小説
イオの末裔
〔Kindle版〕
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《内容》
教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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第二部 神話・終末文書に描かれた終末 |
第二章 直線的歴史と終末 |
コーランに描かれた終末
■コーランの予備知識
コーランは紀元570年頃にアラビア半島のメッカに誕生したムハンマドを通して与えられた神の啓示をまとめたもので、イスラム教の最高の聖典とされる書物である。イスラム教はキリスト教、仏教と並ぶ世界三大宗教の1つで、現在はアフリカからインドネシアにまで及ぶ広い範囲で信仰されており、信者の数も8億から10億に及ぶといわれているほど大きな宗教勢力となっている。したがって、コーランは現在でもかなり大きな影響力を持つ書物といえるが、一読して、終末論的なイメージに溢れていることに驚かされる書物である。
ムハンマドに神の啓示が現れ始めたのは、彼が40歳になった頃からで、その後20年間にわたり間欠的に現れたといわれる。ムハンマドはこの20年間のうち最初の10年間をメッカで、後の10年間をメディナで過ごしているが、とくにメッカで語られた啓示の中に、終末の情景について語ったものが多い。
コーランの思想はユダヤ教・キリスト教の聖典である旧約聖書の流れを汲むもので、ユダヤ教を完成させるものだというのが基本的な立場である。この立場に立った上で、コーランでは唯一の神であるアッラーの偉大さと慈悲深さを徹底的に主張している。この宇宙や人間を創ったのはアッラーであり、これらの存在を現在維持しているのもアッラーの力である。このアッラーが、すべての人間に寿命を定めたのと同じように宇宙にも期限を設けたので、終末の日は必ず来るというのがコーランの主張である。そして、啓示のあちらこちらで、その日の情景が描かれている。
コーランが語る終末は、あらすじとしてはユダヤ教やキリスト教に類似したものになっており、終末の日の核心部分には「最後の審判」が置かれている。ただし、最後の審判における人間の行為の評価方法などには、コーラン独自の思想が現れている。
■泥から作られた最初の人間アダム
コーランの神アッラーは旧約聖書の神ヤハウェと同じものであり、コーランにおいても、世界は唯一の神であるアッラーによって創られたとされる。
コーランによれば、アッラーは6日間かけて天地を創ったとされているが、このときの様子はだいたい次のようなものである。天地が創られる以前、天と地は縫い合わされているようにくっついた1つのものだった。アッラーがこれをほどいて天と地という2つのものにした。次に、アッラーは地の上に山々を杭のように打ち立てて、地が揺れ動いたりしないようにした。そして、そこに豊富な食物を配置した。それからアッラーは天に昇ったが、このとき天は煙のように曖昧なものだったので、アッラーはここに7つの階層を設け、それぞれに役割を与えた。同時にアッラーは太陽と月を配置し、一番大地に近い天には無数の星々を置いたのである。アッラーは天と同じく地にも7つの区分けを設けたが、これについては地獄の7階層だという解釈もある。
天地を創ったときに、アッラーは天使、妖霊、人間、動物も創った。天使は火から、妖霊は燃え盛る炎から創られ、最初の人間であるアダムは泥から、動物たちは水から創られた。また、アダムの一部分から彼の伴侶が創られ、後世の人間がこの2人から誕生してくるようにしたのだという。
この世界のすべてを創造した神アッラーは当然この世界を滅ぼす力も持っている。コーランでは、アッラーは世界を創造するときにすでにこの力を用いていたとされている。この世に生きているものにはすべて寿命があり、この寿命はアッラーが定めたものとされるが、この世界を創造するときに、アッラーは世界そのものにも寿命を定めたのだという。
■唐突に訪れる終末の日
コーランによれば、終末の日がいつ来るのか知っているのはアッラーだけで、人間はまったくこれを予期できないため、その日はまったく突然にやってくるといっていい。ユダヤ教・キリスト教においては、世界の終末にはいくつかの前兆があるが、コーランが語る世界の終末には前兆らしきものはほとんどない。ただ1つの例外は、ヤージュージュとマージュージュと呼ばれるものが解き放たれて、崖から駆け下りてきて世界を荒らすとされていることである。ヤージュージュとマージュージュというのは、旧約聖書や『ヨハネの黙示録』の中で終末の直前に世界を混乱させるとされているゴグとマゴグ(P.**参照)のことだが、この2人(あるいは2つの種族)が、どのように世界を荒らすかは、コーランには語られていない。
このため、世界の終末はまったく唐突に訪れる。終末はまず天変地異という形でやってくる。コーランではこの天変地異を天の崩壊と地の崩壊という2つの視点で語っている。アッラーの創った天は7層で、がっしりしており、どこにも裂け目がないとされているが、終末の日にはこの天がぐらぐらと大きく揺れ、ぱっくりと割れて裂けてしまい、壊れ落ちてくるのである。しかし、信仰心のない人間たちは、このときになっても、「あれ、随分と雲が重なっているな」などというだけだという。天体の星々も、このときに命を終える。星たちは輝きを失って地上に落ちてくる。太陽も月も完全に光を失い、暗黒にぐるぐる巻きにされてしまう。
