小説
イオの末裔
〔Kindle版〕
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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第二部 神話・終末文書に描かれた終末 |
第四章 千年王国思想 |
『神の国』が語る千年王国
■『神の国』の基礎知識
ヨハネの黙示録やその他の黙示文書の中でいきいきと語られている千年王国思想は、西暦1、2世紀頃の人々にはまさに文字どおりに受け取られた。人々は千年王国が現実的にいますぐにも実現すると信じ、同時にそれを待望したのである。このような流行はキリスト教徒の範囲を超えて広まったので、キリスト教の拡大にも役立った。
しかし、いますぐにも実現するはずの千年王国がなかなか実現しないという現実は、千年王国思想に対する疑いも生み出した。3世紀になると、古代教会の有力神学者だったオリゲネスが、千年王国は決して物質的なものではなく、信者の心の中にだけ現れる現象だという考えを主張した。4世紀末期には、キリスト教はローマ帝国の国教となり、地中海世界で最も強力な宗教になっており、教会の組織も整っていた。したがって、明日にもこの世が終わるという千年王国思想が、いまや支配者である教会によって拒否されるのは当然の成りゆきだった。
このような流れを決定づけたのが、5世紀初頭に書かれた聖アウグスティヌス(354~430年)の『神の国』である。
アウグスティヌスは396年から、カルタゴからそう遠くないアフリカ北岸にあったヒッポの教会の司教を務めたが、『告白』、『三位一体論』などの著作によってキリスト教会だけでなく後世のヨーロッパの思想に多大な影響を与えた人物で、中世最大の教父といわれている人物である。
『神の国』はその主著だが、この中でアウグスティヌスは、神の国(千年王国)はキリスト教発生とともに始まっており、教会の中に実現されていると主張したのである。
時宜にかなったこの考えはすぐにも教会によって正当な教理と認められた。これ以降、少なくとも教会側にとっては、千年王国思想は完全に否定されるべきものとなったのである。実のところ、アウグスティヌスは神の国と地上の教会を完全に同一視したわけではなかったし、終末を信じていないわけではなかったが、彼の著作が千年王国思想を封じ込める働きをしたことは確かだった。もちろん、教会の外側では、千年王国思想を信じる人たちは多かったが。
ここでは、このあたりのことに注意しながら、アウグスティヌスが語る千年王国の概観や教会によって拒絶されるまでの千年王国思想の流れを追ってみたい。
■千年王国思想の流行
千年王国思想が隆盛を極めたのは1~2世紀の時代である。この当時の人々は千年王国の到来を熱狂的に信じていたが、ノーマン・コーンは『千年王国の追求』という本の中で、このような熱狂の例としてモンタノス主義者の運動を取り上げている。
それによれば、西暦156年に、フリギアにおいて、モンタノスという人物が、自分はヨハネの黙示録に預言された聖霊の化身であると宣言したことがあった。すると、すぐにも彼のまわりに熱狂的な信者が集まり、個人的な幻想体験を神から授かったものと信じるようになったという。その幻想のテーマは、神の王国に関するもので、間もなく新しいエルサレムが天からフリギアの地に降りて来るというもので、このために彼らはすべてのキリスト教徒をフリギアに召集し、断食などをしながら、主の再臨を待とうとしたのである。177年以降にキリスト教徒たちへの迫害が強化されると、モンタノス主義は小アジアやアフリカ、ローマ、ガリアにまで広まった。
千年王国が到来するという期待は、4世紀にはメシアとローマ帝国皇帝を同一視する最後の皇帝の神話も生み出した。この神話は、ローマ帝国皇帝の末裔である最後の皇帝が、悪の代表であるゴグとマゴグを打ち破り、その後にローマ帝国の終焉の徴として、神に帝冠を返還するというものだが、この神話はその後1000年間もキリスト教徒の間に生きていたといわれる。
このように、千年王国思想は古代はもちろん古代末期においても多くの人々に受け入れられており、創造性にも富んでいた。
しかし、組織においても制度においても確立されたキリスト教会にとって、このような思想が受け入れがたいのも事実だった。アウグスティヌスの『神の国』が書かれたのはこのような時代だった。
■教会こそ実現された千年王国である
西暦410年に西ゴート族がローマに侵入して略奪をほしいままにするという忌まわしい災厄があったが、この事件は反キリスト教的な動きを活発にした。ローマを襲った災厄は、古来の神々を捨てた神罰であって、いまこそキリスト教を退けなければならないと考えられたからだ。アウグスティヌスの『神の国』はこのような人々の非難からキリスト教を守るために書かれたものである。
神の国は教会の中に実現されているという考えはこの書の中で述べられており、これが教会の教理として認められたわけだが、アウグスティヌスの主張は中世以降においてしばしば誤解されたというのが現在の一般的な見方である。例えば、アウグスティヌスは神の国と教会とを完全に同一のものとはいっていないが、これらを同一のものと考えることから、教会をこの世で至上のものとするような誤謬が生まれたというのである。
では、アウグスティヌスにとって、神の国とはどのようなものなのだろうか?
