小説
イオの末裔
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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第二部 神話・終末文書に描かれた終末 |
第一章 円環的な歴史の中の終末 |
ヒンドゥー教の終末論
●ヒンドゥー教の基礎知識
ヒンドゥー教は西暦4世紀以降のインドで隆盛となった宗教である。しかし、その起源は古く、紀元前10世紀以前のインドに起こったヴェーダ(注1)の宗教の流れを汲むものだといわれる。
ヴェーダの宗教とヒンドゥー教の間には数々の違いがあるが、終末論的な観点からいうと、ヒンドゥー教が輪廻転生(注2)の思想を基本にしていることだといえる。輪廻転生とは、この世に生きているものは人間も動物も死後に再び生まれ変わって誕生し、これが永遠に繰り返されるという考えである。このような考えは、ヴェーダの時代にはなく、ヴェーダの時代が終わってから紀元前500年頃までの間に誕生したものである。
インド生まれの宗教として、ヒンドゥー教の他に仏教やジャイナ教があるが、これらはみなこの時代以降に成立したので、いずれの場合も輪廻転生の思想を持っている。
ヒンドゥー教が輪廻転生の思想を基本にしているということはとても大事なことで、このことはヒンズー教の宇宙では時間が無限に続くということを意味している。生き物が永遠に輪廻転生を繰り返す以上、時間が永遠でなければならないのは当然である。そんなわけで、ヒンドゥー教には時間が完全に終わってしまうという意味での本来的な終末論は存在しないことになる。
しかし、終末に似たものがまったくないというわけではない。先にヒンドゥー教の宇宙では時間は無限に続くと書いたが、それは正確ではない。ヒンドゥー教においては、宇宙や時間もまた輪廻するものなので、1つの周期の最初と終わりには宇宙の誕生や終末といったものが存在するのである。この周期が無限に繰り返されるために、絶対的な終わりという印象が薄められているが、その終末の出来事は他の宗教の終末の出来事よりもはるかに徹底的なものといえる。
このように、宇宙や時間が繰り返されるという思想は、4世紀以降に書かれたプラーナと呼ばれるいくつかの聖典に詳しく書かれている。本書がヒンドゥー教の終末論として述べる以下の解説はこれらのプラーナやヒンドゥー教の神話の考えを基本にしている。
■ヴィシュヌ神と宇宙の関係
ヒンドゥー教では、最高神としてブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神を考える。この三神は実は1つの神の異なった姿だといわれることもある。
現在の信仰では、このうちヴィシュヌ神とシヴァ神に人気があり、ヴィシュヌを最高神とするものをヴィシュヌ派、シヴァ神を最高神とするものをシヴァ派と呼んでいる。いずれにしても最高神とされるものが宇宙の創造や破壊の根本にあると考えられる。ここでは、ヴィシュヌを最高神とする考えに従って、最高神と宇宙の関係について見ておきたい。
この考えによると、この世のすべて、宇宙も時間も何もかもがヴィシュヌ神の夢であり、ヴィシュヌ神の内部での出来事だとされる。ヴィシュヌ神と宇宙の関係は、次のような神話的イメージとして語られている。
この宇宙がまだ始まる前のこと。宇宙には何もなくただ一つの海だけがあった。このとき、ヴィシュヌ神は千の頭を持つアナンタという竜を船代わりにして、その上で眠っていた。やがてヴィシュヌのへそから一本の蓮の花が咲き、その花からブラフマー神が生まれる。このブラフマー神が宇宙のすべてを創造するのである。ブラフマー神はもともと宇宙の創造者としての神であり、紀元前2世紀頃に成立した『マヌ法典』でもそのような神とされている。本来なら、ヴィシュヌやシヴァよりも上位の神だが、ヴィシュヌ派の信仰ではヴィシュヌから生まれたことになっているのである。
こうして宇宙が誕生し、その中に人間も存在するようになるわけだが、やがてときが来るとこの宇宙にも終わりが来るとされている。このときが来ると、ヴィシュヌ神が破壊神でもあるシヴァ神の姿となって、宇宙のすべてを焼き付くし、混沌の海の中に沈めてしまうのである。すべてが終わった後、宇宙を作ったブラフマー神はヴィシュヌ神に飲み込まれる。こうして、何もかもが宇宙が始まる以前の状態に戻る。この状態からブラフマー神が誕生し、以前あったのと同じように宇宙の創造が始まり、創造と破壊の周期が繰り返されることになるのである。
ところで、ここで述べた宇宙の創造と破壊はブラフマー神の一日の始まりと終わりに起こるものである。ヴィシュヌのへそから誕生したときがブラフマー神の一日のはじめであり、ヴィシュヌに飲み込まれたときがブラフマー神の一日の終わりである。
