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フランボワイヤン・ワールド
新撰組と剣豪の話
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 小説
イオの末裔
〔Kindle版〕

販売開始しました。
《内容》
 教団拡大のために凶悪な犯罪もいとわない《鬼神真教》の教祖・サヤ婆(鬼塚サヤ)の孫として生まれた鬼塚宏樹(主人公=私)は鬼塚一族の残酷な行為を嫌って一族の家から逃亡し、裏切り者として追われる身になる。その恐怖から彼は各地を転々として暮らすしかない。やがて彼は大都市のK市である女に出会い、一時的に幸福な暮らしを手に入れる。だが、そんなある日、大都市の町中でサヤ婆を狂信する磯崎夫妻の姿を見つける。そのときから、彼の恐怖の一日が始まる。恐るべき鬼塚一族の人々が次々と彼の行く手に出現する。…、そして、彼の逃亡がまた始まる。はたして、彼は逃げ切れるのか。鬼塚一族の魔の手を逃れ、自由な暮らしを手に入れられるのか。
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イオの末裔
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イオの末裔
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土方歳三(ひじかたとしぞう)

●土方歳三のプロフィール
新撰組副長
天然理心流 
天保六年(1835)~明治二年(1869) 
局長近藤勇とともに新撰組を率いた副長である。近藤が新撰組の顔として幕府との折衝など外交的な面を受け持ったのに対し、新撰組の統制や組織運営など実務面の責任者だった。新撰組には厳しい局中法度があり違反した多くの隊士が切腹させられたが、こうした処分を指揮したのは土方だった。しかし、組織の運営・統制には非常に高い能力を発揮したので、その功績は大きい。近藤亡き後も最期まで旧幕府のために積極的に戦い続けたエネルギッシュな戦士である。
●土方歳三の略年表
天保六年(1835)  武蔵国多摩郡桑田村石田の農家・土方の四男に生まれる。 
嘉永四年(1851)  天然理心流に入門。 
文久三年(1863)  近藤勇ら試衛館の仲間と浪士組に参加、上洛し、壬生浪士組に参加。新撰組では副長となる。 
元治元年(1864)  池田屋事件では、土方隊を率い、途中から戦闘に参加し活躍する。 
明治元年(1868)  4月に近藤勇が官軍に出頭すると、一時新撰組と別行動をとり、旧幕府脱走陸軍参謀として北関東を転戦。その後会津で新撰組と合流。10月、榎本武揚率いる旧幕府脱走海軍とともに函館五稜郭に入り、五稜郭政府の陸軍奉行並に就任。 
明治二年5月  一本木関門の戦いで官軍の銃弾を腹部に受けて戦死。 

■エネルギッシュな土方と近藤勇の出会い

 土方は近藤勇と同じく多摩の農家の子である。幼くして両親を亡くしているが、その家は家伝の「石田散薬」を手広く商い、いわゆる「お大尽さま」だった。
 だが、奇妙な経歴がある。
 11歳で上野の松坂屋に奉公に出されるが、間もなく番頭と喧嘩をして飛び出している。17歳で再び伝馬町の呉服屋に奉公に出されるが、今度は店の女中と関係してしまい、首になっている。
 多分、わがままで、力が有り余っており、それをどうしたらよいかわからない少年だったのだ。奉公に出されたのも、少しくらいは行儀を学んだほうがいいという親族の考えがあったからだろう。
 それから、家伝の散薬の行商をするようになったが、薬箱と一緒に剣術道具を持ち歩いた。薬売りをしながら道場を見つけては、そこで剣術を学んだ。
 これが土方の運命を変えることになった。
 歳三の姉のぶは日野の名主佐藤彦五郎宅に嫁いでいたが、その家にも道場があった。その道場に教えに来ていたのが、天然理心流三代目近藤周助の養子となっていた近藤勇だったのだ。
 生まれた場所も、環境も、年齢も近い二人は、すぐに仲良くなった。17歳の土方はすぐにも天然理心流に入門、25歳の時には試衛館の師範代を勤めるまでに腕を上げた。
 こうして近藤勇と知り合ったことで、土方もまた京に上り、壬生浪士組に、さらには新撰組に参加することになったのだ。