『神の国』では、神の国は地上の国と対比されており、神を愛し、自己をさげすむ愛が神の国を、自己を愛し、神をさげすむ愛が地上の国を造ったとしている。これら2つの国がどこにあるかについては2通りの解釈がある。1つによれば、神の国は教会であり、地上の国は現実の諸国家ということになる。もう1つによれば、どちらも理念であって、現実と対応させられないものだという。
したがって、神の国は教会によって実現されてはいるが、これら2つは完全に一致するものではないのである。もしも、これらが一致するものならば、教会は完全に理想的な存在となるわけだが、アウグスティヌスはそのようにはいっていない。彼によれば、教会の中にも邪悪なものは存在し、教会の外にも善なるものは存在するのである。
そこで、神の国は教会において実現されてはいるものの、それはまだ不完全なものだということになる。アウグスティヌスによれば、地上に実現された神の国はこのように不完全なもので、やがて終末において完全なものとなるために、時間の中を進んでいくものなのである。
この神の国が始まったのは、イエス・キリストが誕生したときである。それいらいずっと地上における神の国は存在している。
しかし、終末がいつ来るか、地上における神の国がどれだけ続くかということにはアウグスティヌスは答えない。そのようなことは神だけが知っているからである。
■どこまでも均質に続く時間
アウグスティヌスは教会の中に神の国(千年王国)は実現されているとし、それがいつやってくるかわからない終末の日まで続くと考えている。
終末の日がいつ来るかわからない以上は、終末までのプログラムを思い描くのは無意味だということである。
黙示文学や古代ユダヤには、神が世界を創造した7日間という創世記の記述に基づいて、世界の歴史を7千年とする考えがしばしば見られる。世界は6千年間持続し、その後で神の子が悪しき者たちを退治して、7千年目に真の休息(神の国)が手にはいるというのである。
アウグスティヌスもこのような考えを認めており、イエスは第六時代の初めに誕生したと考えていた。また、彼は古代ギリシアの思想に見られたような循環的な歴史観を徹底的に非難しており、歴史は直線的に進むと考えていた。
しかし、アウグスティヌスは進歩というような考えは認めなかったのである。彼にいわせれば、人間にとっては時間は均質なものなのである。終末の日は必ず訪れ、そのときには神の国は真に完成したものとなるが、神の国が築かれる過程は神だけに明らかであり、人間の目には見えないものだからである。
■それでもこの世の終末はある
イエス・キリストが出現したときから地上における神の国は実現され、終末の日はいつ来るかわからないと考えていたアウグスティヌスだが、終末の日が来たときに死者が復活することや、最後の審判が行われるということは信じていたようである。
千年王国がすでに実現されているというと、新約聖書正典であるヨハネの黙示録に完全に反するようだが、アウグスティヌスには初めからそれに対抗しようなどという意図はまったくないのである。
例えば、ヨハネの黙示録には、千年王国を語る部分に、天使がサタンを千年の間縛り、底なしの淵に投げ入れたという記述がある。もしも、この千年を千年王国樹立の初めの出来事とすれば、千年王国が続く千年間は悪の存在しない世界だと解釈でき、アウグスティヌスの語る地上の神の国が不完全だということと矛盾することになる。しかし、アウグスティヌスはこの千年という記述を次のように解釈するのである。
