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フランボワイヤン・ワールド
世界の終わりの話
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

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《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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第二部 神話・終末文書に描かれた終末
第三章 異教の終末文書
仏教と末法思想の終末

■仏教と末法思想の基礎知識

 仏教は紀元前6世紀頃の北東インドで始まった宗教である。当時のインドで支配的だったバラモン教と同じように輪廻転生と解脱を基本にしている。輪廻転生は、この世に生きているものは死後に生まれ変わって再びこの世に誕生するという思想だが、仏教の考え方ではこの世は苦悩に満ちているので、輪廻転生は一種の悪循環であって望ましくない状態だとされる。そして、このような状態から逃れることが解脱であって、それが仏教の目標だという。
 ところで、仏教は日本でもなじみの深い宗教なので、地獄や極楽だけに限らず、その複雑精緻な宇宙観に触れたことのある人は多いかも知れない。しかし、仏教の目的はあくまでも解脱であって、初期の仏教は複雑な神話や宇宙観を持っていなかったといわれている。創始者である釈迦の死後にさまざまな経典が編まれるようになり、その中で複雑な宇宙観が作られ、それと一緒に宇宙の生成や消滅に関する理論も作られたのである。
 こうして、最初に作られた仏教の終末論は、仏教と同じように輪廻転生を前提としているヒンズー教の終末論に類似した性格を持っている。つまり、仏教の宇宙観では、生き物が輪廻転生するのと同じように、宇宙そのものも生成と消滅のパターンを永遠に繰り返すと考えるのである。したがって、仏教の終末論は、ヒンズー教の終末論と同様に典型的に循環的なものだといえる。
 ところが、仏教にはこれとはまったく性格の異なる終末論も存在する。平安時代後期に日本でも流行した末法思想に見られる終末論である。これは、釈迦の死後にこの世はどんどん悪化して、最後にはどうしようもない暗黒時代が来るとするもので、完全に直線的な終末論といえるものである。
 ここでは、仏教に見られるこれら2種類の終末論を取り上げている。仏教の終末論をその他の終末論としたのもこのためである。

■仏教の世界と三千大世界

 仏教が最初に作り上げた終末論は宇宙は生成と消滅を繰り返すという循環的なものだが、これは仏教独特の壮大な宇宙観と結びついているので、まず初めに仏教が語る宇宙観を見ておきたい。
 仏教の考え方によると、死後の人間は生前の生き方によって6つの道に生まれ変わる可能性があるとされる。これを六道と呼ぶが、これには地獄道、畜生道、餓鬼道、阿修羅道、人道、天道がある。この世に生きている生き物は、解脱しない限り、永遠にこの六道の中で輪廻転生を繰り返すのである。
 この六道が1組になって1つの世界ができあがる。したがって、私たちが住んでいるこの世界にも、人間が生きている人道の他に、5つの道が存在することになる。私たちが死後に輪廻転生するのは、この世界の中の六道であって、別の世界の六道ではない。1つの世界には1つの太陽と1つの月があるといわれるので、仏教のいう世界は私たちが太陽系と呼んでいるものに相当するといえる。
 しかし、仏教の宇宙にはこのような世界が数多く存在するといわれる。その数は1000の三乗(十億個)で、これだけの数の世界が集まった宇宙を三千大世界という。
 この三千大世界が仏教の終末論の対象である。単に地球だけとか太陽系だけという問題ではなく、恐ろしく壮大な三千大世界のすべてが同時に生成したり消滅したりを繰り返すのである。

■宇宙(三千大世界)の周期的変化

 仏教において永遠に繰り返されるとされている三千大世界の生成と消滅は完全に規則的、周期的なものである。仏教では三千大世界が生成と消滅を繰り返す1つの期間を1大劫と呼んでいる。1大劫は80劫からなる。ここで劫というのは時間の単位だが、一辺が7km以上もある巨大な立方体の岩石を柔らかい布で百年に一度だけ軽く払うということを繰り返したとき、岩石が消滅してなくなるまでに必要な時間よりも長い時間だといわれる。したがって、劫も1大劫も想像を絶するほどに長大な時間である。
 三千大世界はこのように長大な時間をかけて生成と消滅を繰り返すわけだが、その1周期(つまり1大劫)には次のような4つの段階がある。1段階の長さはどれも20劫である。
成劫(せいごう) 生き物たちの業の力で、完全に消滅してむなしい状態(空劫)にあった世界がゆっくりと再構成され、そこに生き物たちが住み始めるようになるまでの期間。
住劫(じゅうごう) 世界が完成し、その中で生き物たちが生きている期間。住劫の期間である20劫の間、人間や生き物の寿命は規則的に増減を繰り返すとされている。住劫になったばかりのとき、人間の寿命は無限だが、最初の1劫が終わるまでに十歳にまで減じる。第2劫から19劫までの間は、1劫の間に寿命が十歳から8万歳へ増加した後、再び十歳にまで減じるという増減を繰り返す。最後の第20劫において、十歳の寿命が8万歳まで延びたところで住劫がおわるという。したがって、住劫の中には、人間の寿命が8万歳から十歳にまで減じるときが、19回あることになるが、人間の寿命が十歳にまで減じた時期には、戦争、疾病、飢饉という3つの災いが生じるという。災害の期間も決まっていて、戦争は7日間、疾病は7カ月と7日間、飢饉は7年と7カ月と7日間続くとされている。
壊劫(えごう) 世界が壊れていく時期。この時期に世界は地獄から順に生き物が住めなくなり、生き物すべてが生きられなくなった後で物質の世界が壊れて消滅してしまう。宇宙を消し去る災害には火災・水災・風災の3種類(次項「宇宙壊滅のメカニズム」参照)がある。
空劫(くうごう) 世界が消滅した後、ただむなしい空間だけが存在している期間。