■新撰組内部を厳しく統制したナンバー2

 新撰組における土方歳三といえば、なんといっても近藤勇に次ぐナンバー2として有名である。だが、当初からそうだったわけではなかった。
 芹沢鴨が粛清されて後も、新撰組ににおける序列は常に近藤→山南→土方であり、建前上は土方はナンバー3の隊士だった。
 文久3年末ごろ、山南は浪士との戦闘で大怪我を負い、新撰組の表舞台から姿を消した。この結果として、土方が実質ナンバー2として行動することになったのだ。
 このことの意味は大きかった。
 ナンバー1の近藤は新撰組の顔であり、その仕事は幕府との折衝など外交的なものが中心だった。そこで、京都市中見回りや新撰組内部の統制などの仕事は、すべて土方の肩にのしかかってきたのだ。
 新撰組には厳しい局中法度があり、それを破ったために十人以上の隊士が切腹しているが、こうした処罰によって新撰組を統制したのが土方だった。彼がひどく残忍な男だったと評されるのはこのためといっていい。
 しかし、この厳しさによって新撰組は一世を風靡する集団となりえたのである。

■抜きん出た行動力と洞察力

 実質的には新撰組の統率者だったといっていい土方は、もちろんただ厳しいだけの男ではなかった。
 慶応元年9月、将軍徳川家茂の上洛に同行した侍医の松本良順は土方を見て、「百事を為す、雷のごとし」といってその迅速な行動力をほめたことがある。
 その日、松本は西本願寺にあった新撰組の屯所を訪ねたのだが、ひどく不衛生な状態だった。松本は驚き、「病室を作り、湯桶を設けて入浴させなさい」と指示した。すると、数時間後に、土方がすべていわれたとおりにしたと報告に来た。そこで、松本が確認すると、病人たちはみな大部屋に敷かれた布団に寝ており、浴室には3個の湯桶が湯気を立てていたのである。
 その行動力に松本が驚いたのも当然といっていいだろう。
 土方はまた、洞察力にも優れた男だった。
 慶応4年1月の鳥羽伏見戦争で新撰組の属する幕府軍は、薩長軍の銃火の前に惨敗する。この後、江戸に戻った土方は「武器は銃砲でなければだめだ。剣など役に立たない」と語り、武器の洋式化を志向するようになる。
 新撰組の活躍の背後に、土方のこのように優れた行動力と洞察力があったわけだ。

■土方歳三と近藤勇の美学の相違

 試衛館時代からの仲間であり、ともに新撰組の局長、副長として戦い続けた近藤と土方は、確かに一心同体の存在のようにも見える。
 だが、実際には二人の資質はかなり違っていたようだ。
 新撰組が活躍した時代よりもずっと後のことだが、もと新徴組隊士で、新撰組とも接触のあった人物が次のように語っている。
「近藤も土方がいなかったら、もっと早く京都で暗殺されたかもしれない。土方が細心の注意を払ってたので、そうならなかった」と。
 こうした二人の資質の違いが、さらにはっきりと現われた場面がある。
 明治1年3月、新撰組は甲陽鎮撫隊という名で甲州で新政府軍と戦うが敗北、すぐにも再起し、流山に再結集した。4月3日、その本陣の家屋を不意をつく形で新政府軍の一隊が取り囲んだ。ただし、この一隊はそこに結集しているのが新撰組だと知っていたわけではなく、たんに賊軍と考えていただけだった。
 このとき近藤はすぐにも切腹を覚悟したのに対し、土方は強硬に反対した。
「ここで腹を切るのは犬死だ。あくまでも偽名を使い、われわれは無頼の賊軍を鎮撫するために兵を集めたので、官軍と敵対するつもりはないといえば、申し開きが立つ」
 そして近藤は数時間に渡る話し合いの後、ついに土方の意見を飲み、官軍に出頭し、逮捕されたのである。
 このことからも、近藤があくまでも大義名分を大事にしたのに対し、土方が実質を重んじていたことがわかる。言い方を変えるなら、近藤はロマンチストだったのに、土方は徹底的なリアリストだったのだ。

