購入し、それを自分だけの人工楽園にしようと考えたのである。

■デ・ゼッサント氏の人工楽園の構成

 ここで構想されている人工楽園は、通常のユートピアと違い、完全に個人的なものである。したがって、最高の規範となるものも、ユートピアと異なるのは当然である。ユートピアの場合なら、最良の法が世界を支配することになるが、デ・ゼッサント氏の人工楽園では、彼の個人的な嗜好・趣味が最高の規範となるのである。
 彼が購入した屋敷は2階建で、2階部分に昔なじみの年老いた夫婦者の召使いが住み、彼が必要とするときだけ、彼の面倒を見る仕組みになっていた。そこで、彼の使用部分となる1階が彼の趣味によって構成されることになった。
 この趣味の中でも、とりわけ重要視されたのは、色彩に関する哲学である。デ・ゼッサント氏は彼独自の極めて洗練された色彩に関する哲学を持った人物として描かれており、その色彩哲学によって彼の世界を彩ろうとするのである。
 このために、彼の住居には一風変わった仕掛けも用いられることになったが、そのよい例が食堂だった。この食堂は、内部は船室のような印象を持つものだったが、建物が本来持っていた大きな部屋の中に、もう1つの部屋をはめ込む形で作られていた。そして、2つある窓のうち1つの外側には水槽がはめ込まれていた。したがって、外から差し込む光は、この水槽を通過してくるので、水槽の水の色によって、室内に入り込む光の色が変化するのである。デ・ゼッサント氏は、気分に従ってときおりその水を入れ替え、新しい着色エッセンスを流し込んでは、室内の色を変化させるのである。
 盾のような大きな甲羅を持つ亀も、奇妙な小道具として登場する。デ・ゼッサント氏は織物の絨毯の色を引き立てるために、その上を自動的に移動する飾りが欲しくなり、その亀を購入したのである。が、それは自然な亀ではなかった。彼はその亀を購入するとすぐに、それを宝石細工師に預け、亀の甲羅を黄金や宝石で飾らせたのである。こうして、絨毯の色を引き立てる、奇妙な小道具ができあがったのである。残念なことに、この亀はすぐにも死んでしまい、役に立たなくなってしまうのだが。
 色彩以外の事柄についても、彼の屋敷にはいかにも人工楽園らしい仕組みがいくつもある。その1つに、食堂に用意された「口中オルガン」がある。これは棚の上にいくつもの酒樽を並べ、一本のてこで、同時に栓を開閉できるようにしたもので、酒樽の下にはカップが用意されており、その中に酒が滴り落ちる。それを順次飲み干すことで、微妙な味わいの違いによって、まるで口の中で交響曲が演奏されているような感覚を味わえるというものである。デ・ゼッサント氏はそれほど洗練された人物なのである。
 ここで、これ以上、人工楽園の奇妙な仕組みについて説明しても仕方ないだろう。これだけのことからだけも、デ・ゼッサント氏が造ろうとした世界がどのようなものであるか、およその見当はつくはずである。それは、世間から隔絶した、完全に趣味的な世界なのである。

■ロンドンへの空想旅行

 デ・ゼッサント氏の人工楽園が、世間から隔絶している以上は、そこで事件らしい事件が起こらないのは当然のことである。
 では、彼は何をしているかというと、ほとんどの時間を彼は本を読んだり、絵画を眺めたり、瞑想に耽ったりして過ごしているのである。デ・ゼッサント氏は文学や絵画についても独自の哲学を持っており、『さかしま』の中では長々とその哲学が語られている。
 したがって、デ・ゼッサント氏の生活はほとんどが彼の空想によってできあがっているのである。しかし、彼にとっては空想こそリアルなのである。このことは、デ・ゼッサント氏が起こした数少ない行動の1つである、ロンドンへの空想旅行の物語に端的に現れている。
 ある雨の降りしきる陰気な午後のことである。デ・ゼッサント氏は突如としてロンドンへ行きたいという思いに捕らわれると、普段の彼に似合わず、即座に行動を起こす。彼は召使いに必要な準備を整えさせると、田舎の駅からパリ行きの列車に飛び乗ってしまう。と、列車に乗っている間から、早くもロンドンのイメージが彼の心の中に広がってくるのである。パリに着くと、彼は旅行案内を買うために、馬車を雇って書店へ向かうが、雨の景色を眺めていると、やはりロンドンのイメージがはっきりと目の前に浮かんでくる。彼はかつてロンドンに行ったことがあるので、そのイメージは現実的である。彼は、まるで自分がすでにロンドンにいるかのように、テムズ川の光景やけばけばしい広告看板などを眼前にイメージするのである。そのイメージはどんどんと強くなる。旅行案内を買った後、彼は酒場に酒を飲み、次いで料理店で食事を取るが、そうする間にも、彼は自分がもうロンドンにいるのだという錯覚に捕らわれてしまう。近くにいる女の客が頑丈なイギリス女に見えてくる。料理店の店主は完全なジョン・ブルである。このようにして、あまりにリアルなイメージに包まれているうちに、彼はなおしばらく、そのイメージに包まれていたいと思うようになる。そうこうするうちに、ロンドン行きの列車が出る時刻が近づいてくる。が、デ・ゼッサント氏は動かない。いまこうしているだけもう十分にロンドンの雰囲気は味わった。それなのに何故、急いで駅まで走る必要があるだろう。彼はこう考えたのである。そして、彼はロンドン行きを取りやめると、さっさと自分の屋敷に帰ることにしたのである。
 デ・ゼッサント氏がいかに行動から遠いところにいるか、空想が彼にとってどれほどリアルであるか、このエピソードが十分に語っているだろう。