 以上に述べた4段階が1大劫の中に順番で現れ、1周期が終わると新しい1大劫が始まるわけである。
 しかし、ここで述べた1大劫は単純に永遠に繰り返されるわけではない。仏教においては、1大劫が64個集まったさらに大きな周期があり、その周期によって宇宙壊滅のメカニズムが異なってくるのである。

■64転大劫による宇宙壊滅のメカニズム

 宇宙が壊滅するのは1大劫の中の壊劫の段階に当たり、壊滅を引き起こす災害には火災・水災・風災の3種類がある。
 火災は火による破滅であり、空に7つの太陽が出現してこの世を焼き尽くすもの、水災は大豪雨、風災は暴風雨による破滅である。
 しかし、これらの災害は同時に起こるわけではない。宇宙の壊滅はいつもこのうちの1種類の災害によって引き起こされるのである。
 火災・水災・風災のうちいずれの災害で宇宙が壊滅するかは、1大劫よりもさらに大きな周期によって決まっている。この周期は64転大劫と呼ばれるものだが、これは1大劫を64個集めた恐ろしく長い周期で、これによって次のような規則で災害が起こるとされている。
 64転大劫のうち最後(第64番目)の1大劫だけが風災によって滅びる。第1から第63の大劫のうち、8の倍数にあたる大劫は水災によって滅びる。残りの大劫は火災によって滅びる。
 したがって、64転大劫の間に、風災によって宇宙が滅びるのは1度、水災によるものが7度、火災によるものが56度ということになるのである。

■末法思想における終末状況

 日本で平安時代後期に流行した末法思想の終末論は、これまでに述べた周期的な宇宙壊滅の論理とは異なっている。しかし、周期的な宇宙壊滅の理論と矛盾しているというわけではなく、双方の理論が共存しても差し支えないものになっている。
 末法思想は、仏教の創始者である釈迦の死後、釈迦の教えである仏法がしょうほう正法・ぞうほう像法・末法という三段階を経て失われ、やがては最悪の時代が来るという直線的な終末思想である。
 この説によれば正法・像法・末法というのは次のような時代だという。
正法 真の仏法が存在するよい時代である。ここで真の仏法といっているのは、教(釈迦の教え)、行(釈迦の教えを実践する修行者)、証(修行の成果である悟り)の3つがそろっているということである。
像法 教と行は存在するが、証が手に入らなくなっている時代。釈迦の教えを実践しようという意欲はあるのだが、悟りを得ることはできないので仏教は形ばかりのものになってしまうという。
末法 釈迦の教えだけは経典などの形で残ってはいるが、それを実践するものはなく、当然悟りも存在しない。仏教が廃れきってしまった時代である。そして、この時代が終わると共に、この世は法滅尽(ほうめつじん)(仏教が消え去った完全なる暗黒時代)に入るのだという。

 これらの三段階の時期には特定の年数も定められている。その長さは説によって異なるが、正法・像法は500年または1000年、末法は1万年とするものやとくに期限を定めないものがある。したがって、どの説を採るかで末法に入る時代が異なってくるのである。