■新撰組を枠を超えて戦い続ける

 流山で官軍に出頭した近藤は、偽名を使ったものの間もなく新撰組局長近藤勇であることが露見し、4月25日に板橋で斬首された。
 近藤の死はある意味で新撰組の終局といってよかった。
 それでも土方が戦い続けたのは、やはり旧幕府のために戦うという実質を重んじたからといっていいだろう。
 近藤の逮捕後も新撰組は存続するのだが、これ以降の土方はすでに新撰組の枠の外にいたといっていい。
 近藤の逮捕後、新撰組のメンバーは会津へ向かったが、土方は一時新撰組を離れ、旧幕府脱走陸軍に加わり、参謀として大活躍する。
 間もなく、榎本武揚が旧幕府脱走海軍を率いて合流すると、旧幕府脱走軍は北海道の函館五稜郭に入り、五稜郭独立政府を樹立する。
 この段階で土方は五稜郭政府の陸軍奉行並(中将)となる。五稜郭政府には新撰組も参加し、土方はその責任者となるが、もはやたんなる新撰組のトップではないのである。
 だが、土方は旧幕府軍の勝利を夢見たわけではなかった。
 函館に来る直前、松本良順と最後の会話を交わした土方は、次のようにいったという。
「北海道で戦うのは、幕府が倒れようとしているのに誰も戦って死ぬ者がいないのを恥じてのことで、勝算などないのだ。君のように前途有望な人は江戸に戻ったほうがいい。わたしは無能だから、快く戦い、死ぬだけだ」
 そしてその言葉のとおり、函館における戦いに出陣した土方は一本木関門で戦死する。馬上から指揮をとっていた彼の腹部を敵の銃弾が貫通したのだ。
 享年35歳だった。

■モテモテ美男子の笑顔を消した重責

 上洛して新撰組に参加してからの土方の人生は自分に与えられた責任を十分に果たし、徹頭徹尾苛烈に戦い続けたという印象がある。
 だが、そんな土方にも当たり前の若者らしい一面もあった。
 現存する土方の写真を見ればわかるが、彼は現在でも美男子で通用するいい男だった。しかも、新撰組ともなれば京都ではいやというほど女にもてた。
 すると土方は上洛して8ヶ月ほど後に、そのモテぶりを手紙で故郷に報告したりしているのだ。その証拠として、日野の天然理心流一門に自分に宛てられたラブレターの束を小包で送ったこともある。
 土方は風流心もあり、若いころは豊玉(ほうぎょく)という号で俳句も詠んでおり、上洛前に『豊玉発句集』として自宅に残している。その中に次の句もある。
「しれば迷ひしらねば迷わぬ恋の道」
 にもかかわらず、明治になって、土方と敵対していた志士の生き残りたちは、その多くが彼を冷酷無慙な男だったと評している。めったに笑わない男だったという評もある。
 新撰組副長という重責が彼の顔から若者らしい笑顔を奪ったのだろうか。
 新撰組と剣豪の話 目次
新撰組隊士

新撰組と時代背景
近藤勇
土方歳三
沖田総司
永倉新八
斎藤一
原田左之助
藤堂平助
島田魁
林信太郎
山野八十八
大石鍬次郎
尾形俊太郎
山南敬助
山崎烝
芹沢鴨
新見錦
平山五郎
武田観柳斎
谷三十郎
伊東甲子太郎
篠原泰之助

志士たち

坂本龍馬
中岡慎太郎
岡田以蔵
桂小五郎
河上彦斎
西郷隆盛
大久保利通
中村半次郎

剣豪

吉岡直綱
上泉伊勢守信綱
念阿弥慈音
斎藤歓之助
逸見宗助
小野忠常
加藤久
仏生寺弥助虎正
荒木又右衛門
堀部安兵衛
佐々木小次郎
高柳又四郎
千葉周作
柳生十兵衛
柳生兵庫助
宮本武蔵
大石進
半沢成恒
小野忠明
古藤田俊直
樋口定次
師岡一羽
辻月丹
斎藤弥九郎
東郷重位
剣豪学

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