こうした崩壊は大地をも襲う。本来ならば平坦で不動のはずの大地が、ぐらぐらと激しく揺れ、砕かれ、四方八方に裂け、中にあったものをすべて吐き出して空っぽになってしまう。大地を不動のものとするために杭のように打ち立てられていた山々も、ずるずると動きだし、ついに空中を乱れ飛んで、粉々になってしまうのである。こうして、すべての山々が崩壊してしまうので、大地はついにどこまでも平坦なものになってしまう。そして、この結果、海の水が大地に流れ込んで、世界は始まる以前の混沌の状態に戻ってしまうのである。
■正気の消滅と復活
コーランは旧約聖書や福音書を前提にしているので、終末の日の出来事はユダヤ教やキリスト教のものと類似している。このことは、人間の身に起こる出来事についても同様である。
終末の日に人間の身に起こる出来事で最大のものは最後の審判だが、この審判はこの世に生きたことのある人間のすべてが受けなければならないものである。終末の日に、地上で生きていたか死んで墓の中にいたかは関係ない。そこで、終末の日に生きていたか死んでいたかによって、この日経験する出来事が少しばかり異なることになる。
終末の日には、天使が2度ラッパを吹き鳴らすが、この日に生きていたものたちは、最初のラッパが鳴り響いたとき、すべてが一度気を失うとされている。それから、2度目のラッパが鳴り響き、生きていたものも死んでいたものもすべてが、生きていたときと同じ姿で復活するのである。
この復活の場面に関しては、コーランの考えはユダヤ教やキリスト教と異なっている。ユダヤ教、キリスト教では、人間は死ぬとすぐに死後の審判を受け、天国や地獄に送られる。そこで、最後の審判は、終末の日以前に死んでいた人間にとって死後に行われる2度目の審判ということになる。しかし、コーランでは、人間の受ける審判は最後の審判だけである。コーランの場合、人間は死ぬと墓に埋められ、その墓の中で、最後の審判を待っているとされているのである。終末の日に天使が2度目のラッパを鳴らすと、死んでいた人間たちは墓の中から復活するのである。墓の中にいた人間たちは、身体が腐り、骨になったり、完全に土になってしまっているものたちもいるが、そのようなことには関係なく、すべてのものたちが生きていたときと同じ肉体を供えた姿になって復活するという。
■死後の時間感覚
ここで、とくに興味を引くのは、墓から復活したものたちの時間に関する感覚である。現実的な時間では、古い時代に死んだものと、より新しい時代に死んだものとでは、墓の中にいた時間には大きな違いがある。1000年以上も墓の中にいたものもいれば、10年間しか墓の中にいなかったものもいるはずである。しかし、コーランによれば、終末の日に復活した人間たちはみながみな、墓の中で暮らしていたのはほんの少しの期間に過ぎないと感じるのだという。たとえ何百年間も墓の中にいたとしても、復活した日には、人々はみな、自分がわずか10日間しか墓の中にいなかったとか、たった1日しかいなかったとか、極端な場合には1時間しかいなかったと感じ、近くにいるものたちとひそひそと墓の中にいた時間について話し合ったりするのである。
復活した人々は、次に神アッラーの前に集められる。このとき、人々はぞろぞろと群を成してアッラーの前に集まってくるとされている。しかし、このとき人々はただたんに群を成しているだけで、それぞれの人間の間に特別な関係もあるわけではないし、むしろ、それぞれがまったく無関係な個人として群を成して移動しているだけだといっていい。生きているときに夫婦だったとか、親子だったとか、あるいは兄弟、親戚、友人同士だったなどという関係は、終末の日にはもはや存在しなくなってしまうし、何の役にも立たなくなってしまう。あくまでも1個人として、人々は群を成してアッラーの前に集まり、そこで最後の審判を受けることになるのである。
■嘘をつけない身近な証人
コーランの語る最後の審判は、ユダヤ教やキリスト教のそれと同様に、人間が生きてきた間にしてきた行為の数々を取り上げ、その善悪を判断して、天国に行くべきか地獄に行くべきかを決めるためのものである。この判断を行うのはアッラーの神だが、コーランでは審判が行われるのは大地の上なので、審判に先立って、神の来臨があるとされている。終末の日に、どかんどかんと大地が砕かれ、そこに神が降りてくるのである。神と一緒に数多くの天使たちも隊伍を整えてやってくる。業火が燃え盛るジャハンナムと呼ばれる地獄までもが、審判の場には持ち込まれるという。
終末の日に復活した人々は、みながみなこの場所へやってきて、1人1人最後の審判を受けることになるのである。