■五五百歳説と末法思想

 末法思想の源流は釈迦の死後500年ほどしたインドの仏教教団にすでにあったといわれているが、最初に流行したのは紀元6世紀頃の中国である。
 この時代に中国語に翻訳された『だいしゅうがつぞうきょう大集月蔵経』にある〈五五百歳説〉が三段階の末法思想の根拠にされたという。この説は釈迦の死後に5個の500年を経て法滅尽にいたるというもので、終末までに次のような5段階があるとするものである。
解脱堅固(げだつけんご) 釈迦の死後、第1の500年。正法が存在しており、修行によって悟ることもできる時代だという。
禅定(ぜんじょう)堅固 第2の500年。座禅による瞑想が尊ばれる時代で、像法の初に当たるという。
多聞(たもん)堅固 第3の500年。行は衰えてしまうが、経典の知識は重んじられ、戒律も守られる時代。像法の末にあたるという。
造寺(ぞうじ)堅固 第4の500年。行も証も存在しないが、寺院や堂塔が盛んに建立される時代である。末法の初にあたる。
闘諍(とうじょう)堅固 最後の500年。釈迦の教えは力を失い、僧侶たちは戒律を守らなくなる。しかも、誰もが自説に固執して互いに争い合うようになり、邪見も増してくる時代である。末法の末に当たる。

 五五百歳説は、末法思想の根拠とされた思想だが、末法の期間も500年となっているため、法滅尽に至るまでの年数に関しては一般的な末法思想よりもはるかに早いものになっている。

■日本における末法時代

 末法思想が日本に輸入されたのは紀元8世紀頃だといわれている。日本では釈迦の入滅は紀元前949年と信じられていたので、もしも正法500年、像法1000年と考えれば、8世紀の日本はすでに末法の時代に入っていたことになる。が、この時代は仏教が国家的に保護されていた最盛期の時代でもあり、末法思想は流行とはならなかったという。
 日本における末法思想の流行は平安時代後期に起こった。この時代は貴族社会が解体し始めた時期であり、それだけでも貴族たちは不安だったが、それに追い打ちをかけるように疫病や飢饉などの自然災害が相次いだ。しかも、正法1000年、像法1000年と考えると、紀元1052年から末法の時代が始まる計算になる。このため、この年以降は貴族から大衆に至るまで末法思想の虜となって、無常観や厭世観がひろまったという。僧侶たちの間では、仏法が滅尽してしまうときのために、経典を書写して、経塚に埋めることも盛んになったりしたといわれている。

■末法思想と宇宙壊滅理論の組み合わせ

 これまでに見てきたように、仏教が当初から持っていた宇宙壊滅の理論は円環的なものであり、釈迦の死後に時代がどんどん悪くなって最終的には法滅尽に至るとする末法思想は直線的なものである。このため、この2つの終末論は互いに矛盾するように見える。が、けっしてそんなことはない。
 仏教では最高の真理を得ることで解脱した人のことを仏とか仏陀と呼ぶが、この仏陀はこの世が生成と消滅を繰り返す1大劫の間に1人だけ出現するとされている。つまり、〈仏陀〉というのは普通名詞であって固有名詞ではない。現在私たちが生きている世界では、仏陀といえば釈迦のことである。これはインドに生まれた釈迦という人物が最高の真理を会得することで仏陀となったからである。したがって、この世が消滅して新しい世が誕生したときには、また新しい仏陀が1人だけ登場することになるわけである。
 そこで、仏陀の死後にこの世がどんどん悪くなると考える末法思想は、釈迦の次に誕生してくる仏陀の死後に繰り返し当てはめることができるのである。
 しかも、仏教では釈迦の次に登場する仏陀がすでに決まっている。現在、みろく弥勒と呼ばれている菩薩である。菩薩というのはいつか仏陀になることができるとされている人のことだが、一説によると、釈迦の死後56億7千万年後に弥勒菩薩が仏陀となってこの世に出現するのだという。 
世界の終わりの話目次
第1部 世紀末と終末論
世紀末と終末論の基礎知識
歴史観と終末論の種類
世界の紀年法と暦法

第2部 神話・終末文書に描かれた終末
第1章 円環的な歴史の中の終末
概説
洪水神話
北欧神話の終末(ラグナレク)
ヒンズー教の終末(永劫回帰)

第2章 直線的歴史と終末
概説/ユダヤ・キリスト教の終末文書
ダニエル書の描く終末
ヨハネの黙示録の描く終末
死海文書が描く終末
エチオピア語エノク書に描かれた終末
シリア語バルク書が描く終末
シビュラの託宣が描く終末
エズラ記(ラテン語)に描かれた終末
マラキ書が描く終末
コーランに描かれた終末

第3章 異教の終末文書
概説
ゾロアスター教の終末
仏教と末法思想の終末
マヤ・アステカ神話の終末
グノーシス主義が描く終末
パウロの黙示録に描かれた終末

第4章 千年王国思想
概説
『神の国』の千年王国
フィオーレのヨアキムが語る千年王国
カンパネッラの語る『太陽の都』

第三部 19世紀の世紀末と終末観

近代にも生きている終末思想
進化の果てに訪れる絶望的世界―H.G.ウエルズ『タイム・マシン』―1895
世紀末の人工ユートピアを求めて―J.K.ユイスマンス『さかしま』―1884
あとがき―未来が終末を迎えた 

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 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。

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