しかし、ヒンドゥー教ではブラフマー神の一生の始まりと終わりにも、宇宙の創造と破壊があるとしている。当然のように、このときの創造と破壊は、一日の始まりと終わりに起こるものよりも、はるかに徹底したものだとされる。
これらの創造と破壊がどのようなものであるか、そして、ブラフマー神の一日や一生の長さがどれくらいのものかといったことが、ヒンドゥー教のプラーナ聖典の中に記されている。
■ヒンドゥー教の宇宙的時間
ヒンズー教では宇宙の創造と破壊の周期を説明する際に、長大な時間の長さを表すために、神年、マハーユガ、カルパといった特別な単位を用いている。
これらの単位は次のような期間を表している。
神年 |
神の1日は人間の1年に当たるとされる。これが360集まって1神年(神の1年)になる。 |
マハーユガ |
12000神年。 |
カルパ |
1000マハーユガ。ブラフマー神の1日は2カルパから構成されており、前半の1カルパがブラフマー神の昼、後半の1カルパがブラフマー神の夜となる。ブラフマー神の1日の始まりと終わりというのは、このうち昼間の始まりと終わりをさす。夜の1カルパの期間は、ブラフマー神は眠っているとされる。 |
これをもとに考えてみると、宇宙の基本的な持続期間であるブラフマー神の1日の始まりから終わりまでの期間(1カルパ)は、人間の時間に換算すると、43億2千万年ということになる。そして、その後同じだけの期間、宇宙は存在しない状態が続く。
宇宙の創造と終末は1カルパ単位のものとは異なる形で、ブラフマー神の一生の始まりと終わりにも起こるとされるが、彼の一生はブラフマー神の時間で100年(1年=360日とする)だとされている。したがって、その長さは人間の時間にすると、8640億年ということになる。
■マヌ期とユガ
ヒンドゥー教の文献には、以上に述べた時間の単位の他に、マヌとユガという単位についても語られている。これらは宇宙の創造と終末とは関係ないが、地上的な意味での終末とは大いに関係がある。
マヌは、ブラフマー神の昼間である1カルパを同じ長さの14の期間に分けたものである。この期間の特徴は、1つのマヌ期ごとに1人の「人祖(マヌ)」が出現し、世界を統治するとされていることである。マヌ期が終わりになると、その時代を支配していたマヌの交代が行われる。こうして、1カルパの間に14人のマヌが登場するのである。ヒンドゥー教の神話の中には、マヌ期の終わりごとに大洪水が起こって、地上を破滅させるというものもある。
1カルパに登場する14人のマヌにはそれぞれ名前があり、現在のマヌは第7番目のものであり、ヴァイヴァスヴァタという名だといわれる。
ユガは、12000神年にあたるマハーユガを4つに分けた期間である。ただし、四等分ではなく、順番に4、3、2、1という比率で分けられており、大きい順にクリタ、トレター、ドヴァーパラ、カリという名がある。それぞれの長さは、4800神年、3600神年、2400神年、1200神年となるが、これには各ユガの夜明けの時代と夕暮れの時代も含まれており、この長さも4、3、2、1の比率になっている。そこで、クリタ・ユガの場合なら、夜明けの時代400神年、クリタ・ユガの時代4000神年、夕暮れの時代400神年というように、すべて4の数字で表せることになる。
これらのユガには、時代が下るに連れて、世の中が悪くなるという特徴もある。どのように悪くなるかをまとめると、以下のようになる。
クリタ・ユガ(4800年間) |
正義と法が世界を支配している。人間は病気にならず、400歳の寿命を持つ。 |
トレター・ユガ(3600年間) |
クリタ・ユガに比べ、正義と法が4分の1だけ欠けた時代。人間は300歳まで生きられる。 |
ドヴァーパラ・ユガ(2400年間) |
世界の正義と法が半分に減り、その分悪がはびこっている時代。激しい混乱が起こる。人間の寿命は200歳になる。 |
カリ・ユガ(1200年間) |
正義と法が4分の1になってしまい、多くの人間の心から誠実、寛容、慈悲が消え去ってしまう。人々は欲望のために行動し、飢餓や災害が至るところで起こり、この世が地獄のようになってしまう。人間は100歳までしか生きられなくなる。 |
これらのユガのうち、現在の私たちが暮らしているのは、一番最後のカリ・ユガの時代だとされる。この時代は激しい戦争で始まったとされており、インドの叙事詩『マハーバーラタ』はその戦争を主題にしている。
