小説
イオの末裔
〔Kindle版〕
販売開始しました。 |
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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第三部 19世紀の世紀末と終末観 |
あとがき―未来が終末を迎えた
これまで、本書ではユダヤ教・キリスト教の終末論だけでなく、さまざまなタイプの終末論を概観してきた。さらに、これらの終末思想は決して死せる思想ではなく、近代社会にまで大きな影響を与えたものだということを確認した。
ところで、このような流れの最後に19世紀世紀末の終末観を配置すると、その時代に一体何が終わったのかという疑問がわいてくる。何故なら、近代そのものが終末論の影響下にあったとすると、19世紀の世紀末にあっては、終末論の内部において、何かが終わったということになるからだ。
そんなわけで、19世紀の世紀末に何かが終わったとしたら、一体何が終わったのかということを最後に考えてみたい。
ここで、著者の勝手な考えをいわせてもらうと、19世紀世紀末に終末を迎えたのは、私たちが住んでいるこの世界ではなくて、私たちがやがて到達するはずの未来の世界なのではないかと思う。
つまり、私たちにはもう、未来はないのである。
このような言い方は、確かに奇妙なものに聞こえるかも知れない。単純に一直線に過ぎていく時間というものだけを考えれば、私たちに未来が失われたわけではない。私たちは多分、ほぼ確実に明日を迎えることも来年を迎えることも、おそらくは21世紀を迎えることもできるからだ。が、ここで未来といっているのは、そのような未来ではない。それは現在とは明らかに異なる、次なるレベルとしての未来である。終末論的な意味での未来といってもいいかも知れない。
このことは、直線的な歴史観を取るか、円観的な歴史観を取るかに関係なくあてはまることだろうと思う。ユダヤ教・キリスト教的な歴史観に即していえば、私たちにはもはや幸福な千年王国は来ないということができる。ヒンドゥー教のような円観的な歴史観に即していえば、私たちにはもう次の円環は巡ってこないということができるからである。
このことは、喜ぶべきことだろうか、悲しむべきことだろうか?
次のレベルが来ないということは、私たちには終末らしい終末は訪れないということだから、その意味では喜んでもいいような気はする。
しかし、次のレベルが来ないということは、同時に、私たちはすでに終わっているということを意味しているのではないだろうか。もしそうだとしたら、喜んでばかりもいられないのである。
私たちがすでに終わっているということに関していえば、例えばこんな話がある。人間の成しうる可能性はすべてDNAの中にインプットされているといわれるが、もしそうであるならば、人間の可能性はDNAの内部においてすでに潜在的には実現されているのであり、終わっているのも同じだというのである。
未来が失われているという状況は、19世紀末も現在もあまり変わりがないように見える。未来が見えないという発言は、現在もあちこちで聞かれるものである。
このように考えてみると、私たちがどうやら終わりに近い場所で生きていることだけは確からしいように思える。とはいえ、それは決定的な終わりを持たない終わりである。反比例の双曲線が、無限にX軸とY軸に近づいていくように、私たちは終わりの時代を生きているわけだ。
このような時代に、新しい未来像について颯爽と語ることができれば、それはそれでかっこいいには違いないが、それは楽天的な19世紀に逆行することでもある。また、明らかにそれとわかるような終末を語ることも、過去への逆行であるように思える。
では、どうすればいいか? しかし、このような問いは発しない方がいいかも知れない。この問いに対する明確で意味深い答えは、すべて間違っているに違いないと思えるからである。これが、終末論に関して1冊の本を書いた後での、極めて個人的な感想である。 |
世界の終わりの話目次 |
第1部 世紀末と終末論
世紀末と終末論の基礎知識
歴史観と終末論の種類
世界の紀年法と暦法
第2部 神話・終末文書に描かれた終末
第1章 円環的な歴史の中の終末
概説
洪水神話
北欧神話の終末(ラグナレク)
ヒンズー教の終末(永劫回帰)
第2章 直線的歴史と終末
概説/ユダヤ・キリスト教の終末文書
ダニエル書の描く終末
ヨハネの黙示録の描く終末
死海文書が描く終末
エチオピア語エノク書に描かれた終末
シリア語バルク書が描く終末
シビュラの託宣が描く終末
エズラ記(ラテン語)に描かれた終末
マラキ書が描く終末
コーランに描かれた終末
第3章 異教の終末文書
概説
ゾロアスター教の終末
仏教と末法思想の終末
マヤ・アステカ神話の終末
グノーシス主義が描く終末
パウロの黙示録に描かれた終末
第4章 千年王国思想
概説
『神の国』の千年王国
フィオーレのヨアキムが語る千年王国
カンパネッラの語る『太陽の都』
第三部 19世紀の世紀末と終末観
近代にも生きている終末思想
進化の果てに訪れる絶望的世界―H.G.ウエルズ『タイム・マシン』―1895
世紀末の人工ユートピアを求めて―J.K.ユイスマンス『さかしま』―1884
あとがき―未来が終末を迎えた |
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イオの末裔
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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