こうして、最後の審判の場まで来ると、人間はもうどんな嘘をついても通用しないし、どんないいわけも役に立たない。最後の審判にやってくる人間は、みなそれぞれに2人の天使に付き添われている。そのうち1人は人間を追い立てる役目を持つものだが、もう1人は人間の魂の記録係だとされている。この記録係の天使は、すべての人間に1人づつ割り当てられており、人間が生きている間の行動をすべて帳簿に記録していたのである。2人の天使に伴われてアッラーの前にやってきた人間は、帳簿に記録されている善いことも悪いこともすべて見せつけられる。そして、ここで発言されたことはすべて、そばにいる番人によって記録されるのである。
審判の場所には、数多くの証人たちも登場する。興味深いのは、コーランの最後の審判では、天使や人間や妖霊ばかりでなく、舌、手、足、耳、目、肌といったその当人の身体の一部までが重要な証人となるということだ。自分の肌が突然に自分に不利なことを証言し始めたことに驚いて、「どうしておまえは自分に不利なことを証言するのだ」と文句を言っても始まらない。アッラーが肌に証言することを許しているからである。こうして、最後の審判にあっては、あらゆる意味で公正な裁判が行われるのである。
■アッラーの裁量
最後の審判を受けることで、人間はそれ以降の時間を永遠に天国(ジャンナ)か地獄(ジャハンナム)で過ごすことになる。天国は永遠の楽園であり、そこに入ったものは永遠に安楽な暮らしをすることができる。地獄は全く逆の場所で、そこに入ったものは永遠の責め苦に苦しむことになる。
ここで天国行きか地獄行きかを分けるものは当人の生前の行いだが、コーランにおいては、人間の生前の行いに報いるための独自の法則がある。単純化すると、生前に少しでも善いことをした者は、その人が行った行為の中で最も優れた善行によって全人生を判断され、悪いことを行った者は、悪行の総量によって判断されるということである。これは、善いことを行った者は自分が行った善いことの総量以上の褒美をもらうことができ、悪いことを行った者には悪行に見合った罰が与えられるということである。例えば、コーランを信仰し、善行を行おうと努力した者の場合は、たとえ少しばかり悪いことをしたことがあっても、それは見逃してもらえる。そればかりか、その人が行った行為の中で最も善いことを、一生涯行い続けた分だけの褒美を天国においてもらうことができるのである。コーランの中には、アッラーは人間の善行に対しては、それを十倍、あるいは何十倍にもして返すと記された部分もある。
したがって、コーランを読む限り、地獄に行くことになるのはかなり悪質な人間だと想像できる。しかし、このような人間に対しても、アッラーはその人が犯した罪以上の罰は与えない。生前に地上で行った悪事の1つ1つについて、それと同程度の苦しみを地獄で与えられることになるのである。
■天国と地獄
天国と地獄については、コーランに特別に詳しい描写はないが、簡単な描写はいくつか見つけることができる。天国は完全な楽園で、食うに困らない快適な場所である。具体的には、絶対に腐ることのない水が流れる川、味の変わらない乳の川、美酒の川、蜜の川などがあり、あらゆる種類の果物も実っている。暮らしぶりも贅沢で、金糸で飾られたねだい臥台に横たわり若々しい従者に酌をさせて酒を飲むことができるし、その酒はいくら飲んでも頭が痛くなったりしないという。また、鳥の肉も食い放題で、処女の妻まであたえられる。これに対して、地獄の方は基本的には燃え盛る炎に包まれた場所だとされており、煮えたぎる熱湯やどろどろの膿汁を呑まされる場所とされている。地獄のどん底にはザックームという奇怪な木も生えている。この木には悪魔の頭のような実が生っており、罪人たちはこの実を無理矢理に腹一杯食わされるのである。 |
世界の終わりの話目次 |
第1部 世紀末と終末論
世紀末と終末論の基礎知識
歴史観と終末論の種類
世界の紀年法と暦法
第2部 神話・終末文書に描かれた終末
第1章 円環的な歴史の中の終末
概説
洪水神話
北欧神話の終末(ラグナレク)
ヒンズー教の終末(永劫回帰)
第2章 直線的歴史と終末
概説/ユダヤ・キリスト教の終末文書
ダニエル書の描く終末
ヨハネの黙示録の描く終末
死海文書が描く終末
エチオピア語エノク書に描かれた終末
シリア語バルク書が描く終末
シビュラの託宣が描く終末
エズラ記(ラテン語)に描かれた終末
マラキ書が描く終末
コーランに描かれた終末
第3章 異教の終末文書
概説
ゾロアスター教の終末
仏教と末法思想の終末
マヤ・アステカ神話の終末
グノーシス主義が描く終末
パウロの黙示録に描かれた終末
第4章 千年王国思想
概説
『神の国』の千年王国
フィオーレのヨアキムが語る千年王国
カンパネッラの語る『太陽の都』
第三部 19世紀の世紀末と終末観
近代にも生きている終末思想
進化の果てに訪れる絶望的世界―H.G.ウエルズ『タイム・マシン』―1895
世紀末の人工ユートピアを求めて―J.K.ユイスマンス『さかしま』―1884
あとがき―未来が終末を迎えた |
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教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。 |
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