カリ・ユガの時代は最悪の時代だが、それにしても永遠に続くわけではない。ヒンドゥー教の神話では、カリ・ユガの終わりに救世主が出現し、世界を救うのである。これはカルキという救世主で、白馬に乗った騎士として出現し、世界の悪を滅ぼすといわれる。カルキはヴィシュヌ神の化身したもので、使命を終えると天界に帰る。こうして、最悪のカリ・ユガ時代が終わり、再び正義と法が支配するクリタ・ユガの時代がやってくるのである。
■ブラフマー神の一日の終わりの破局
カリ・ユガ時代の終わりのこの世の混乱や、マヌ期の終わりの大洪水などは確かにこの世の終わりに近いものだが、それほど本格的な終わりではない。宇宙の本格的な終わりは、やはりブラフマー神の一日の終わりと一生の終わりに訪れるものである。
宇宙の終わりといっても、ブラフマー神の一日の終わりと一生の終わりに訪れる破局では性格が違っている。
ブラフマー神の一日の終わりに起こる宇宙の終わりは、形あるものが何もかもバラバラになって混ざり合ってしまうような終わりである。ブラフマー神が作ったこの宇宙(注3)には全体で7つの層があるとされるが、このうち下方の三界がこのときの破局で混沌の世界になってしまう。下方の三界とは、人間界や地獄のある大地の世界、大地から太陽までの空間、無数の星が存在する宇宙空間の3つの世界である。
この破局は次のようにもたらされる。
ブラフマー神の一日の終わりになると、この世の大地は何も生み出さなくなり、生物も死んでしまう。このとき、宇宙の根本原理であるヴィシュヌ神が破壊神であるシヴァ神に化身し、太陽と一体となって地上から水分を蒸発させてしまう。ヴィシュヌ神はさらに炎となって地上と地獄を焼き付くしてしまう。この炎は激しく、大地は変形してしまう。炎はさらに激しくなり、空間も星々のある宇宙空間も焼き付くしてしまう。すべてが焼き尽くされた後でヴィシュヌ神は口から巨大な雲を吐き出す。この雲から滝のような雨が100年間降り続く。この雨のために地上はもちろん三界のすべてが水の下に沈んでしまう。この後で、ヴィシュヌはすべての雲を吹き払い、ブラフマー神も飲み込むと、アナンタ竜を船代わりにして大海の上で眠りにつく。こうして、何もかもが宇宙が始まる以前の状態に戻るのである。
ところで、このときヴィシュヌが眠っている眠りは、ヴィシュヌにとっては本来の眠りではない。これはヴィシュヌ神のヨーガの眠りで、仮眠のようなもので、このときのヴィシュヌはブラフマー神の姿で眠るともいわれる。この眠りはブラフマー神の眠りでもあるので、ブラフマー神の夜に当たる1カルパの間続く。その期間が終わると、ヴィシュヌの中から目覚めたブラフマー神が出現し、再び宇宙を作り始めるのである。
■ブラフマー神の一日のはじめの世界の創造
ブラフマー神の一日の終わりに終末を迎えた宇宙は、ブラフマー神の一日の始まりに再び創造されるが、これは次のような手順で行われるとされている。
一日の始めにヴィシュヌ神の中からブラフマー神が出現するときには空界も天界も存在せず、大地は海の底に沈んでいるので、ブラフマー神は何よりもまず水に沈んだ大地を引き上げる必要がある。このとき、ブラフマー神はいろいろな生き物になって大地を引き上げる作業をする。現在、私たちが生きているカルパの初めには、ブラフマー神は野猪に変身し、その牙によって大地を引き上げたとされている。このことから、現在のカルパは野猪カルパという名で呼ばれている。引き上げた大地には山々や大陸が作られる。(注4)
大地を作った後で、ブラフマー神は失われてしまった空界、天界を創造する。
植物、動物、人間が作られるのはその後である。しかし、ここで作られる動植物は、以前の世界と関係ない新しい存在なのではない。以前の世界で生きていたものはすべてそれぞれに業(カルマ)を背負っているので、この業に応じて新しい生き物が作られるのである。
ブラフマー神の一生の終わりの破局
ブラフマー神の一生の終わりにやってくる宇宙の終末は、一日の終わりにやってくる終末よりもはるかに徹底したものである。ブラフマー神の一日の終わりにやってくるのは、この世の形あるものが崩れ去り、すべてが海に没してしまうという終末だが、ブラフマー神の一生の終わりにおいては、宇宙に存在するあらゆる原子的なもの、物事を形作っている存在のもっとも細かな単位である要素のようなものまでがすべて消滅してしまうのである。
ブラフマー神の一生の終わりは当然、ブラフマー神の生涯の最後の一日の後にやってくるので、このときの終末の出来事は一日の終わりの終末によって三界が海の中に沈んでしまった後に始まることになる。
このときになると「水」が「地」を飲み込み始めるが、この飲み込み方は徹底していて、「水」は「地」の特性までも飲み込んでしまう。このために「地」はいつの間にか「水」になってしまう。この段階が終わると、まったく同じような飲み込みが順次行われる。これによって、「水」は「火」になり、「火」は「風」になり、「風」は「空」になる。