■ユートピアの破綻と世界への呪詛

 実際にはロンドンへ行かずに、それでも十分にロンドンの旅を満喫したデ・ゼッサント氏が、再び人工楽園での生活を開始したことはもちろんである。彼はその生活に飽きているわけではない。彼ほどの洗練された趣味と空想力があれば、世間と隔絶した生活にも十分な楽しみが見いだせるのである。
 しかし、その生活は長くは続かない運命にあった。これまでの人生の長い放蕩生活によって、デ・ゼッサント氏の身体は疲弊し、精神も病んでいたからだ。あるとき、身体の変調に気づいた彼がパリの名医を呼ぶと、医師は世間と隔絶した生活をやめ、一般人と同じような生活をしない限り命の保証はしないと彼に告げたのである。
 この宣告は、デ・ゼッサント氏を絶望に陥れた。19世紀の俗世間は、彼には我慢ならないものだったからだ。とはいえ、命を失うのも恐ろしかったので、彼は嫌々ながら彼は医師の忠告に従うことにしたのである。
「すると、激怒の情が嵐のごとくこみ上げてきて、忍従と無関心に徹し切ろうとする彼の努力を一掃してしまった。現実のありのままの姿を自分の目に隠しておくわけには行かなかった。もう何も、何も残ってはいないのだった。一切のものは破壊されつくしてしまった。ブルジュアどもはあたかもクラマアル墓地におけるごとく、いまや逢引の場所となってしまった教会の壮大な廃虚の下で、言語道断な駄洒落や破廉恥な冗談に汚された残骸の山を、紙に包んで膝の上で貪り喰っているのであった。創世記の恐ろしき神とゴルゴダの蒼ざめたキリストとは、事ここにいたって彼ら自らの存在を明示せんがために、昔の天地の大異変をふたたび惹き起し、かつて滅びた邪悪の都市を焼きつくした火焔の雨をふたたび燃え上がらせようとしているのではないか? それとも、かかる堕落はいつまでも流れを断たず、ついには、もはや不正の種子と汚辱の実りしか生じなくなったこの古い世界をば、悪臭でいっぱいに蔽いつくしてしまうのではないか?」
 こうして、彼の人工楽園は終末を迎えた。この人工楽園はまったく個人的なものではあるが、ここにはどうしようもない終末観があるといっていいだろう。しかも、これから住まなければならない俗世間に対しては、彼は激しくその終末を待望しているのである。 
世界の終わりの話目次
第1部 世紀末と終末論
世紀末と終末論の基礎知識
歴史観と終末論の種類
世界の紀年法と暦法

第2部 神話・終末文書に描かれた終末
第1章 円環的な歴史の中の終末
概説
洪水神話
北欧神話の終末(ラグナレク)
ヒンズー教の終末(永劫回帰)

第2章 直線的歴史と終末
概説/ユダヤ・キリスト教の終末文書
ダニエル書の描く終末
ヨハネの黙示録の描く終末
死海文書が描く終末
エチオピア語エノク書に描かれた終末
シリア語バルク書が描く終末
シビュラの託宣が描く終末
エズラ記(ラテン語)に描かれた終末
マラキ書が描く終末
コーランに描かれた終末

第3章 異教の終末文書
概説
ゾロアスター教の終末
仏教と末法思想の終末
マヤ・アステカ神話の終末
グノーシス主義が描く終末
パウロの黙示録に描かれた終末

第4章 千年王国思想
概説
『神の国』の千年王国
フィオーレのヨアキムが語る千年王国
カンパネッラの語る『太陽の都』

第三部 19世紀の世紀末と終末観

近代にも生きている終末思想
進化の果てに訪れる絶望的世界―H.G.ウエルズ『タイム・マシン』―1895
世紀末の人工ユートピアを求めて―J.K.ユイスマンス『さかしま』―1884
あとがき―未来が終末を迎えた 

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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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