「ところで千年は、わたしの見るところでは、二つの仕方で理解されることができる。その一つは、あの出来事は最後の千年に、すなわちいわば第六日――その終わりの時間がいま経過していて、さらに夕べをもたぬ安息日、つまり終わりなき聖徒たちの休息がつづく――その第六日たる第六千年に起こるのであるから、ヨハネはまだ世の終わりに至るまで残っているこの日の、つまりこの千年の最後の部分を、あたかも全体によって部分を表すような語り方で千年の呼んだのである。いま一つは、完全な数によって時の充実そのものが注目されるよう、たしかにヨハネはこの世の年数全体のために千年を用いた」
これによれば、悪魔が縛られるのは千年王国が続く期間の最後の頃のこととなるし、千年という数も、実際の千年を表していると考えなくてもすむことになる。そして、アウグスティヌスの考えは、ヨハネの黙示論とも矛盾しなくてすむようになるのである。
『神の国』の中でも、とくに第20巻から22巻にかけて、アウグスティヌスは過去のさまざまなキリスト教文献に現れた終末の預言をとりあげて吟味しているが、その中には終末ということに関して興味深い記述が多いのである。
ここで、その一例を挙げてみよう。終末の日に死者たちが生きているときと同じ完全な身体で復活するというのは黙示文書で必ず語られることだが、もしも、ある危機的な状況で人肉食が行われ、喰われた人間も喰った人間も死んでいた場合はどうなるのだろうか? 喰われた人間の身体は喰った人間の身体の一部分になっているのだから、これらの死者が両方とも生きているときと同じ姿で復活するのは不可能なように感じられる。
アウグスティヌスによれば、この場合でも両者は生きていたときの姿で復活するのである。というのは、喰われてしまった人間の肉は、喰った人間から見れば借り物なので、それは喰われた人間に返される。喰ったものを返してしまうと喰った人間には不足が生じる。この不足した部分は、人肉を喰う以前にどこかへ失われたといえるが、その失われたものもすっかり回収されるからである。また、世界のどこにも見つからない場合は、神がそれを造って補うことができるのである。 |
世界の終わりの話目次 |
第1部 世紀末と終末論
世紀末と終末論の基礎知識
歴史観と終末論の種類
世界の紀年法と暦法
第2部 神話・終末文書に描かれた終末
第1章 円環的な歴史の中の終末
概説
洪水神話
北欧神話の終末(ラグナレク)
ヒンズー教の終末(永劫回帰)
第2章 直線的歴史と終末
概説/ユダヤ・キリスト教の終末文書
ダニエル書の描く終末
ヨハネの黙示録の描く終末
死海文書が描く終末
エチオピア語エノク書に描かれた終末
シリア語バルク書が描く終末
シビュラの託宣が描く終末
エズラ記(ラテン語)に描かれた終末
マラキ書が描く終末
コーランに描かれた終末
第3章 異教の終末文書
概説
ゾロアスター教の終末
仏教と末法思想の終末
マヤ・アステカ神話の終末
グノーシス主義が描く終末
パウロの黙示録に描かれた終末
第4章 千年王国思想
概説
『神の国』の千年王国
フィオーレのヨアキムが語る千年王国
カンパネッラの語る『太陽の都』
第三部 19世紀の世紀末と終末観
近代にも生きている終末思想
進化の果てに訪れる絶望的世界―H.G.ウエルズ『タイム・マシン』―1895
世紀末の人工ユートピアを求めて―J.K.ユイスマンス『さかしま』―1884
あとがき―未来が終末を迎えた |
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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