この変化は第一段階では、ブラフマーが創造した宇宙の内部で起こる。この宇宙は卵形をしているので、ブラフマーの卵と呼ばれている。しかし、ヴィシュヌ神の宇宙はさらに大きなもので、ブラフマーの卵の外側にも宇宙がある。(注5)そこで、終末の第二段階として、ブラフマーの卵そのものが、その外側の存在に飲み込まれるという過程が起こる。この過程も卵の内部の過程と対応しており、「ブラフマーの卵」が「水」に飲み込まれ、「水」は「火」に飲み込まれる。こうしてすべてが「空」になると、さらに上位のものがこの「空」を飲み込む。最終的に宇宙に存在したすべては宇宙の「根本原質」という抽象的な概念に飲み込まれる。この「根本原質」はこれ以外には何も考えられないような唯一の存在であり、絶対的なヴィシュヌ神なのである。
とはいえ、ブラフマー神の一生が終わったところで、宇宙の歴史が完全に終わってしまうわけではない。このときから、ヴィシュヌ神は夜の眠りに入るが、やがてヴィシュヌ神の夜が終われば、ブラフマー神が再び誕生し、基本的なところから宇宙の創造が行われるのである。
ブラフマー神の一生の始まりにおける宇宙の創造は、ここで述べた宇宙の破局とまったく逆の順番で起こるので、詳しく繰り返す必要はないだろう。
このようにして、ヒンドゥー教の宇宙では、宇宙の創造と終末が、恐ろしく長い時間を周期として、無限に繰り返されていくのである。
(注1)紀元前1500年頃、インド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人たちがロシアの方からインドに侵入したが、この民族がインドで興した宗教をヴェーダの宗教と呼ぶ。また、この時代に書かれた諸聖典はヴェーダ聖典と呼ばれる。
(注2)紀元前10世紀頃を中心に書かれたヴェーダ聖典の後、紀元前8世紀頃から、インドでは「ウパニシャッド」と呼ばれる宗教書が書かれるようになった。インドに輪廻転生の思想が登場したのはこの時代で、ウパニシャッドのなかでたびたび言及されている。
(注3)ブラフマー神の宇宙は全体で卵形をしており、これが7層に分かれている。それぞれに名前があり、上方の層から順に、サティヤ・ローカ、タポー・ローカ、ジャナ・ローカ、マハル・ローカ、スヴァル・ローカ、ブヴァル・ローカ、ブール・ローカという。ブラフマー神の一日の終わりに破局を迎えるのは、このうち下方の3つの層である。卵形をしたブラフマー神の宇宙は「ブラフマーの卵」という名で呼ばれる。
(注4)ヒンドゥー教の宇宙観では、人間の住む大地には7つの大陸があるとされている。大地は円形をしており、その中央に円形の大陸がある。残りの6つの大陸は、内側にある大陸を取り巻くドーナツ型をしており、大陸と大陸の間にはやはりドーナツ型の海がある。ブラフマー神は一日の初めに、必ずこのような世界を作るのである。
(注5)ブラフマー神の宇宙であるブラフマーの卵はさらにいくつかの層で取り巻かれている。この層は合計7つあり、卵に近い方から、「水」、「火」、「風」、「空」、「元素の初源」、「大なるもの」、「根本原質」と呼ばれる。
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世界の終わりの話目次 |
第1部 世紀末と終末論
世紀末と終末論の基礎知識
歴史観と終末論の種類
世界の紀年法と暦法
第2部 神話・終末文書に描かれた終末
第1章 円環的な歴史の中の終末
概説
洪水神話
北欧神話の終末(ラグナレク)
ヒンズー教の終末(永劫回帰)
第2章 直線的歴史と終末
概説/ユダヤ・キリスト教の終末文書
ダニエル書の描く終末
ヨハネの黙示録の描く終末
死海文書が描く終末
エチオピア語エノク書に描かれた終末
シリア語バルク書が描く終末
シビュラの託宣が描く終末
エズラ記(ラテン語)に描かれた終末
マラキ書が描く終末
コーランに描かれた終末
第3章 異教の終末文書
概説
ゾロアスター教の終末
仏教と末法思想の終末
マヤ・アステカ神話の終末
グノーシス主義が描く終末
パウロの黙示録に描かれた終末
第4章 千年王国思想
概説
『神の国』の千年王国
フィオーレのヨアキムが語る千年王国
カンパネッラの語る『太陽の都』
第三部 19世紀の世紀末と終末観
近代にも生きている終末思想
進化の果てに訪れる絶望的世界―H.G.ウエルズ『タイム・マシン』―1895
世紀末の人工ユートピアを求めて―J.K.ユイスマンス『さかしま』―1884
あとがき―未来が終末を迎えた |
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